試練も御心と信じて委ねる

「試練も御心と信じて委ねる」 七月第三主日礼拝 宣教 2024年7月21日

 ペトロの手紙一 4章12〜19節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。いかがお過ごしでしょうか。今朝も主の憐れみとお招きの中、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。ニュースでも連日取り上げられていますように、新たなコロナ変異株による感染が、第11波として全国的に増加の一途をたどっています。また、猛暑、酷暑の日々が続き、熱中症になられる方々も増えています。今週前半は、大変暑い日々が続くとの予報です。どうぞ暑さ対策を万全にしてお過ごしください。旅行をこの夏なさる方も、外に出られる時は直射日光を避け、水分補給もしっかりしてください。皆さんが日々護られて過ごせますように、覚えてお祈りいたします。

 

さて、今朝は、「試練も御心と信じて委ねる」と題して、第一ペトロの手紙4章12節から19節をテキストに神様からの語りかけを聞いてゆきたいと願っていますが、最初に質問です。皆さんは、可能な限り試練に遭いたくないと思っておられるのではないでしょうか。誰もが試練や災難を経験したいと願わないと思います。しかし、「万物の終わりが迫っています」と、使徒ペトロがこの手紙の中で記していますように、終わりの日が近づいていることは確かな事と思います。その日が着実に近づいていて、あとどれだけ残されているか分からないからこそ、わたしたちは残された日々を大切に生きていこうとすると思います。

 

例えば、重病を患い、医師から余命宣告をされ、この地上での時間が残りわずかであると知らされたら、わたしたちは残された日々を、計画的に、一日たりとも無駄にせずに、とても高価な時間として大切に過ごすと思います。もしかしたら、ある人は、自暴自棄に陥ってしまうかもしれませんが、残された時間をそのように嘆き悲しみながら過ごすことは実にもったいないことです。わたしたちは、愛する家族や大切な人たちと残された時間をゆっくり、じっくり過ごしたいと願い、実際にそのように過ごすのではないでしょうか。

 

聖書に記されているように、この世から去る者も、残される者も、わたしたちは身を慎み、思慮深く振る舞い、心を込めて互いに愛し合うのではないでしょうか。不平不満を言っている暇などありません。残された時間を、互いをもてなし合い、これまで共に歩んできた人生の恵み、共有してきた幸いを語り合い、喜び合い、感謝するのではないでしょうか。しかし、大半のわたしたちは、地上での残された時間がどれだけあるのか分からないのです。

 

さて、今朝は二人の方の写真を皆さんにお見せしたいと思います。プライバシー保護のため、礼拝堂におられる方だけにお見せします。最初の方は、アメリカのクリスチャン・トゥデー(Christian Today)とキリスト教メディアで紹介された左側の男性です。右側の女性は、彼の娘さんです。この人は、皆さんと何の関わりもない方です。では、なぜ彼の写真をお見せするのか。この人は、二人の娘さんを持つ消防士の男性で、毎週日曜日に家族と一緒に教会に通うクリスチャンでした。

 

今月13日に、米国ペンシルベニア州の町で開かれた集会でアメリカ前大統領の暗殺未遂事件がありましたが、この男性が事件に巻き込まれて唯一犠牲になった方です。家族を守るために、身を挺して家族に覆いかぶさり、銃弾を受けたそうです。こんなに悲しいことはありません。アメリカの銃社会における、繰り返される悲劇です。彼は50歳でした。ですから、これからも元気に、家族と時間を過ごす計画、教会やコミュニティーのために働く強い意志があったと思います。しかし、それらが一瞬にして消滅してしまいました。こんなに理不尽で、不条理なことはないと誰もが思います。

 

さて、もう一人の方は、つい先月23日の大久保教会の礼拝に出席され、この講壇に立って、神様の愛を分かち合ってくださったTTさんです。彼の証しをまだ覚えておられる方もおられると思いますが、先週水曜日の昼過ぎに、お母様のLさんからわたしにメールがあり、Tさんの脳に腫瘤が見つかり、19日に手術を受けるから祈ってほしいという要請がありました。

 

Tさんはとても有能な青年で、ボストンにある大学を主席クラスで卒業し、今年の8月からコロラド州の大学の医学部に入学して、8年間で二つの医学博士号を取得する計画でしたが、今回の突然の病気で今年の入学を断念し、来年まで計画を保留しなければならなくなりました。腫瘤を摘出手術は無事に成功しましたが、その後に少し不具合が生じ、C T検査の後、24時間の観察となっています。Tさんの回復のために、ご家族のためにも皆さんにお祈りいただきたいと思います。

 

