「霊の実を結ぶために」 4月第四主日礼拝 宣教 2020年4月26日
ガヤテヤの信徒への手紙 1章1〜5節(5章22〜23,25節) 牧師 河野信一郎
新型コロナウイルスの感染拡大を断ち切るため、それぞれの家や場所に留まることが求められている中で、今朝もインターネットを通して皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。過去4週は一階ホールで礼拝をささげて参りましたが、今朝の礼拝から、本来の場所、礼拝堂でおささげしています。教会の皆さんは、「早くそこに戻って礼拝したい! みんなに会いたい!」と心の中で叫んでおられることでしょう。今朝、このように礼拝堂で礼拝をおささげできることを喜んでいますが、わたしの喜びはまだ30%ぐらいの喜びで、教会の家族が戻って来られるまでは100%になりません。
しかし昨夜、とっても嬉しいことがありました。先週の礼拝ライブ配信をご自宅で子どもたちと一緒にご覧になって共に礼拝をささげておられる姉妹から、わたしが映ったテレビの画面の前で楽しそうにしている元気な子どもたちを撮った写真が一枚送られてきました。テレビの画面をのぞくと11時ぴったり。今朝も、このカメラの向こう側で、共に礼拝をささげている子どもたち、教会の家族がいるという確信と励ましを受け、心が熱くなりました。
現代のテクノロジーとは本当に凄いもので、地球の裏側にいても、この礼拝ライブを視聴し、共に礼拝をおささげできる幸いに私たちは預かっています。わたしは、10代20代の時期をアメリカで過ごしましたが、神様と一緒にわたしそのものとわたしの信仰を育んでくださったロスアンゼルスの母教会は3年前から無牧師になっていて、わたしは月に二度、インターネットのスカイプを介して、夏時間で午前2時とか3時と変わってきますが、母教会の礼拝で宣教を2月末までさせていただいておりました。しかしロスも早々に外出禁止令が州知事から出されましたので、教会の皆さんは共に集まれなくなりました。牧師がおられませんから、インターネットを介しての礼拝配信もできない状態が続いています。
けれども、そのような中、大久保教会は三月末から礼拝をライブ配信することを始め、教会の皆さんをはじめ、それぞれの教会の礼拝に出席できない方々と共に礼拝をささげる取り組みを始めました。最初は若い宣教師のアドバイスを受けてとても助かりました。しかし、三つの媒体への接続、ウエブカメラや音響などの設定、すべて手探りです。手際が悪く、ライブ配信をご覧の皆さんは、もどかしさをさぞ覚えられたことと思います。「あれっ?テストした時はちゃんとうまくいっていたのに、ライブになると突然新たな課題が出てくる」ということの連続です。いつも祈りつつ、試行錯誤しながらライブ配信に取り組んでいますが、不思議なことに教会フェイスブックやインスタグラムの「いいね」やフォロワー数がここ最近急増し、ビデオ再生回数も毎回400回を超えるようになり、「こんな小さな教会なのにどうして?」と驚いています。
1時間にもわたる礼拝を最初から最後までご覧くださっているのか、正直分かりませんし、その数字の虜になってはいけないと肝に命じていますが、400というのは実に驚くべき数字です。一体どこのどなた様が、どのような状況の中で、この配信やビデオをご覧になっているのか、知る由もありませんが、わたしたち大久保教会の切なる願いは、このライブ配信が一人でも多くの方々の信仰のセーフティーネットとなり、それぞれの心が神様に向けられ、主を賛美し、心から礼拝をおささげできる時となり、同時に、神様の御言葉を聴く時、養い、慰め、励ましを受ける時となること、このような困難な時期にあっても、それぞれの信仰が神様の愛によって、主イエス様の復活の力によって、ご聖霊の導きと助けによって守られること、そのことだけを祈り求めます。教会の皆さんもご一緒に神様の憐れみ、祝福を求めてお祈りいただければと思います。
さて、今月1日からすでに新年度が始まっておりますが、この間、受難節と復活祭がありましたので、2020年度の年間標語に触れ、聖句に聴くことが本日となってしまいました。今年度の聖句は、ガラテヤの信徒への手紙5章22節、23節、25節、一新された週報の表紙にも記されています。ご一緒に読んでみましょう。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。わたしたちは、霊の導きに従って生きるなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」 そしてこの聖句から導かれたのが、「主の導きに従って前進しよう〜霊の実を結ぶ教会〜」という標語です。感謝!
