預言者イザヤはイエスを誰と云うか

「預言者イザヤはイエスを誰と云うか」 十月第四主日礼拝 宣教要旨 2017年10月22日

  イザヤ書 9章5節        牧師 河野信一郎

 今回から、「イエスは誰か」というテーマで宣教シリーズを始めます。この問いに対して、世界では様々な意見・見解があります。イスラム教では、イスラムの中の聖なる預言者の一人であるけれども、決して「神の子」ではないと言います。ヒンドゥー教では、イエスは偉大なる聖人の一人、素晴らしい教師で、ヒンドゥー教の3千300万人いるアバター(化身)だとしています。仏教では、イエスは特別な悟りを開いた人ではあるけれども神ではないと理解しています。ニューエイジの人たちは、イエスは偉大な悟りに行き着いた教師で、自分のことを神だと悟った人であると捉えています。他の宗教では、イエスは天使の一人だと言ったりしています。このように、世界ではイエスを過去と現在における教師、預言者、天使、多数存在する神々の一人と、様々な意見がありますが、聖書に登場する人たちはイエスのことを誰だと言い、予言し、告白しているでしょうか。

 ちなみに、大久保教会の年間聖句であるヘブライ人への手紙を記した記者は、12章2節で「イエスは信仰の創始者、また完成者である」と告白しています。私たちに信仰を与え、この地上での歩みを導いてくださるお方がイエスであり、キリストであると告白しています。この宣教シリーズを進めてゆく中で、私たち一人ひとりは、イエスを誰と告白するのかを聖書から示されてゆきたいと思います。イエスは、「私にとって誰なのか」がはっきり示され、その導きに素直に従ってゆくときに、今年のクリスマスは今までと違った素晴らしい喜びの時となると思います。

 今回は、旧約聖書のイザヤ書から、預言者イザヤはイエスがこの地に生まれる約700年前にイエスを誰と言ったのかを聴きます。イザヤ書は、旧約聖書の中で最も多く新約聖書に引用されていて、そのメッセージは極めて福音的であり、キリストの生涯が預言されているので、「第五福音書」とも呼ばれています。今回の宣教の中心となる聖書箇所は9章5節ですが、1節を読みますと、イエスは暗闇の中に生きる私たちのために光としてこの世に来られ、死の陰に住む私たちの上に輝いたと記されています。預言者イザヤは、イエスを「光」、暗闇を照らす「光」だと言っていますが、5節では何と言っているでしょうか。

 まず「ひとりのみどり子が私たちのために生まれた」とあります。「みどり子」イコール「赤ちゃん」ですが、この赤ちゃんが「生まれた」と過去形になっています。まだ起きていないこと、成就していないことを過去形で記すのは、神のご計画、御心、私たち人間に対する約束は、必ず遂行され、守られ、果たされるという神の真実さ、約束の確かさの表れです。私たちは、この確かな、真実なる神に信頼することへと招かれています。

 もう一つ覚えたいのは、「生まれる」という動詞です。この「生まれる」という動詞は、人間性が表されている言葉です。つまり、イエスは人としてお生まれになられる、なられたとイザヤは預言しているわけです。そういう中でイザヤが次に預言していることは、「ひとりの男の子が私たちのために与えられた」ということです。ここに「男の子」と訳されているヘブル語の正しい訳は、「息子」です。なぜなら、この息子は神のひとり子であり、神としてお生まれになられたからです。「息子」という言葉は、イエスの神性が強調されている言葉であり、神が私たちに「お与えくださった」御子であり、神なのです。私たちのために神がひとり子をお与えくださるのです。ヨハネ福音書3章16節の「神はその独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者は一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という言葉が心に迫ってきます。私たちは、イエス・キリストを通して神に愛されている存在であることを喜び、感謝したいと思います。

 預言者イザヤは、やがて来られるメシア、救い主、つまりイエスは100%神であり、100%人であるとここで預言しているのです。そしてこのメシアの肩に神の権威があると預言しています。つまり、このメシア、イエスにこの世を治め、罪と死とサタンの支配から人々を解放する権威と力が神から与えられているということです。

 そして、この来たるべきメシアはどのようなお方であるのかを「驚くべき指導者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」という4つの呼び名で表します。

 「驚くべき指導者」 イザヤは、来たるべきメシア、イエスは私たちの全てをよくご存知で、慰めが必要な時には慰め、励ましが必要な時には励まし、道を見失った時には共に歩んで進むべき道へと導いてくださるお方であると言います。ただアドバイスをくれるだけではなくて、イエスはいつも共にいて、私たちに生きる目的と動機付けと使命をお与えくださる素晴らしいお方だと言うのです。

 「力ある神」 イエスは、私たちに生きる目的、使命、人生の喜びをお与えくださる方であり、喜びが満たされ、人生の目的・使命を果たすために必要な力を共に歩んで与えてくださるお方であるとイザヤは言います。このお方をただ信じれば良いのです。信じた後の事は、イエスが助けて導いてくださります。

 「永遠の父」 地上での父は、歳を経るとこの世をさってゆかなければなりませんが、イエスは神でありますから永遠に共にいてくださり、私たちの必要を満たしてくださいます。このお方が私たちと共にいて、守り導き、必要を満たしてくださるという約束がありますから、私たちは大丈夫なのです。どんなに気持ちが落ち込むような大変なこと、辛いことがあっても、不安があってもイエスが救い主としていつも共にいてくださいますから、大丈夫なのです。このイエスを信じ、従ってゆくことが私たちにとって重要なのです。ですから、今日も明日も、これからずっと、イエスを信じ続け、見上げ続けて参りましょう。

 「平和の君」 イザヤは来たるべきメシアを「平和の君」と明確に預言しましたし、イエスはキリストとしてこの地上に来られました。しかし、2000年経った今も世界中を見渡しても真の平和はどこにもありません。紛争、騙し合い、駆け引きが続き、悲劇が繰り返されています。また、私たちの心も平和ではありません。いくらお金があっても、平和を買うことはできません。お金があればあるほど、富を持つ者たちと持たない者たちの心は離れ、持つ者は持たない者のことに無関心になり、持たない者は持つ者を妬み、分裂が起こり、家族や仲間や社会が引き裂かれ、孤独になり、不安になります。しかし、そのような暗闇の中に生きる私たちを照らす光として神の御子が来てくださいました。これがキリストの福音です。

 なぜ世界に、日本に、私たちの心のうちに「平和」がないのでしょうか。それは、私たちの心が罪に支配され、神との関係が寸断され、愛を受けることができないでいるからです。この寸断された関係を修復するために、イエスは「平和の君」としてこの世に生きる私たちに遣わされたのです。このお方が神との和解を与えるために十字架に架かって、贖いの死を遂げてくださり、三日目に甦られたので、今、私たちは教会で主イエスと救い主をお遣わしくださった神に礼拝をおささげしています。

 すべては、神の慈しみ、憐れみ、恵みなのです。ですから、救い主がいつも私たちと共にいて、守り導き、必要なものを与えてくださるお方であることを信じて、共に主イエスにつながり続け、共に歩みましょう。