「魂の休息を得るために、あなたはどこへ向かうか」五月第一主日礼拝 宣教 2025年5月4日
マタイによる福音書 11章28〜30節 牧師 河野信一郎
おはようございます。ゴールデンウィーク真っ只中ということもあり、欠席の方も多い日曜日ですが、礼拝堂に集められた皆さんと共に礼拝をおささげすることが出来て感謝です。また、オンラインで礼拝をおささげくださる皆さんの出席も嬉しいですし、感謝です。
さて、案内を短く二つさせていただきます。来たる11日の主日礼拝には、宣教者としてSK先生をお迎えいたします。FIキリスト教会の牧師を辞され、現在はSバプテスト教会の会員であられますが、大久保教会の元会員でもあります。死生学の専門家で、近日中にご本を出版されます。その翌週の18日の礼拝では、NS宣教師がメッセージをしてくださいます。6月にご家族と共にアメリカへ一時帰国されますので、その前にご奉仕くださいます。この3年間、大いに努力され、目覚ましい日本語力をつけられました。同期の宣教師たちの中でも日本語は一番だと思います。覚えてご出席ください。
ということで、わたしは2週続けて主日礼拝のメッセージはいたしません。祈祷会の奨励はいたしますし、連盟関係のオンライン会議はありますが、この間、メッセージはお休みです。本当は、何もしないで霊的な充電をしたいと願いますが、そうも言っておられません。来週の夕礼拝から始めます新シリーズのメッセージの準備をしたり、例年8月から10月にかけて行っている旧約聖書からのシリーズの準備を進めてゆく予定です。また、教会の裏の荒れ果てた庭の手入れをする計画です。憐れみの神様が与えてくださったこの期間を、様々な準備のために有意義に用いることができるようにお祈りいただければ幸いです。
さて、今朝は、「魂の休息を得るために、あなたはどこへ向かうか」というテーマで、マタイによる福音書11章28節から30節に記されているイエス様の言葉に共に聴いてゆきたいと願っています。わたしたちには、身体の休息だけでなく、魂・心の休息が必要であると思います。休息をとらないと疲労困憊になり、情緒不安定になって家族や周りの人たちに余計な心配をかけさせたりします。また、燃え尽き症候群になったり、自分の持っている本来の力、能力をフルに発揮することが出来なくなり、無駄なことをしてしまうことになります。
だいぶ横道に逸れますが、わたしの好きな日本のシンガーソングライターで、世界的にも若者層から絶大な支持を得ているYKというアーティストがいます。音楽好きなわたしは若い頃から色々なジャンルの音楽を聴いてきましたが、このYKというアーティストは特別な才能を持った人だと思います。その彼の楽曲の中に「毎日」という歌がありますが、歌詞がとても印象的ですので、最初と最後の部分を皆さんにここで紹介したいと思います。
最初は、脱力感と言いましょうか、疲労感たっぷりの中で、つぶやくように、とてもスローなペースでこう始まります。「毎日、毎日、毎日、毎日、僕は僕なりに頑張ってきたのに。毎日、毎日、毎日、毎日、何一つも変わらないものを、まだ愛せるだろうか。」と。この後から、言葉で表現できない「虚しさ」を娯楽や恋愛で誤魔化すかのように、曲調がとても速くなってゆき、歌詞もそういう内容になってゆきます。周りの人と自分を比べたり、世の中を批判するような言葉が出てきます。息つく暇もない、目まぐるしい日々の生活の中で、無理しすぎて心も体も疲れ切っているのに、それでも頑張って走り抜けようとする感じです。
しかし、そのスピード感が最後にパタっと終わって、またゆっくりな曲調に変わり、現実に戻り、「毎日、毎日、毎日、毎日、僕は僕なりに頑張ってきたのに。毎日、毎日、毎日、毎日、何一つも変わらないものを、頑張ったとしても変わらないものを、この日々をまだ愛せるだろうか」と出だしの言葉にさらに言葉が加わった歌詞になって終わります。
これは、わたし個人の感想なので、間違っているかもしれませんが、変り映えのない日々の生活の中で、理想と現実を行き来して心も身体も疲れ果てている人がここに表されているように思います。毎日頑張っているのに、それでも何も変わらない。いつまで経っても現状が変わらない。自分は何のために存在し、何の生き、何のために頑張っているのか、どこに向かって進んでいるのか分からない。頑張りようがまったく報われない。達成感もない。喜びも、感動もない。そういう虚しさを感じながら、自分を愛せなくなってしまう。
理想と現実の狭間で苦しみ悶えながら、自尊心の低い、自己肯定できないで生きている人が、この歌に共感するのかなぁと思ったり、そういう人が多いのかなぁと考えたりします。しかし、そういうわたしにもそういう闇の部分が心にあるから、この歌詞に心が動くのかなぁ、心が弱っているのかなぁとも思わされるのです。しかし、そのような事にハッとさせられたら、すぐに神様に助けを祈り求め、賛美を聴いたり、賛美を歌うようにしています。
