若者よ、神を畏れ、その戒めを守れ

「若者よ、神を畏れ、その戒めを守れ」 十一月第三主日礼拝 宣教 2023年11月19日

 コヘレトの言葉 11章9〜12章2節、13節     牧師 河野信一郎

  おはようございます。今朝もご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に心から感謝いたします。今朝は、礼拝後に子ども祝福式と女性会による「世界バプテスト祈祷週間」のアピールがあり、午後から星野富弘アート展が開かれますので、いつもより短いメッセージになります。しかし、どうしてもアナウンスすべき事が一つありますので、最初に案内をさせていただきたいと思います。来週26日の主日礼拝では、日本バプテスト宣教団のZJ宣教師をメッセンジャーとしてお迎えします。日本へ派遣される前、Zさんと妻のHさんはC国へ派遣されていました。現在Cではキリスト教の布教は禁じられていますが、神様がCへの扉を再び開いてくださると信じて祈ります。J宣教師を通して語られる世界宣教の必要性、貴重なメッセージをご一緒に聴きましょう。

 さて、今朝、大久保教会の礼拝に出席されている方々は、玄関を入ってこられていつもの雰囲気と違うことに驚かれたと思います。星野富弘さんのアート展が開かれていますが、色鮮やかな花々が視界に入ってきたと思います。花々の絵も本当に素敵ですが、富弘さんの澄み切った心から紡ぎ出される優しい詩・言葉に大いに慰められ、励まされることがあると思います。素晴らしい作品がたくさん展示されています。礼拝後には、この礼拝堂にも作品が展示され、9分程度の短いビデオも上映されます。礼拝の後、すぐにお帰りにならないで、是非とも礼拝後に一枚一枚の詩画を楽しんでいただきたいと思います。

 わたしが最も感動したのは、作品ではなく、若かりし頃の富弘さんが10グラムの筆を口に咥えて、パレットにある絵の具を筆につけ、今から絵を描こうとしている真剣な眼差しが写された一枚の写真です。その目に富弘さんの生きる力が見えます。神様の愛に生かされている富弘さんの生きようとする真剣さが描写されています。

 コヘレトの言葉からメッセージを語る準備をしていたわたしの心に強く迫ってきたのは、2001年に描かれた「木の葉」という作品です。今、日本は紅葉の季節ですが、まさしく秋にぴったりの詩画です。詩は、こういう言葉です。「木にある時は枝に委ね、枝を離れれば風にまかせ、地に落ちれば土と眠る。神様に委ねた人生なら、木の葉のように一番美しくなって散れるだろう。」   1日1日を神様に委ねながら真剣に生きておられる富弘さんの信仰がよく分かる作品であると思います。礼拝の後、どうぞすぐにお帰りにならないで、星野富弘さんの詩画をとおして神様の恵みを存分に味わっていただきたいと願います。

 さて、シリーズで学んでいます「コヘレトの言葉」も、今朝のメッセージで最終回となります。12回にわたるメッセージ、皆さんの心にどのように響いたでしょうか。心に何かしらの変化があったでしょうか。もし何も感じなかったと言われるならば、それはわたしにとって非常に残念、空しいと言わざるを得ません。コヘレトの言葉からメッセージを語るための祈りと準備、そこに費やした時間と努力は何であったのかと感じてしまうからです。コヘレトの言葉には、「空しい」という非常に人生に悲観的な言葉が全体的に38回も繰り返されていて、「これでも本当に聖書なのか」と驚きを覚え、不可解な思いにさせられた方も多いと思います。この書が「聖書」の一部として加えられている事が本当に価値あることなのかと過去に何度も議論されてきましたが、この書が旧約聖書の39巻の一つに加えられた決定的理由、それは12章13節の言葉があったからだという神学的一致があります。

 すなわち、コヘレトという教師の「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』 これこそ、人間のすべて」という言葉です。コヘレトがこの地上にあるすべての事柄に心と目と耳など、五感を傾けて、集中して収集した人間に関わる現実に関する結論が、「神を畏れ、その戒めを守れ」ということ、「神様を第一にし、その御言葉に聴き、そして御言葉を行いなさい」という事です。「御言葉に生きよ」という事です。このことはわたしたちにとって非常に重要なことですので、最後にもう一度触れたいと思います。

