開き直るのはやめて、神に立ち帰りなさい

「開き直るのはやめて、神に立ち帰りなさい」九月第二主日礼拝 宣教 2025年9月14日

 エレミヤ書 2章4〜9節、4章1〜2節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげ出来る幸いを主に感謝いたします。早いもので、9月も3週目に入りました。明日は祝日ですので、ゆっくり過ごされる方もおられると思いますし、昨日から遅めの夏休みをとられている方もおられると思います。皆さんが神様の愛とお守りの中で日々を過ごす事ができますように、様々な災いやコロナやインフルエンザの感染から守られて歩めますようにお祈りしております。

 

さて、今月は「教会学校月間」です。教会学校の成人科に出席できるチャンスがあと2回もありますのでご案内いたします。昨日、N教会で開催された研修会に参加したのですが、そこである方が、「教会にいらっしゃる方のほとんどは礼拝を目指して来ているので、礼拝前に開かれる教会学校にはほぼ出席ない。教会学校が祝福される方法は、教会学校の時間を礼拝の後にもつこと」と言っておられました。

 

もし大久保教会がその言葉に同調し、方向転換をするならば、大久保教会の礼拝開始時間は今の11時から1時間早い10時となります。しかし、そのようなアイデアを歓迎できないという方もおられるでしょう。教会学校の良いところは、みんなでその日の御言葉を読み、そこから心に感じたこと、心に迫ってきたことを分かち合うことで御言葉がさらに深められてゆき、色々な気付きが与えられることです。どうぞご参加ください。

 

さて、先週からエレミヤ書に聴くシリーズが始まりましたが、52章あるエレミヤ書を13回で網羅するのは至難の業です。来週はエレミヤ書6章に聴く予定ですが、今朝のメッセージは2章から5章までをカバーする内容となります。特に2章と4章に重点をおいてお話ししますが、2章から25章には、神の民ユダとイスラエルがなぜ神に背を向けて、祝福から離れてしまったのか、そのような背信の民に対して預言者エレミヤを通して主なる神様が裁きの言葉を語られるという部分となります。

 

神様によって奴隷の地から解放され、荒れ野を通りはしましたが、最終的には乳と蜜の流れる肥沃な土地、約束の地に招き入れられました。しかし、その聖なる地をなぜ荒れさせてしまい、その土地から追い出されて捕囚の民となってしまったのかの理由が記されています。神様は無闇に、何の理由もなく、ご自分の民を裁かれる無慈悲な方ではありません。裁かれる理由がその民にあるから、義であり聖なる神様は裁かれるのです。

 

今朝は2章4節から9節に記されている神様の言葉と4章1節2節に記されている神様の言葉に注目してゆきますが、その間に記されている言葉もピックアップしながらお話ししますので、お手元にある聖書のエレミヤ書2章4節、1174ページを開いていただきたいと思います。預言者エレミヤを通して主なる神は次のようにイスラエルの民に語ります。ここに「ヤコブの家よ イスラエルの家のすべての部族よ 主の言葉を聞け」とあります。イスラエルの民の心が神様から離れるようになった原因は、彼らが主の言葉を聞くことをやめ、自分たちの心の言葉、貪欲に満ちた言葉に聞くことを始めたからです。そのうちに神様の言葉を忘れ、神様との大切な約束・契約を守ることをしなくなってしまったということが原因です。

 

ですから、わたしたちに大切なことは、神様の言葉を常に聞いてゆくことです。わたしたちが生きるために必要な力の源、すべての祝福の源は神様であるからです。その源につながっていないと、わたしたちは虚しさの中に日々生きることになり、喜びも、感謝も、平安も、生きているという充実感もまったくない日々を過ごすことになり、不満と不安の中を彷徨い、希望のない日々を悶々と過ごすことになるのです。

 

それでは2章5節から9節までを読んでゆきたいと思います。5節に「主はこう言われる。お前たちの先祖はわたしにどんな落ち度があったので遠く離れて行ったのか。彼らは空しいものの後を追い 空しいものとなってしまった。」とありますが、「お前たちの先祖」とありますが、これは民の「過去」を指します。神様には先祖が離れるような落ち度、原因はないのに、彼らは空しいものの後を追って離れていって、彼ら自身が空いものになったと神様は言われます。6節を見ますと、「彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか わたしたちをエジプトの地から上らせ あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地 乾ききった、暗黒の地 だれひとりそこを通らず 人の住まない地に導かれた方は』と。」とありますが、神様を忘れてしまったので、闇の中に置かれても神様を求めなかったと言うのです。

 

7節に「わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き 味の良い果物を食べさせた。ところが、お前たちはわたしの土地に入ると そこを汚し わたしが与えた土地を忌まわしいものに変えた。」とありますが、「お前たち」とは民の「現在」を指しています。神様は豊かな地を民に与えたのに、神様を忘れて自分勝手に生きたので、神様から預かった嗣業の地を汚してしまったと神様は言われます。8節をご覧ください。神様に忠実に仕えるはずの祭司たちや律法学者や預言者たちも主なる神様を畏れることを忘れてしまい、助けにならないものの後を追ったと言うのです。

 

