「良いものを備え、与える神」 二月第二主日礼拝 宣教 2026年2月8日
詩編 84編2〜13節 牧師 河野信一郎
おはようございます。教会へお帰りなさい。今朝4時前に起きて最初に布団の上で短い祈りをささげた後にわたしが真っ先にしたことは、外の様子を確認することでした。積雪があってお休みの方も多いですが、皆さんが教会に戻れるかと心配しておりましたが、主の愛に守られ、このように礼拝堂に集められて、礼拝をおささげできる幸いが与えられていることを神様に感謝いたします。
先週の朝の礼拝の出席者数は28名でしたが、いつも出席される方が子どもを含めて10名ほどお休みでした。つまり、みんなが集えば、38名の礼拝がささげられます。オンラインで礼拝をささげておられる方々を含めれば40名以上になるでしょう。朝の礼拝の出席数の目標は45名ですから、まず40名の出席を目指しましょう。そのためにさらなる祝福を神様に祈り求めましょう。そして恵みを受けたならば、その応答を神様にしましょう。わたしたち大久保教会は、「主の日を実生活の出発点とします」と告白します。主の日は、礼拝を通して神様とイエス様を愛する日です。無条件に愛されているから、わたしたちも心を尽くして神様を愛します。神様を愛しているから、共に御言葉に聴きます。祈りと交わりを通してお互いを励まし合い、礼拝とささげもの、奉仕をもって教会を共に建て上げます。
さて、この月は、「神様の備え」というテーマでメッセージをさせていただいています。今朝は、詩編84編が導かれましたが、その中でも12節後半の「完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとなさいません」という言葉が心に留まりました。子どもメッセージの中で子どもたちに分かち合いましたように、神様を愛し、御言葉に従う人に神様は良いものを惜しみなく与えてくださいます。わたしたちの太陽となってわたしたちを照らし、導き、生きる力を日々与えてくださいます。盾となって様々な霊的な戦いからわたしたちを日々守ってくださいます。わたしたちに恵みを与えてくださり、神の子としての栄光を与え、喜びで満たしてくださいます。いかに幸いなことでしょう、神様に愛されていることをイエス・キリストを通して知り、その愛と憐れみのうちに感謝して生きる者は。
そのような中で、わたしたちに大切なのは、「完全な道を歩む」ことをいつも求めるという事です。先週、「完全な道を歩く人」として、アブラハムに注目しました。アブラハムは神様に愛された人であり、神様を愛した人です。神様を愛するとは、神様に全幅の信頼を置くということです。神様に信頼を置くとは、神様の言葉に服従するということです。服従するとは、人生の中で最も大切なのは神様であると信じて従うことです。神様は、わたしたちの信仰を試練の中でご覧になられます。神様は、アブラハムに「あなたの愛する子をわたしにささげよ」とお命じになりましたが、アブラハムはその無慈悲と思えるような神様の言葉に服従しました。彼の信仰をご覧になられた神様はアブラハムを喜ばれ、息子の代わりに雄羊を備えてくださり、アブラハムはその雄羊をいけにえとして神様におささげしました。
わたしたちは、アブラハムのような神様に服従する強い意志は持ち得ていません。「完全な道を歩む」ことなど絶対不可能と思ってしまいます。しかし、だからと言って簡単に自分を諦めるのではなく、自分の弱さを神様のもとへ携えてゆき、神様に依り頼むことが大切です。神様は、わたしたちが弱いことは百も承知です。ですから、イエス様を救い主としてわたしたちのもとへ送ってくださり、イエス様が共に歩んでくださるとまで約束してくださいます。それほどまでに、わたしたちは神様に愛されている存在で、それは本当に大きな驚きです。しかし、それがアメイジング・グレイス、驚くべき神様の愛、恵みなのです。
詩編84編13節に、「万軍の主よ、あなたに依り頼む人はいかに幸いなことでしょう」とあります。わたしたちを幸いな者とするために、神様はイエス・キリストという救い主をお与えくださり、このイエス様がわたしたちの罪の贖いとして十字架に死んでくださいました。その十字架に神様とイエス様の愛がはっきりと示されています。ですから、わたしたちに必要なことは、御子を与えてくださるほどにわたしたちを愛してくださる神様に日々依り頼みつつ生きることです。そのような人に主が伴ってくださいます。
今朝の聖書箇所である詩編84編は、エルサレムの神殿で礼拝をささげるために旅をした巡礼者の賛美です。その巡礼の最中に詠ったものかもしれませんし、巡礼の旅を終えて、エルサレムの神殿で過ごした貴重な時間を思い起こしながら詠ったものかもしれません。その巡礼の旅は、必ずしもすべて順調であったとは限りません。天候に左右されたり、病気になったり、疲労が溜まって動けなくなったり、無駄な出費が重なったりと色々あるでしょう。