 コヘレトの言葉に聴くシリーズの最終回に導かれた聖書箇所は、11章9節から10節、12章1節から2節、そして2章13節です。ここから三つのことを短くお話ししたいと思います。

 まず11章9節から10節にこのようにあります。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい」と。ここにも「空しい」という言葉があって、若さも青春も空しいとコヘレトは言います。どこまで心が歪んでいるんだと思われるかもしれませんが、コヘレトの言葉を読む時に持っておかなければならない認識が二つあります。

 一つは、この時代の平均寿命は40歳から45歳であったということです。今の日本の「人生100年」というのは、コヘレトの時代に生きる人々には夢のまた夢であって、死という人生の終わりが非常に身近にあったのです。もう一つは、この「空しい」と訳されるヘブル語「へベル」は、「短い」とか、「つかの間」という意味があって、人に与えられた命、その時間は短い、つかの間、限られているという緊張感が人々にはあったということです。

 日本に生きる10代、20代の若者は、自分たちにはあと80年、90年の人生がある、何をして生きよう、どこへ行こうか、何が楽しめるだろうかという人生への期待感があるでしょう。しかし、わたしのように50代後半を過ぎると、残り少ない人生をどのように生きようか、何をして生きるべきか、子どもたちに何が残せるだろうかと真剣に考えさせられるわけです。つまり、コヘレトという教師は、「若者たちよ、若いうちに人生を楽しみなさい、たくさんのことを経験しなさい、人生はつかの間だからこそ1日1日を大切に生きなさい」と勧めるのです。年を重ねたわたしたちには、「この地上での限られた日々、残された日々を大切に生きなさい」と励ますのです。

 9節後半に「知っておくがよい、神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれる」とありますが、これは「神があなたを支配して導く」と訳すことができるそうです。つまり、「神様のご支配の中に、主の御手の中に生かされている人生だからこそ、与えられた今日を、この一瞬一瞬を精一杯生きよ、徹底して生きよ」という励ましがあるのです。

 12章1節から2節に、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに」とあります。この「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」が、最新の日本語訳聖書では、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」と訳されています。心に刻むことは痛みが伴いますが、自分に命を与えてくださっている神様をいつも近くに感じながら生きることの大切さが教えられているように思います。

 また、コヘレトは「若いうちに創造主を知れば、年を取って幸せになれる」とは言っていません。コヘレトという教師がここでわたしたちに伝えたかったこと、それは「今日、今のこの時は神様から与えられている掛け替えのない賜物だから、この恵みを感謝して受け取り、主への信頼と喜びをもって生きなさい、楽しみなさい」ということだと思います。わたしたちの人生は、山あり谷ありです。楽しいことだけでなく、辛いこと、苦しいことも繰り返し経験します。無駄に過ごす弱さもあります。しかし、そのような日々、時間は、神様から与えられている掛け替えのない日々であり、決して戻らない貴重な時間です。だからこそ、今日を、その貴重な時間を貴重はものを扱うかのように生きなさいと励ましているのです。

 コヘレトいう教師、学者は、その知恵をもって多くの格言を吟味し、研究し、編集しました。彼は望ましい語句を世界中に探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとしました。そして彼がたどり着いた結論、その一つは人の人生は短いということ、二つ目は人生の最後には、富む人、貧しい人にも平等に死があるということ、三つ目はこのことを追求すれば心も体も疲れると言うことです。

 自分のためだけに生きれば、心も身体も疲れ果てるのです。しかし、自分の命は自分のものではなく、神様のもの、この命を神様と誰か人のために用いよう、用いさせていただきたいと神様に願い求める時、神様がわたしたちに生きる意味も、生きる目的・生きがいも、生きる力も、前向きに生きる力も祝福をもってすべて与えてくださるのです。だから1日も早い段階から、今日から「神を畏れ、その戒めを守りなさい。それがあなたのすべてだ」とコヘレトは励ますのです。「人生の現実を直視しなさい、その上で神様に信頼し、神様に委ねながら自分にできることは懸命に取り組んで生きてゆきなさい、神様があなたを生かし、命を守り、必要を満たし、そして導くから、だから主なる神様を信じて御言葉に日々従いなさい」と今朝、それぞれの心に主が語られ、信仰への招かれるのです。主に感謝です。