続く9節に、「それゆえ、わたしはお前たちをあらためて告発し また、お前たちの子孫と争うと主は言われる。」とあります。「お前たちの子孫」とは民の「未来」を指しています。主なる神を忘れ去り、その言葉と約束を守らず、自分たちの思いのままに生き続ける民と「争う」、つまり神様の裁きが近い将来にあると預言者エレミヤは言っているのです。

 

この2章で注目したいのは、6節と8節の「彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか』」という言葉です。自分たちの傲慢さによって神様から離れ、その結果、窮地に立たされ、追い込まれても神様を尋ねなかった。それどころか、「主はどこにおられるのか」と開き直ってしまう。わたしたちは、このことを反面教師として受け止める必要があります。つまり、神様の恵みのうちに生かされていることを忘れることなく、常に神様を尋ね求め、御言葉に聴き、その言葉に従ってゆくという信仰が大切なのです。「主はどこにおられるのか」という言葉は神様を馬鹿にした言葉です。神様は、わたしたちといつも共におられると約束してくださっています。その約束がイエス様と聖霊によって常に果たされています。

 

11節に、「一体、どこの国が神々を取り替えたことがあろうか。しかも、神でないものと。ところが、わが民はおのが栄光を助けにならぬものと取り替えた。」とあります。13節を見ますと、「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて 無用の水溜めを掘った。水をためることのできない こわれた水溜めを。」とあります。命の水の源である神様を捨てて、水溜を掘ること、ダム建設ほど愚かなことはありません。

 

17節と18節にも同様のことが記されています。「あなたの神なる主が旅路を導かれたとき あなたが主を捨てたのでこのことがあなたの身に及んだのではないか。それなのに、今あなたはエジプトへ行ってナイルの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。また、アッシリアへ行ってユーフラテスの水を飲もうとする。それは、一体どうしてか。」とあります。

 

21節では、「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる 確かな種として植えたのに どうして、わたしに背いて 悪い野ぶどうに変わり果てたのか。」とあり、23節前半では「どうして、お前は言い張るのか わたしは汚れていない バアルの後を追ったことはない、と。」とあります。少し飛んで29節に「なぜ、わたしと争い わたしに背き続けるのか、と主は言われる。」とあり、31節後半にも「どうして、わたしの民は言うのか。『迷い出てしまったからにはあなたのもとには帰りません』と。」とあります。

 

ここに何度も「どうして、なぜ」という神様の悲痛な投げかけがあります。しかし民は「迷い出てしまったからにはあなたのもとには帰りません」と言ったり、35節では「『わたしには罪がない』とか『主の怒りはわたしから去った』」と言い張るのです。これは開き直り以外の何ものでもありません。しかし、これはイスラエルだけの問題ではありません。わたしたちも神様の目に不可解なこと、神様が「どうして?」と心痛めることをしたり、開き直ったり、「もうどうにでもなれ!」というような投げやりな生き方を日々しているのです。

 

少し戻りますが、27節と28節で神様は「彼らは木に向かって、『わたしの父』と言い、石に向かって、『わたしを産んだ母』と言う。わたしに顔を向けず、かえって背を向け、しかも、災難に遭えば『立ち上がって わたしたちをお救いください』と言う。お前が造った神々はどこにいるのか。彼らが立ち上がればよいのだ」と皮肉っぽいことを言われますが、神様はここでひねくれているのでも、嫉妬に燃えているのでもありません。これはイスラエルの民が神様に対して犯した罪です。しかし、神様の本心ではありません。神様の本心は4章1節にあります。3章でも何度も繰り返し言っている主の言葉です。

 

「『立ち帰れ、イスラエルよ』と主は言われる。『わたしのもとに立ち帰れ。呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。そうすれば、再び迷い出ることはない。』」と神様はわたしたちを神様の許へ招かれるのです。神様は、「そこにうずくまっていないで、さあ立ち上がって、わたしの許に帰りなさい、あなたを祝福したい」と招かれるのです。

 

しかし、強情なわたしたちはうずくまったままです。自分の弱さゆえに立ち上がれない。罪があまりにも重たくて立ち上がれないのです。しかし、そのようなわたしたちを神様は憐れんでくださり、救い主イエス・キリストをわたしたちのもとへ遣わしてくださり、このイエス様が笑顔で御手を差し伸べてくださり、「わたしの手を握りなさい。わたしにつながりなさい」と優しく言ってくださるのです。わたしたちに差し伸べられているイエス様の手には、わたしたちの罪の代償を支払うために十字架に釘付けにされた傷跡があります。このイエス様の傷跡がイエス様と神様がわたしたちを愛してくださっている証なのです。

 

わたしたちに今できることは何でしょうか。イエス様の手を握りしめて、イエス様を信じて、イエス様と共に歩むことです。4章2節に神様からの招きの言葉があります。「もし、あなたが真実と公平と正義をもって『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け あなたを誇りとする。」と。イエス様を信じて、自分の罪を悔い改めて、神様に立ち帰って生きることが永遠の祝福につながり、神様の愛の中で永遠に生き続けることができるのです。それがわたしたちに対する神様の願いであり、御心であるのです。