霊の実・節制

「節制:祈りのうちに」 一月第四主日礼拝宣教 2021年1月24日

 ヨハネによる福音書 17章20〜26節      牧師 河野信一郎

おはようございます。2週間半前に再び緊急事態宣言が発令されてから、礼拝堂に集っての礼拝を再度休止し、それぞれのご自宅からオンラインで礼拝をおささげするようになりました。今朝もご一緒に礼拝を神様におささげできる幸いを神様に感謝いたします。

東京では、コロナウイルスの新規感染者数が1日に1000人以上の日が11日間続いておりますので、2月7日の宣言解除はないと思います。つい2週間前にコロナの感染によってお亡くなりになられた方の数が全国で4000人と報道されましたが、たった半月で1000人増えて5000人を超えたということです。ステイホームの自粛期間が延長されるのは確かであると思いますので、信仰と愛と忍耐を持って、主にあって希望を持って祈り続けましょう。これからも主の助けを受けて、朝の主日礼拝、そして第二と第四日曜日の夕礼拝をライブ配信してまいります。今夜も夕礼拝がささげられます。どうぞ教会の働きを覚えてお祈りください。

今朝は宣教に入る前に1つアナウンスがあります。来週31日から2月7日までの8日間、日本バプテスト連盟に連なる全国の318の諸教会・伝道所と連盟の働きを覚える「協力伝道週間」を過ごします。今や教派や団体を問わず、日本中のキリスト教界がコロナ禍にあって苦境にありますが、日本バプテスト連盟もこれまでに経験したことのない課題に直面しています。財政面の課題や次の時代を牧師・伝道者として担ってゆく人材がいないという課題もそうですが、直近の課題として、手と手を取り合い、共にキリストを伝えるという協力伝道体制の土台が揺らいでいる状態です。一教会でできないことを皆で協力してなしてゆく。今こそ心一つに祈ってゆくことが重要な時期です。どうぞ今日から覚えて祈り始めてください。

さて、画面に2020年のアドベント・クランツの写真が出ると思いますが、「コロナ禍にあるクリスマスにふさわしいクランツをお願いします」と無理を言って姉妹に準備していただきました。中央の白い大きなろうそくはイエス様を表していますが、周りの9本のろうそくは、それぞれ色も形もバラバラにしてもらい、9つの御霊の実である、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして今朝ご一緒に聞く「節制」という実を表しています。今朝は9本すべてに火が灯っています。つまり、今日がこの「霊の実」シリーズの最終回です。

前回も少し申し上げましたが、この9つの霊の実は大きく三つに区分することができると思います。最初の「愛、喜び、平和」という3つの実は、神様との関係性において、ご聖霊の助けを受けて結ぶ実で、イエス様につながれていなければ決して結ぶことはできない実です。イエス様ぬきに神様につながることはできません。次の「寛容、親切、善意」という3つの実は、隣人との関係性において、ご聖霊に助けられて結ぶ実です。これらの実を互いが結ぶことで、主イエス・キリストを中心とした交わりの中で「平和」が与えられます。最後の「誠実、柔和、節制」という3つの実は、ご聖霊に助けられ、自分との関係性の中で、自分と向き合う中で結ぶ実です。聖書は、イエス様につながる中で初めて、神様に対して忠実に、隣人に対して誠実に生きることが可能になると語りますが、わたしたち一人一人がしっかりとイエス様につながり続ける必要があります。ここで言う「イエス様につながる」とは、イエス様を自分の救い主と本気で信じて、日々み声に聴き続け、従って生きると言うことです。イエス様につながることで、わたしたちは初めて本当の自分を見つけ出し、人生の意味、目的、なすべき使命を知ることができ、自分に対しても信実に、つまり正直に生きる、自分を喜ぶことができ、主のご用のために働くことが主の憐れみの中でできるようになります。

