自由な人として生きる心得

「自由な人として生きる心得」 一月第二主日礼拝 宣教 2020年1月12日

 ペトロの手紙Ⅰ 2章16〜17節        牧師 河野信一郎

今朝は、ペトロの第一の手紙2章16節と17節をテキストに、「自由な人として生きる心得」という主題で宣教をさせていただこうと思いますが、成人式を明日迎える若者たちやこれから時代を担ってゆく人たちのことを考え、彼ら彼女らにはどのようなメッセージが必要だろうかと考え、祈りながら導かれたのがこの箇所です。

他にも、例えば詩編119編9節の「どのようにして、若者は歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです」とか、箴言3章5節6節の「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」という言葉とか、ヘブライ人への手紙12章5節から7節の「『わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を皆、鞭打たれるからである。』あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」という候補もあったのですが、家族で夕食をしている時に成人の日のことが話題になり、「二十歳になったらお姉ちゃんお酒が飲めるね」と他の子どもがふざけて言ったことが心に残りました。私は、「お酒は飲まない」と決めているのでまったく飲みません。飲みたいとも思いませんが、成人した子どもに「お酒を飲んではいけない」と強要するつもりはまったくありません。飲むか、飲まないか、それを判断するのは彼らの自由ですし、自分でよく考えて、責任を持って決めれば良いと私は親として思っています。ただ、私がいる家、空間では飲まないで欲しいとだけ言っています。

大人への階段を登る中で、まず社会的責任を負ってゆかなければなりません。社会人として当然なことです。また、彼らの行動範囲はますます広くなり、様々な出会いがあり、好奇心も大きくなることでしょうし、挑戦したいことも、誘惑も色々と増えるでしょう。大人になる子たちを信頼し、見守りたいと思っていますが、彼らが幼い頃からずっと言い聞かせてきたことがあります。それは、「君たちは自由だ。何をやっても良い。お父さんも若い頃は色々なことをやった。でも、これだけはいつも心に刻んで覚えておきなさい。人様に迷惑をかけてはいけない。また、あなたたちは神様とたくさんの人たちに愛され、祈られている。だから神様とその人たちを悲しませてはいけない」、そのように口を酸っぱくして言ってきました。

しかし、もっと前向きな言い方をすれば良かったと悔やんでいます。「神様はあなたに素晴らしい命を与え、恵みを与え、自由を与えてくださっている。この自由を存分に用いて、たくさんの貴重な経験を重ね、成長してゆく中で神様と人々を大いに喜ばせなさい」、そのように励ますべきだったと思っています。さあ、彼らはどう歩んでゆくでしょうか。教会に与えられている子どもたちは、皆さんの子どもであり、孫たちのような存在です。皆さんも子どもたちの成長を本当に楽しみにしてくださっていると思いますが、彼らが、彼女らが成長してゆく中で、サタンの誘惑に負けないようにお祈りに覚えていただければ幸いです。

さて、今朝の聖書箇所は2章16節と17節ですが、11節から17節のセクションで、使徒ペトロは、この社会の中でクリスチャン、キリストに従う者としてどのように生きてゆくべきか、心得ておくべきことを記し、わたしたちを励ましてくれています。つまり、この日本の社会の中でも責任を負って、社会人として立派に歩みなさいということが記されています。

私の長女は、二十歳になってから税務署や社会年金機構といった機関から書類が送られてくるようになりました。彼女は、負うべき責任を目の当たりにし、緊張し、少し慌てふためいていますが、成人するとはこういうことなのだと判ってきているようです。社会人として社会制度に従い、責任を果たすことを日々覚えてゆかなければなりませんが、使徒ペトロはそういう社会の制度、行政に携わる人々の言うことに従いなさいと言っています。このような彼の言葉には背景があり、以前イエス様から直に命じられたことがあります。それはマタイによる福音書17章24節から27節に記されていることですので、読んでみたいと思います。

「一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、『あなたたちの先生は神殿税を納めないのか』と言った。ペトロは、『納めます』と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。『シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。』ペトロが『ほかの人々からです』と答えると、イエスは言われた。『では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい』」

