言い訳はやめ、本気を出そう

「言い訳はやめ、本気を出そう」 二月第一主日礼拝      宣教要旨 2017年2月5日

  ヨハネによる福音書 5章1〜9節       牧師 河野信一郎

 2017年に入ってから、主イエスがなされた奇蹟の数々をテーマに宣教してきました。最初は、主イエスがガリラヤ地方カナの婚礼の場で水を素晴らしいぶどう酒にご意志だけで変えられたという奇蹟。次は、同じカナで王に仕えている役人の息子を言葉だけで癒された奇蹟。三回目は、マルコ福音書から、中風の人が4人の友の信仰によって主イエスに癒される奇蹟から福音を聞きました。今回は。ヨハネによる福音書5章に記されている38年もの間、身体が不自由であって人が癒される奇蹟から聴いてゆきたいと思います。

 なぜ立て続けに主イエスの奇蹟の業についてばかり宣教するのか。答えはいたって簡単で、わたしは神と主イエスの愛の力、奇蹟を心から信じるからです。そして、皆さんにもその奇蹟を、愛の力を信じてほしいからです。聖書には、イエス・キリストを救い主と信じる者、救いを求める者に、神は奇蹟を起こして、自由への道を開いてくださることが記されています。私たちに大切なのは、現状や目先のことだけを見て、すぐに諦めないことです。本気で唯一まことの神と救い主イエスを信じ、委ね、従ってゆくことです。

 1節から読んでゆきますと、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られ、その際に「羊の門」の傍にある「ベトザタ」という池に行かれた事が記されています。その池は病院ではないのですが、池の周辺には病人、盲人、足が不自由な人、身体が麻痺した人たちが大勢横たわっていたとあります。その理由は、この人たちは「水の動くのを待っていた。それは主の使いがときどき池に降りて来て、水が動く事があり、水が動いた時、真っ先に水に入る者はどんな病気にかかっていても癒されたからである」と記されています。

 さて、この池に38年間も病気に悩み苦しんでいた人がありました。主イエスは「その人が横たわっているのを見、またもう長い間、病気であるのを知った」と記されています。このような状況のその後のパターンを他の3つのマタイ、マルコ、ルカによる福音書を見てみますと、「イエスはその人を哀れに思って、その人に「起きて、あなたの床を取り上げ、家に帰りなさい」というのが典型的なのですが、このヨハネによる福音書はだいぶ違います。主イエスは38年間も病気に苦しみ、ずっと癒されたいと願っていた人に向かって、「良くなりたいのか」と尋ねられるのです。「本当に良くなりたいのか。本当に治りたいのか」と。

 もしわたしがそのように尋ねられたら、「当たり前じゃないですか。良くなりたい。癒されたい。病気によって38年間も自由を奪われてきたのです。悩み苦しんできたのです。治りたいのは当たり前のことです。当然のことを聞かないで!!」と憤慨して言うでしょう。

 しかし、主イエスは敢えてそのように尋ねることで、この不自由な人にあることを確認しているようです。そして、主イエスは私たち一人ひとりにも同じ問いかけをされているのではないかと思うのです。それはつまり、「あなたは本当に癒されたいのですか。心の底から救われたいと願い求めているのですか。本当に『自由』になりたいのですか」と尋ねることで、私たちの「本気度」を確かめたかったのです。

 「イエスは、その人が横たわっているのを見、またもう長い間病気であることを知って」と6節にあります。この「知る」という言葉には、「相手の痛みを自分のものとする」という意味があります。ですから、主イエスがこの38年間も病に苦しんでいた人を知ってくださったとは、主がその人の苦しみ・痛みという重荷を共に担ってくださるという決意をされたということなのです。同じ様に、主イエスは私たち一人一人を知り、私たちの重荷を共に担ってくださるお方なのです。主イエスがそのようにしてくださるので、私たちは救われ、癒され、励まされ、新しい力を主から日々受けて歩むことができるのです。

 しかしながら、「良くなりたいのか」と主イエスに尋ねられた人は、何と返答したでしょうか。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」と7節にあります。主イエスが「本当に良くなりたいのか」と確認したのは、この人がすでに「諦めモード」になって、希望を抱く事を止めてしまっていたからです。私たちも、現実を直視する時、自分の力ではどうすることもできないので、心の「諦めモード」のスイッチをオンにしてしまっていないでしょうか。「もう仕方がない。諦めるほうが賢い。」と思ってしまっていないでしょうか。

 しかし、主イエスはそのような諦めモードになって希望を持てない者、人生に喜びも生き甲斐も感じない状態にいる私たちを救い出すために私たちのもとに来てくださったのです。罪と死の縄目から解き放ち、救ってくださり、新しい者に造り変えるために主イエスは十字架に架かって贖いの死を遂げてくださったのです。それを覚えるのが「主の晩餐式」です。

 病にあった人が主イエスに答えた言葉から、大切にしたい3つのことを覚えたいと思います。

 第一に、言い訳をしないということです。様々な問題・課題に直面するとき、私たちは言い訳を並べて自分を守ろうとします。しかし、言い訳することを止め、主イエスを信じてゆくとき、私たちは救われます。

 第二に、自分の問題・課題の解決を人任せにしないで、自分で主イエスにより頼んでゆくことです。

 第三に、自分の弱さを素直に認めて、絶大なる力を持たれる神と主イエスにすべてを委ねてゆくことです。そうするとき、私たちは全てのしがらみ、束縛から解放され、真の自由が与えられます。

 もし私たちが、いま苦しみの中にあっても、言い訳や御託を並べることを止め、自分の力や人の力に頼ることを止め、自分の弱さを認めつつ、主に信頼し、委ねてゆくならば、主は私たち一人一人を憐れみ救い、造り変え、神と人のために生きる新しい使命、人生の目的をお与えくださいます。

 最後に8節の主の言葉に注目しましょう。38年間も不自由で苦しい生活を送っていた人に対し、主イエスは「起き上がりなさい。床を担いで、歩きなさい」と命じられます。

 「起き上がりなさい」という言葉は、命令というよりも、あなたが現在抱えている苦しみ、不自由さからあなたを救うという主イエスの「救いの宣言」です。

 「床を担いで」という言葉は、今まで味わって来た過去の苦しみからあなたを解放し、自由を与えるという主の「解放の宣言」です。

 「歩きなさい」という言葉は、これからわたしがあなたと共に歩むから、心配しないでわたしに従って来なさいという、将来を保証する主の「祝福と約束の言葉」です。

 主イエスは、私たち一人一人を過去の苦しみから解放し、現在の苦悩から救い出して自由を与え、将来に希望と生きる力を与えてくださいます。この神から遣わされた救い主イエスを信じるとき、私たちは「すぐに良くなって、床を担いで歩き」出せるのです。言い訳をすること、すぐに諦めるのは簡単ですが、そこには救いはありません。平安も、喜びも、希望もありません。ですから、主の御名によって、それを止めましょう。

 「良くなりたいか」という主イエスの問いかけに、共に「ハイ」と答えましょう。