さて、今朝のメッセージは、先週のメッセージにつながっています。先週は、第一ペトロ4章1節から6節を通して、わたしたちがそれぞれ神様から与えられている命、残りの生涯をどのように生きることが神様の御心、願いであるかを聴きました。わたしたちの多くは、自分の将来に、家族の将来に、老後に計画を持っています。そのために懸命に仕事をしたり、倹約したり、健康維持を心がけるわけですが、人生には思いもよらない出来事、苦しみや痛みや悲しみを伴う出来事が起こります。

 

わたしたちはそのような時に神様に叫ぶわけですが、試練に遭う時が、神様の御心を知る絶好のチャンスであり、そのチャンスを無駄にしてはならないことを聴きました。わたしたちに対する御心を知ることで、残された日々を自分のためではなく、神様と隣人のために用いることが大きな喜びになることを体験します。

 

第一ペトロ4章12節をご覧ください。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。」とあります。「身にふりかかる火のような試練」とは、人生の中で遭遇する事故や病気や人間関係のもつれではなく、イエス・キリストを救い主と信じる信仰ゆえに直面する「迫害」を指しています。

 

しかし、迫害だけでなく、事故、病気、怪我、人間関係の中で生じる問題も、すべて人生を歩んでゆく中で直面する試練でありますから、そのような場面に直面する度に、神様の御心は何であるのか、御心はいったいどこにあるのか、神様はわたしをどこへ導こうとされているのかを探し求めることは大切なことだと思うのです。そして、様々な所を巡り巡ってゆく中で、信仰が精錬され、整えられ、最終的に辿り着くところというのは、人生にどのようなことがあっても、神様に信頼し、すべて委ねるということ、信頼し続け、委ね続けることが御心であることを知ることだと思うのです。

 

使徒ペトロは、1章6節と7節で、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛

と光栄と誉れとをもたらすのです」とあります。

 

「万物の終わり」とは「終末」というネガティブなことではなく、イエス様の再臨の時であり、正しいものと悪いものがはっきりさせられる審判の時であり、神様の御心に従って歩む人々にとっては、称賛と光栄と誉れを受けられる喜びを味わうポジティブな時なのです。そのような時はまだ来ておらず、苦悩や苦難が続く日々であっても、イエス様だけを見つめ、イエス様だけに信頼して、イエス様だけに希望を持って歩んでゆく、それが神様の御心に従って生きるということなのです。

 

ペトロは、13節で、「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」と言っています。逆説的なことが言われていますが、たとえ苦しみを味わっても、イエス様が再び来られるとき、イエス様によって悲しみの涙は喜びの涙に変えられ、うめきは賛美に変えられるということです。

 

「キリストの苦しみにあずかる」とは、イエス様の十字架の苦しみを苦難の只中で体現してゆくということですが、そのような苦しみに遭っても、イエス様の十字架の死によってわたしの罪は贖われ、救われ、主の愛の中に生かされているのだから、その救いを喜びなさい、主の恵みを味わいなさいという招きでもあると思うのです。

 

14節に「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」とあります。「栄光」とは、神様の臨在を表す言葉ですが、キリストの名のために迫害に遭っても、聖霊が常にわたしたちと共にいて、それぞれの信仰をしっかり守ってくださるということです。

 

たとえ苦難の中に置かれても、わたしたちが決してしてはならないことが15節に記されています。「人殺し、泥棒、他人に干渉する」とありますが、「他人に干渉する」とはお節介をやくという良い意味ではなく、仲を裂くとか、他人の権利を侵害するという悪い意味です。神様の愛を受けている者は、隣人に仕えるために、隣人の人生を豊かにし、祝福するために生かされています。

 

しかし、そのように生きることは馬鹿げていると神様の愛を知らない人たちは言い、神様の愛に生きることを苦しめます。イエス様を信じるがゆえに誤解や非難を受けることがあります。しかし、そのことを「決して恥じてはなりません」とペトロは16節で言います。なぜ恥じてはならないのでしょうか。

 

また、19節で、使徒ペトロは「神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と言って、わたしたちを励ましています。苦しみの中にあっても、なぜ善い行いをし続けなければならないのでしょうか。理由は何でしょうか。

 

その理由は、そのような苦難の中にあっても、神様にだけ信頼して、すべてを神様に委ねて生きることが「神を崇める」ことであり、イエス様を救い主と告白すると同時に証しすることであり、神様の喜ばれることであるから、それが御心であるからです。

 

しかし、悩みや苦しみにある時、自分のことだけを考えて、御心を大切にできない自分がいることに気付かされます。しかし、そのような弱さを持つわたしたちと共にいて励ますために、主イエス様の言葉が与えられていて、その言葉を理解するために聖霊が共にいてくださいます。それはすべて、わたしたちが日々の生活の中で、苦難の中で、神様の御心を尋ね求め、御心に従って生きるための神様からの助けであり、憐れみなのです。主に感謝します。