使徒ペトロには、この主イエス様の言葉がいつも心の中にあり、クリスチャンとしても社会的責任を負うことの大切さをいつも感じていました。ですから、人々を躓かせないためにも、クリスチャンと教会は納めなければならないものは納めてゆかなければならないわけです。このイエス様の言葉に聞き従い、湖に行って釣りをしたペトロは、イエス様の言葉通りになったこと、つまり最初に取れた魚を取って口を開けると銀貨一枚が見つかって、それを税金として収めると言う経験をしてゆくのです。わたしたちに納めるお金がなかったとしても、主の言葉に聞き従う時、全ての必要は満たされる、その主の真実さをペトロは体験し、その主の真実さ、恵みを体験してみなさいとわたしたちを招くのです。

神様にはいつも忠実に、人々にはいつも誠実にわたしたちが生きることを主なる神様とイエス様はわたしたちに期待しておられます。それが御心です。15節にも「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」とあります。そのためには、まず自分がいつも信実でなければなりません。自分に対しても正直でなければなりません。そのために必要なのが救い主イエス様を信じ、このお方の言葉に聞き従うと言うことです。

「自由な人として生活しなさい」と使徒ペトロはわたしたちを励まします。この自由は、イエス・キリストを通して神様から与えられた恵みです。この自由という恵みをネガテイブなことをすることに用いず、ポジティブなことをするために存分に用いなさいと励まします。この自由を自分のために用いるのではなく、神の僕として行動するために、神の僕として神と人と教会のために仕えるために用いなさいと励まされています。この日本という国の中で、福音の前進のためにそれを用いなさいと励まされています。

子どもから大人になる中で、わたしたちクリスチャンが社会の中で負うべき責任は、第一に主の僕として主に忠実に仕えること、第二にすべての人を敬うこと、第三に教会の兄弟姉妹たち、神の家族を心から愛すること、そして第四に「皇帝を敬いなさい」とありますが、これは社会的責任を果たすということです。それが神様の御心です。社会的責任をどうしても負えない人たちもおられますが、その方々に寄り添って、共に生きることも神様の御心です。今朝、そのことを覚えたいと思います。

さて、今朝は私が出会った人を紹介して終わりたいと思います。この方はYさんというクリスチャンで、H教会の教会員であられた方ですが、残念なことに2020年になったばかりの1月1日の午前1時過ぎに急に主のみ許に召されました。連合の壮年会でご一緒させていただきましたが、寡黙な方でした。役員会や会合には絶対と言ってよいほど毎回出席され、いつも早めに会場に到着するような真面目な方でした。しかし、彼のプライベートなことは何一つ知りませんでした。このYさんの告別式が昨日あり、府中まで行って来ました。

皆さんに昨日の告別式のプログラムを見ていただきたいと思って写真を撮ってプロジェクターで映し出していますが、彼はジャズをこよなく愛していたそうで、アマチュアジャズバンドのドラマーを長年されていたそうです。社会人としてもブリジストンの技術センターで技術開発に長くたずさわれられ、退職後は音響コンサルタントとしても活躍されたということですが、75歳で天に召されるまで独身であられたことも知りませんでした。昨日の葬儀は、Yさんのことを次々と発見する時となりましたが、一番びっくりしたことを皆さんと分かち合いたいと思います。

スクリーンの写真をご覧ください。これはYさんの告別式の式次第が記されているプログラム用紙ですがこれをご覧になって、「あれ」っと思われる部分はないでしょうか。もう少し拡大したものをお見せしますが、「No.1369」とあります。私はすぐに気づきましたが、週報にはこのような通し番号を記載しますが、告別式のプログラムには普通記しません。しかし、Y牧師がその理由をお話されました。この「1369」という数字は、H教会が伝道所の時代から守って来た礼拝の回数だそうです。1994年5月に礼拝が開始され、今日まで26年の間にささげられて来た礼拝の回数で、Yさんが幡ヶ谷教会で礼拝を捧げられて来た回数だとおっしゃったのです。つまり、26年以上にわたって、礼拝を一度も休んだことがない方であったそうです。教会の集会は10時半から始まるのに、いつも3時間前の7時半には必ず教会の鍵を開けて、週報を印刷したり、部屋を温めたり、お湯を沸かしたり、礼拝の準備をされる執事、キリストの僕であったというのです。これがYさんが主の僕として自由に生きた人生であり、神を愛し、畏れ、すべての人を敬い、教会を愛し、僕としての責任を全うされた生き方であったのです。わたしたちも皆「自由な人」です。この自由を何のために用いましょうか。イエス様はどのように用いられたでしょうか。主の僕として生きる人生は、幸いな人生です。主がいつも共にいて、助け導き、わたしたちの必要を満たし、主の忠実な僕として主の御用のために用いてくださいます。信じ従いましょう。