ということで、本日からしばらくの間、シリーズで、このガラテヤの信徒への手紙から神様の語りかけをご一緒に聴いて行きたいと願っています。この5章22、23、25節の本当の意味、真の目的、わたしたちに対する神様の御心を知るためには、この手紙を最初から最後まで、ご一緒に聴いてゆく必要があります。ざっと数えても15のテーマがあり、それプラス、霊の結ぶ実は九つありますので、15+9=24ですから、副牧師の宣教もありますので、約7ヶ月にわたるシリーズになると思います。つまり11月まで続きます。しかし、唯一6章の1節から10節だけは割愛します。その理由は、今年の1月26日に「互いのために生きる」と題してすでに宣教しているからです。その宣教にご興味のある方は、教会ホームページの宣教要旨欄の1月26日の礼拝宣教をお読みいただければと思います。
さて、世界中に新型コロナウイルス蔓延し、19万人の犠牲者を出し、日々わたしたちを恐怖と不安、混乱の中に落としめている状況ですが、この感染症によって、ウイルス発生前の世界と、いつ訪れるかまだ先が見えない終息後の世界は、全く違った世界になり、わたしたちの生活スタイルをはじめほぼ全てが変わるであろう、もう以前のような世界、社会、日常生活には戻らないと言われていますが、皆さんもそのようにお感じになられているでしょうか。
コロナ感染前をBC=Before Corona, Before Covid-19と呼び、終息後をAC =After Corona, After Covid-19と呼ぶようになるのでしょうか。けれども、そのようになったとしても、永遠に変わらないものがあります。それは、わたしたちに対する神様の不変の愛です。神の子イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事、その罪の赦しと救いという恵みは、永遠に変わることはありません。この愛と恵みを信じて、それを日々感謝して受け取り、主と共に前進してゆくことが、わたしたちに求められると思います。
確かに、わたしたちの中には、掛け替えのない素晴らしい過去の体験、積み重ねてきた努力、収めた成功、勝ち取った栄光にしがみついていたいという人もおられるでしょう。けれども、わたしたちの中には、過去に辛い経験があったり、思い出したくない記憶があったり、ふとした時に突然フラッシュバックする心や体の痛み、苦しみ、悲しみ、恐怖に囚われ、過去から解放されたいという人もおられるでしょう。
しかしながら、神様は、わたしたちを過去の栄光や過去の苦悩や悼みの中に生かすために、わたしたちを憐れんで、救って、今日生かしてくださっている訳ではありません。主イエス・キリストを救い主と仰いで、この主イエス様と共に神様を崇めて歩むように生かされています。わたしたちが前進する先には、神様が待っておられる神の国があり、永遠の命、永遠の喜びがあります。しかし、前進することとは、神様から与えられている1日1日を積み重ねてゆく歩みです。ですから、この1日1日をどのようにわたしたちが生きるか、神様から与えられている人生をどのように生き抜いて神様に喜んでいただくかが重要です。
神様は、使徒パウロを通して、あなたがたは肉の業に生きないで、神様が喜ばれる霊の実を結ぶ生活を送りなさいとわたしたちを招いておられます。「肉の業」とは、わたしたち人間の思いを中心、第一とした行いで、6章19節から21節に「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」とあります。「肉の業」とは、わたしたちの心にある欲情や欲望を土台とした行いです。
「それに対して、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と22節と23節に記されていますが、パウロ先生はこれらを「霊の結ぶ実」と言っています。「わたしたちの結ぶ実」とは言っていません。つまり、わたしたちの努力や知恵や熱意で結べるものでは決してなく、神様の霊、ご聖霊に助けられ、励まされて初めて結べる実であるということです。つまり、神様の愛が土台となった実であります。そして、この実を結ぶためには、霊の導きに従って生きるしかないとパウロ先生は25節で言うわけです。この霊とは、神様の霊、主イエス様の霊です。ですから、わたしたち大久保教会の標語を「主の導きに従って前進しよう」としました。
神様に喜ばれる霊の実を結ぶためにどうしたら良いのか。イエス様はヨハネ福音書15章4節と5節で、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」とわたしたちを招いておられます。では、どうしたら、イエス様につながることができるのでしょうか。答えは聖書の中に散りばめられていますが、ガリラヤの信徒への手紙にもあります。
今朝ご一緒に心に留めたい箇所は、この手紙の1章1節から5節です。この部分は、ガラテヤ地方、つまり現代のトルコの内陸地方に建てられていたキリスト教会、パウロ先生の三回にわたる伝道旅行の中で生まれた諸教会への挨拶となっています。そして、イエス様につながる方法ですが、1節をご覧ください。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」とありますが、この1節だけでもイエス様につながるポイントが二つあります。
一つ目は、「人々から勧められたからでも、人を通して推薦されたらでもなく」、イエス様との個人的な関わりの中で、イエス様を救い主として心に迎え、この方を信じ従ってゆく決心をすることです。このことに関しては、「わたしたち」ではなく、「わたし」がイエス様を信じて従うということです。そうでないと、いつまでたっても人任せになり、霊的にも、信仰的にも未熟なままとなり、人とのつながりの中でイエス様につながっているので、人との関係性が悪くなったり、その人と離れてしまうとイエス様からも離れてしまうことになります。
二つ目は、至極当然のように聞こえるでしょうが、イエス様をキリスト・救い主と信じ、キリストを死者の中から復活させられた神様を信じるということです。つまり、イエス様の十字架の死と復活という主の救いの御業、神と主の愛を信じるということです。主イエス様の十字架の死と犠牲はわたしの罪の贖いのためであることと、神様によってもたらされた主イエスのご復活はわたしを永遠の命へ招くためであると信じ、喜び、感謝するということです。これによって、神様の愛がわたしたちのうちに満たされ、主イエス様につなげられます。
次に4節をご覧ください。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」とあります。先ほどお話しした内容に似てはいますが、ここで注目すべきは、救い主イエス・キリストが父なる神様の御心に従い、その命をわたしたち罪人の救いのために献げられたのは、イエス様が父なる神様にしっかり固くつながっていたからということです。わたしたちをつなげるために、イエス様も神様につながっていたということです。パウロ先生は、この神様を5節で、「わたしたちの神であり父である」と言っています。これは凄いことであり、感謝なことです。主イエス様を信じて、つながることによって、すべての恵みと平和の源である神様につながれ、神様の喜ばれる霊の実を豊かに結ぶ恵みに生かされるのです。