皆さんはどうでしょうか。毎日、毎日、勉強したり、働いたり、子育てたり、家事をしたり、家族の世話や介護をして、あくせくして、あっという間に一日が過ぎ去ってゆき、やっと眠りについても一瞬で朝を迎えてしまう。プレッシャーという見えない力に縛られて、自分の力では二進も三進もいかない。一つの課題をこなせば、また次の課題がやってくる。心配事が尽きない。頭を抱えてしまいます。そういう状況から逃れるために娯楽に走ったり、どこかへ旅行したり、何か意味のないものに時間とお金を注ぎ込んでしまい、後で請求書を見て後悔したりしてしまう。わたしたちは、どこかで魂の休息が必要ではないでしょうか。
今朝の聖書箇所は、聖書の中でも有名な言葉の一つです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」というイエス様の招きの言葉です。「疲れた者、重荷を負う者」とは、どのような人なのでしょうか。自分のキャパシティを遥かに超えたことをしている人、自分に無理を強いている人、自分が頑張らなければ誰がやると思い込んで、独りで問題を解決しようとしている人、疲れを認めない人など、色々とあると思いますが、心も身体も疲れている人が果たして周りの人々を幸せにできるでしょうか。
自分の心にも、身体にも、正直に向き合わないで、嘘をつき続けている人が、周りの人たちに誠実に生きることができるでしょうか。命を与えてくださる神様に対して忠実に生きることができるでしょうか。富や名声や地位を追い求めている人たち、欲望に満ちた人たちが安息を得ることができるでしょうか。ふとした瞬間に厳しい現実を突きつけられ、自分の頑張りは何であったのかと虚しさを感じるだけになってはしまわないでしょうか。厳しい現実とは、突然の病気発症や事故や怪我や失業、愛する人との死別、身体の衰えなどです。
毎日、毎日、家族や会社や社会や教会のために頑張ってきたのに、何も変わらなければ、虚しさを感じるでしょう。しかし、そのようなわたしたちに対して、イエス様は、「だれでもわたしのもとに来なさい。(わたしが)休ませてあげよう。」とご自身のもとへ招いてくださるのです。「だれでも」というのは、わたしも、あなたも、誰でもです。イエス様の招きのリストに誰ひとり漏れはないのです。「わたしのもとで休ませてあげよう」とは、イエス様が休息・安息を与えてくださるという約束です。家族や恋人や友人ではなく、お金や娯楽や物でもなく、イエス様の愛がわたしたちの魂に休息を与えてくださるのです。
29節に、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」というイエス様のさらなる招きの言葉があります。「柔和で謙遜な者だから」とは、どういう意味でしょうか。ヘブライ語とギリシャ語の聖書で読んでゆきますと、「わたしも重荷を背負い、苦労し、低くされた者であるから」と訳したほうがイエス様の心の真実により近いようです。
神の御子イエス様が父なる神のもとを離れてこの世に降り、わたしたちの罪を一身に負い、十字架で痛み苦しみ、贖いの死を遂げてくださり、わたしたちを罪と死の恐れから解放し、救いを与えてくださいました。ですから、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とは、「わたしを信じて、わたしに従いなさい」という意味だと示されます。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。イエス様を信じて従えば、イエス様を通して救いが与えられ、魂に休息と平安と喜びが与えられ、毎日を生きる力が与えられるのです。
30節に「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とあります。前のスクリーンに軛の写真を映しています。軛とは二頭の牛や馬をつなぐものです。二頭が軛につながれて一緒に大地を耕します。イエス様が、「わたしの軛を負いなさい」とおっしゃるのは、わたしたちの日々の歩みをイエス様が共に歩んでくださる、わたしたちの重荷をイエス様が「わたしの重荷」と言って一緒に担ってくださるという約束の言葉であり、励ましの言葉です。ですから、たとえわたしたちが毎日、毎日、重荷を負って歩むことがあっても、わたしたちは独りではないのです。イエス様がわたしたちと共に負ってくださるので、その重荷は負いやすく、軽く感じるのです。
わたしたちが毎日を大変だと感じてやる気を失うのは、自分だけで責任を負おうと頑張っているからではないでしょうか。わたしたちの心と身体が疲れるのは、自分の力だけで重荷を日々背負っているからではないでしょうか。イエス様の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という招きの声、約束の言葉を聞き、信じて、その招きに応えてゆきましょう。イエス様につなげられてゆく中で、イエス様を通して神様の愛、新しい力が豊かに注がれ、魂の休息がわたしたち一人ひとりに平等に与えられてゆきます。心と身体のすべてに神様の安らぎが、魂に休息が与えられます。