さて今朝は、「節制」という霊の実についてお話してゆきたいと願っていますが、この「節制」と訳されている「エンクラテイア」というギリシャ語は、第一コリント7章では「抑制」という言葉に訳されていますが、新約聖書全体でわずか10回しか用いられておりません。第二ペテロの1章6節以外は、すべて使徒パウロが彼の書簡の中で用いています。4つの福音書にも用いられていません。興味深いことに、パウロ先生が用いる9回のうちの4回は、テトスという人への手紙で用いられています。このテトスという人はギリシャ人の伝道者で、ガラテヤ2章3節にも彼の名前が出てきますが、もっと興味深いのは、この「節制」という言葉の概念は、紀元前450年前に古代ギリシャの哲学者ソクラテスによって探求されたことであるということです。つまり、このガラテヤからコロサイ、エフェソ、フィリピ、テサロニケ、コリントまでの、いわゆるギリシャ一帯にあったヘレニズム(ギリシャ文明・精神)の影響を受けて生きている人々にストレートに届くように、パウロ先生はこの「節制」という言葉を用いているのです。

さて、先に進む前にガラテヤ地方にあったキリスト教会が直面していた課題のおさらいをしたいと思います。パウロ先生がこの手紙をガラテヤの信徒たちに書き送った最大の理由は、教会内に神学的な論争が起こり、その結果、教会が分裂し、傷つく人たちが増え、教会内で互いに愛し合えない、互いの存在を喜び合えないという痛みが生じていたからです。

どのような論争であったか。パウロ先生は「イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、あなたがたは神様の憐れみのうちに義とされ、完全に救われる」と「信仰による救い」をガラテヤの異邦人たちに宣べ伝えましたが、エルサレムから来たユダヤ系クリスチャンたちはユダヤ教の影響を強く受けていましたから、「イエス様を救い主と信じるだけでは不十分だ。割礼を受けて、モーセの律法を守らなければ救われない」と「信仰と律法の行いによる救い」を教えました。その結果、「信仰のみ」という福音を信じる人たちと、「信仰と律法」という福音を信じる人たち、そしてどちらを信じて良いか分からずに混乱している人たちが出てきて、その人たちを自分たちの側へ引き込もうとする争いが教会内に起こってしまい、結果的に多くの人たちが傷つき、苦しむことになってしまったのです。そういう霊的にも、信仰的にも、人間関係の中で傷ついたガラテヤのクリスチャンたちに対して、ご聖霊に助けられて霊の実を結びなさいとパウロ先生は励まし、今日を生きるわたしたちを励ますのです。

さて、この霊の実のリストの最後にある「節制」という実は、非常に重要な実です。何故かというと、キリストのからだである教会を建て上げるためには、その群れに連なる一人一人がイエス・キリストを見上げ、自らの心を制し、主にある愛と忍耐と広い心をもち、一つの「教会」となってゆくために、各自が責任を負い、犠牲を払う必要があるとパウロ先生は考えています。「節制・自制」という痛みが各自にない限り、キリストのからだが形作られてゆくことはないと考えています。英語では、No Pain, No Gainと言います。自分よりも、まず神様とイエス様の御心を、そして隣人のために生きることを優先してゆくために「節制」がどうしても必要であって、分断しているガラテヤ教会には必要不可欠であったのです。

キリストのからだを建て上げてゆく業は、神様の助けを受けながら、教会に連なるみんなで取り組むことであり、誰もが参加する責任が恵みとして与えられています。みんながお客さんでは、教会は教会とはならないのです。この教会を建て上げるために、その土台として主イエス様が十字架上で命を与えてくださいました。この主イエス様の十字架の命と復活の命の上に、教会は建て上げられてゆきます。「節制・自制」というと、自分を制してことを成すと考えがちで、自分の努力、犠牲でどうにかなると思いがちになりますが、そうではなく、まず神様がすべてをご支配されていることを信じる必要があります。パウロ先生は十字架のイエス様、復活されたイエス様、そしてご聖霊の助けとわたしたちの信仰を合体させて教会形成と福音宣教をしてゆくようにと励ますのです。