今朝、この礼拝堂におられる皆さんも、様々な工夫、やりくりをして教会に来られた、戻られたとお察しします。雪のために教会に来るだけでも大変であったかもしれません。幼い子どもを連れて教会に戻ることも大変でしょう。礼拝に来ても、子どもの世話でまともにメッセージも聞けない状態があり、奉仕の責任に心が奪われるということもあるでしょう。わたしには皆さんの心の内は分かりませんが、慈しみの神様はすべて知ってくださっています。
この詩編84編を詠った巡礼者は、2節と3節で「万軍の主よ、あなたのいますところは どれほど愛されていることでしょう。主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。」と心の内を神様にささげています。驚きと感謝をもって主を賛美しています。神様の聖所に来て、身も心も主の前に置くことができる幸いに感動し、その喜びを素直に表しています。これまでの旅を守り導いてくださった神様に感謝し、聖なる場所はなんと居心地の良い、心が安らぐ所かと感動の言葉を発しています。
今朝、神様はわたしたちをこの教会へと招き、わたしたちの心を感動と喜びで満たしたいと願っておられます。しかし、せっかく恵みの座に招かれているのに、わたしたちの心は過ぎ去った事に今も捕らわれていたり、これから起こる事を思い煩いすぎて心が神様に向いていない、心が完全に開いていない、だから祝福を十分に受けられない状態かもしれません。
では、わたしたちはどうしたら良いのでしょうか。答えは単純です。その思いをそのまま神様に明け渡したら良いのです。4節に、「主よ、あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。」とあるように、教会をあなたの信仰の住み家にするのです。月曜から土曜まで自分の住み家があっても、日曜日は信仰の住み家へ、神様の御前に戻って来て、その羽を休ませるのです。イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と招いてくださいます。5節に、「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら。」とあります。幸いな生活、それは神様の家に住むことです。
6節に「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。」とありますが、本当に幸いな人は、神様に信頼し、勇気をもって主の導きに従う人、イエス様の道を歩む人です。深い霧の中を歩むように見えても、イエス様だけを頼りに一歩一歩、一日一日を歩むこと、イエス様から差し出される御手、十字架に付けられた時に負った釘の跡のある主の手を握って、イエス様の導きに従う人に主の幸いがあるのです。
主イエス様と共に生きる時に、7節、「嘆きの谷を通るときも、主が備えを与えてくださり、そこを泉としてくださいます。主なる神が雨を降らせてわたしたちの渇いた心を潤し、祝福で覆ってくださいます。」 8節、「わたしたちは神様の愛で満たされ、前進する力が与えられ、神様の御前に自分を置く力、主に依り頼む信仰が育まれます。御前に自分を置く者を神様はつつみ込み、親しく語り合ってくださいます。
その語り合いの中で、その交わりの中で、神様はわたしたちの心にあることを聞いてくださいます。9節と10節の祈り、「万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。ヤコブの神よ、耳を傾けてください。神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり、あなたがたが油注がれた人を顧みてください。」は、イエス・キリストによって完全に顧みられるのです。わたしたちに必要なのは、イエス様の御手を握りしめ、決して離さない信仰です。
11節前半に、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。」とあります。生きる目的や意味を知らず、どこに向かって生きているか分からない不安と不満と怒りに満ちた人生を歩むよりも、神様の御前で過ごす一日のほうが遥かに充実した良い日だと告白しています。
「主に逆らう者の天幕で長らえるよりは、わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」とありますが、「主に逆らう者の天幕で長らえる」とは、希望のない闇の中に、罪の中に生きるということです。この世の価値観の中で生きるのではなく、神様の愛の中に生きることが幸いな命なのです。この詩人は、「神の家の門口に立っているのを選びます。」と言っています。すなわち、主なる神に依り頼みながら、主をほめ讃えながら生きることが幸いだ、その道を信仰をもって選び取り、その道を歩みますと告白しています。
12節、「主は太陽、盾。神は恵み、栄光。完全な道を歩く人に主は与え、良いものを拒もうとはなさいません。」とあります。主イエス様の手を離さずに、イエス様の導きに従う者に神様は良いものを惜しまずに与えてくださいます。この主に依り頼む人は幸いです。
