預言者ゼカリヤはイエスを誰と云うか

「預言者ゼカリヤはイエスを誰と云うか」 十一月第一主日礼拝 宣教要旨 2017年11月5日

  ゼカリヤ書 9章9〜11節        牧師 河野信一郎

 「イエスは誰か」というテーマで宣教シリーズを続けていますが、今回は預言者ゼカリヤがイエスを誰と云っているかに聴きます。

 イスラエルの歴史の中で、バビロニア捕囚にともなって破壊されたエルサレム神殿を預言者ハガイと共に尽力して再建したのが預言者ゼカリヤです。このゼカリヤは、神殿が再建され、エルサレムが復興し、イスラエルの国が再び興る時に真の王が来ると預言し、その時は大いに喜び踊れとイスラエルを励ましました。

 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」と預言します。このゼカリヤの預言は、イエスがエルサレムに入城された際に成就したとして、記者マタイは福音書の21章5節で引用しています。

 ゼカリヤによってこのことが預言された時、イスラエルには戦争の危険があった時代、力強い王を求めている時代でした。ユダヤ人たちの多くは、そのような王をずっと待ち焦がれて来ましたし、今も待ちわびています。しかし、預言者ゼカリヤは、王はろばに乗って来られると預言し、イエスは実際に子ろばに乗ってエルサレムに入城されました。イエスは、メシア・救い主、平和の君として、真の平和をもたらす王としてエルサレムに入られました。

 しかし、その数日後には、平和の君であるはずのイエスが十字架に架けられて殺されます。それはあってはいけないことですが、イエスがユダヤ人たちの期待に沿った力ある王、ローマの支配から解放してくれる王ではなかったからです。また、そのユダヤ人たちの期待は、神のみ心ではありませんでした。しかし、そのようなユダヤ人たちの思いをも神はご自分のご計画を成し遂げるために用いられます。

 イエスは、十字架において死を遂げられる前夜に、弟子たちと最後の晩餐をとられましたが、その時にこのように弟子たちにおっしゃいました。マタイによる福音書26章26節ですが、「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りをとなえて、それを裂き、弟子たちに与えてから言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りをとなえ、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流れるわたしの血、契約の血である。』」とおっしゃいました。では、ゼカリヤ書9章に戻りましょう。11節を読みたいと思います。そこに何と預言されているでしょうか。

 「あなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ」とあります。戦いに敗れて捕虜になった戦士たちは水のない穴に入れられたそうです。そこは生きる望みのない、ただ死を待つことしかできない絶望の穴です。しかし、その薄暗い穴から私たち捕われ人を救い出すために、神は救い主イエスを遣わしてくださり、イエスを贖いの犠牲として十字架につけられたのです。つまり、イエスは平和の君として神と私たち人間との間に和解と平和を与えるためにエルサレムに入城され、新しい契約のために十字架に架かって死んでくださったのです。

 さて、9節はイエスがメシア、平和の君として来られることが預言され、イエスはキリストとして2000年前にすでに来てくださったのですが、世界は未だに平和ではありません。今でも戦い、むさぼり合いが続き、小さくされている人々が苦しみもだえています。つまり、10節の「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」という預言はまだイエスによって成就していないということになります。

 しかし、この預言・神の約束は、主イエスが再びこの地上に来られる再臨の時に成就します。それがいつなのか私たちには分かりません。いえ、分からなくて良いのです。私たちがいま知り、信じ、信頼を寄せるべきは、主イエス・キリストが今から約2000年前に軽ばりの丘に立てられた十字架に、私たちの身代わりとして付けられ、その上で流された血潮によって私たちの罪が贖われ、神との和解が憐れみのうちに与えられ、神との平和が与えられたという恵みです。

 救いの岩である主イエスが、平和の君であるイエスが、その血潮を持って私たちに救いと平和、そして希望をお与えくださった。今も与え続けてくださっているから、私たちは大丈夫なのです。ただ、私たちが主の憐れみを信じ、恵みを日々受け取り、喜び、感謝して歩み続けることが神の望み、喜びなのです。主イエスが再び来られることを信じる恵みを感謝し、その時まで神には忠実に、人々には誠実に生きてゆきましょう。共に主イエスにつながり、主を仰ぎ見ながら共に歩んでまいりましょう。