宣教 「近くにいます神」 主の祈り-1- 副牧師 石垣茂夫 2017/02/19
招詞 イザヤ書55:6-7 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
聖書 マタイによる福音書6:9~13 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。』
主イエスはご自分のお父さんである神さまに、“アッバ”と呼びかけていました。「アッバ」とは、「おとうちゃん」という言葉です。どうして小さな子どもが使う言葉で呼びかけていたのでしょうか。「それは、いつもそばにいてくれるから!」わたしはそのように思いました。マタイ6:9 だからこう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』
イエスさまは、お祈りするときには、神さまに向かってこう呼びかけて始めなさいと教えられました。天とは何処でしょう。神さまは遠い所におられるだけのお方でしょうか。そうではなく、「アッバ」と呼ぶことが出来る位、わたしたちの直ぐ近くに、イエスさまとして来てくださいました。(子どもメッセージから)
今朝は特に、神さまに対してわたしたちが呼びかける言葉、『天にましますわれらの父よ、/願わくはみ名をあがめさせたまえ』、この言葉に絞ってお話させていただきます。
教会の礼拝で「主の祈り」が祈られるようになったのは、第1世紀の終ころからと言われています。古い歴史を持っています。2000年近く、この聖書の言葉からそれぞれの教会で、主イエスが教えてくださった「礼拝の祈り」として整えられて来ました。
「天にましますわれらの父よ」この言葉一つを取りましても、大変深い意味を含んでいます。「天」という、わたしたちを遥かに越えた、捕えがたいお方という思いで、「天にいます」と神に呼びかけて祈りが始まります。そして同時に「われらの父よ」と祈ります。神は天におられると同時に、「父」という、人間にとって血肉を分けた、最も身近なお方であることを告白しながら祈りが始まりまるのです。そしてその父は、「わたしの」ではなく「わたしたちの父」なのです。ここに「主の祈り」が教会で祈る祈りとしての根拠を持つのです。「わたしの父」でなく、「わたしたちの父」なのです。
「み名をあがめさせたまえ」ユダヤにおいて「み名」とは「神」のことです。「名」とは「神」そのものとされます。ユダヤ人が「神の名」を非常に大事にするのは、その名によって表わされる神そのものに対する畏れと尊敬とをそこに表わしています。「神」という言葉を使う事さえ避けたのです。問題は「あがめさせたまえ」という言葉です。
原文は、「聖められますように」、あるいは「聖とされますように」という言葉です。
何故そう祈るのか。それは神の聖なる名が、「宝の民」として選ばれ、世界に遣わされたイスラエルの人々によって汚されている、そういう事実があったからです。
神の宝の民として各地に遣わされた信仰を持った人たちが、神のみ名を汚しているという現実があったと言っているのです。
信仰を持った人が、「神の名を汚す」という危機にさらされていると警告しているのです。
「あがめられますように」とは、「尊敬されますように」という意味ですから、間違ってはいないのですが、祈りの言葉の本当の意味が伝わらないという面があります。単純に「尊敬されますように」という程度ではないのです。英語もドイツ語も、「カトリック」の主の祈りでも、「み名が、聖とされますように」と原文ギリシャ語に忠実です。大切な内容を含んだ言葉であることを知って、祈っていきましょう。
神は、神ご自身の、全く自由なみ心から「わたしたちの父」となってくださいました。
神はまさしく、父親がわたしたち子どもに向きあうようにして、わたしたちの近くにいてくださるお方です。そのため、主の祈りの最初の三つは神に関する祈りをして心を神に向けるのです。わたしたちが欲しいものを最初に祈るのではなく、神がわたしたちに何を求めているのかをまず知ることになるからです。
「主の祈り」の言葉を教えてくださったとき、イエスさまは、わたしたちが神に祈るときには、手助けが必要だと、知っておられました。
何よりも「主の祈り」は、信仰の言葉を見出すのを助けてくださいます。
主の祈りを覚えれば、その言葉はいつしか心に深く刻まれ、その祈りの度に祈る言葉が与えられていきます。
主の祈りを身に着けるなら、わたしたちの人生を神に向けることができます。
そしてわたしたちの祈りは、主イエスの名によって祈ります。これは、主イエスが一緒に祈ってくださるということです。