今回の宣教の準備している中で驚くべき事実を2つ発見しました。1つは、13あるパウロ書簡の中で、ガラテヤの信徒への手紙にだけ教会にとって非常に重要な言葉が一つ欠如していました。他の12の手紙には必ず記されているのに、このガラテヤの信徒への手紙には「祈り」という言葉が本当にないのです。パウロ先生は一度も「祈り」という言葉を使っていないのです。わたしは驚きました。教会内が分断し、裁き合い、傷つけ合う、そういう弱っている教会は、祈れなかったのだと思います。しかし、パウロ先生はこの教会のために祈っていましたし、教会の内外の大勢のクリスチャンも祈っていたはずです。祈りは信仰の発電所、教会のボイラー室のようなもので、祈りのない所に神様の御力は注がれません。日々の生活の中で、朝に夕に、イエス様を通して神様につながる時間を大切にし、祈りの時間を確保してゆきましょう。日々のすべてを祈りをもって始めて行きましょう。そこに祝福があります。

今回の学びで発見し、気絶するぐらいに驚いたもう一つのことです。先ほど「節制」という言葉が4つの福音書には記されていないと申しましたが、マタイ、マルコ、ルカの福音書にあってヨハネの福音書には1回も用いられていない言葉があることを今回発見しました。それは「祈り」という言葉です。「そんなバカな」と思われるでしょうが、本当にギリシャ語原典のヨハネ福音書には、「祈り」という言葉は1回も出てこないのです。「いやいや、今朝のヨハネ福音書の17章はまさしく祈りの箇所じゃないですか、新共同訳聖書の17章の最初の見出しに「イエスの祈り」としっかり太字で書かれているじゃないですか」とツッコミを入れたくなると思います。確かにわたしもびっくりしました。しかし、17章全体を読んでみてください。ヨハネ福音書全体を読み返して「祈り」という言葉を探してみてください、本当にないのです、他の福音書には何度も繰り返し「祈り」が記されているのに! 前のスクリーンに出ている英語のNIV訳でも「Jesus prayed」と訳していますが、原文にはありません。

ヨハネという人は、17章で「祈り」という言葉を用いなくても、主イエス様は「天を仰いで」(新共同訳)、「目を天に向けて」(新改訳)、「天を見上げて言われた」(口語訳)と表し、イエス様が祈るお方であったことをはっきりと示します。イエス様はいつも祈りを通して神様につながる方でした。イエス様は、わたしたちに祈ることを教えてくださいました。わたしたちが祈りを通して神様につながることへと招き、御国へ招かれるまで地上で神様につながり続けることを望んでおられるからです。イエス様は十字架に架けられる前の晩も、十字架に架けられて苦しんでいる最中もずっと神様に祈るお方でした。祈りが神様に最後の最後まで忠実に生きるための力をいただく方法であると知っておられたからです。

このヨハネ福音書の17章全体はイエス様の祈りです。1節から5節は神様の御心のままに生きることができたことへの感謝と最後に栄光を与えてくださいという願いの言葉です。6節から19節は、地上に残してゆく弟子たちのための祈りであり、彼らのためにご自身をささげるという祈りです。十字架に死なれ、三日後に甦られたイエス様に再会し、復活の主の力によって使徒とされて生きる弟子たちのために主は祈ります。20節から26節は、その使徒たちの宣教によってイエス様を救い主と信じる人々、未来のわたしたちのために主イエス様が祈られた箇所です。その祈りの中にはもちろんガラテヤ教会の兄弟姉妹たちも入っています。

イエス様はご自分の十字架の死を前にしても、わたしたちのために祈ってくださいました。わたしたちの信仰がなくならないように。イエス様は、神様への祈り、神様との豊かな交わりの中で、自分を制してゆかれたのです。そして、神様に絶えず祈ることが「節制」という実を結ぶ大きな力であるとわたしたちに教えてくださっているのです。主は、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」と21節で願います。主の御心は教会が一つになることです。コロナ禍にあってもう1年も離れ離れになり、少なからずも動揺し、弱っているわたしたちを一つの教会としてつなぎとめるのは神様の愛であり、主イエス様の執り成しであり、ご聖霊の励ましです。23節にあるように、イエス様の愛のうちに生きること、24節にあるように、イエス様がいつも共にいてくださり、救われている恵みを疑わずに信じてゆくこと、25節にあるように、神様から遣わされた主イエス様に従い続けること、そして26節にあるように、わたしたちが救い主を伝え続けることが主なる神様とイエス様の御心です。イエス様がわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも霊に導かれ、愛し合い、支え合い、祈り合い、共に前進しましょう。