「わたしたちにふさわしい礼拝」 三月第五主日礼拝 宣教 2019年3月31日
ローマの信徒への手紙12章1〜8節 牧師 河野信一郎
2018年度は、「キリストの恵みを共に分かち、神をたたえよう」という年間標語とローマの信徒への手紙15章2節、5〜6節を年間聖句として共に歩んでまいりました。神様に感謝いたします。宣教に入る前にもう一度、年間聖句をご一緒に読みたいと思います。
「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」 そしてこのみ言葉につながりのある聖句が2019年度の歩みを励まし、導く年間聖句として総会で提案されます。本日の総会で承認されましたら、来週の4月の第一主日の礼拝で宣教をさせていただきたいと願っています。どうぞお祈りに覚えてください。
さて、この1年、私が宣教する時は、ローマの信徒への手紙を1章から順を追って読み進め、神様からの語りかけを共に聴いてまいりましたが、その中で、私たちが礼拝をおささげし、ほめたたえる神様はどのようなお方であるのか、そしてその神様から与えられる数多くの恵みを私たちはどのように隣り人と分かち合ってゆくべきかを聴いてまいりました。
1章から11章までは、神様はどのようなお方であるのか、ユダヤ人、異邦人は神様の御前にどのような存在であるのか、という教義的・神学的で難しい内容でしたが、今朝から新しい宣教シリーズを始めたいと思います。名付けて、「憐れみ豊かな神への応答」です。今日から聴き始めます12章から15章13節までは、より具体的で、信仰生活について実践的なことが語られていますので、ご一緒に聞いてゆく予定です。しかしながら、来たる主日は年度始めの主日礼拝ですので、教会の総会で承認をいただく聖句から宣教をさせていただき、翌14日は受難節に関する箇所から宣教をし、21日のイースター礼拝ではイエス様のご復活の出来事にスポットライトを当てた宣教をする予定ですので、このシリーズは、5月から再開し、8月ごろまで続きます。計画というのは予定通りにゆかない時も時折ありますが、新しい年度も、みなさんとご一緒に神様からの語りかけを聴いて行きたいと願っています。
さて今朝は、ローマの信徒への手紙12章1節から8節をテキストに、わたしたちのなすべき礼拝とはどのような礼拝なのかを共に聴いてゆきたいと思います。しかしその前に、「なぜわたしたちは礼拝するのか、なぜ神様に礼拝をおささげするのか」という理由、動機づけからしっかり理解している必要があると思います。このことに関して、パウロ先生は1節でこのように言っています。「こういうわけで、兄弟姉妹たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と。
「こういうわけで」というのは、1章から11章までに記されてきた内容全体を示すだけでなく、異邦人であるわたしたちが神様に愛され、イエス・キリストの十字架、贖いの死によって救われたという驚くべき救いの出来事、「恵み」を指し示す言葉です。この人知をはるかに超えた「恵み」は、神様から出て、キリスト・イエスを通してわたしたちに与えられていますが、この恵みの源流、出発地点は、わたしたち罪人を慈しむ神様の「憐れみ」であるとパウロ先生は信じています。ですから、「神の『憐れみ』によってあなたがたに勧めます」とパウロ先生はローマに生きるクリスチャンたちに、その信仰のコミュニティに書き送るのです。ゆえに、わたしたち一人ひとりにとって、また大久保教会にとって重要なことは、礼拝を通して神様を愛し、神様を崇めてゆくという生き方です。わたしたちの礼拝へのモーティベーションは、神様の一方的な憐れみよって、キリスト・イエスによって私の罪は赦され、私は自由な者とされているという救いを喜び、恵みを感謝し、救いの源である神様とイエス様を崇めることです。
では、どのような礼拝をおささげしてゆくことが神様の願いであるのかということが次の問いかけになりますが、その具体的な方法が1節後半に記されていますのでご覧ください。ここで「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とパウロ先生は勧めています。ここに「自分の体を」とあります。しかしわたしたちは心と体は切り離せませんので、この「自分の体を」というのは「全身全霊を」という意味です。また「全人格的」にささげるということです。それは、わたしたちの所有物の一部分、当たり障りのない部分をささげるということではなく、心も体も全体的に神様に喜ばれる生けるいけにえとしてささげるということです。
ここで重要なことは、「生ける」ということ、つまり「生きたままの状態」でささげるということです。神様は死んだ「心のない」いけにえを喜ばれません。また、このささげものは強制では全くありません。すべてイエス様を通して神様がわたしを憐れみ、救ってくださったという恵みへの応答であり、一人ひとりが自分の心で決めてささげることが大切です。そうでないと、「ささげなければならない」という他の人からの圧力、律法主義に陥ってしまいます。わたしたちは、神様の憐れみによって律法主義から解放され、「なければならない」という「しがらみ」から自由にされた者ですから、自由な意思をもって、喜んで、感謝して神様に応答してゆくことが大切です。
また、自由な意思によるささものであるならば、いくらでも良いのかという素朴な疑問も上がると思います。例えば、ある人は「1」をささげ、ある人は「100」を、ある人は「1000」をささげるというとき、ささげものに均等・平等はないと感じる人も出てくると思います。しかし、礼拝や献金をささげるという時に最も重要なことは、「神様がわたしを救うために神様のひとり子イエス様をおささげくださった」という事実を覚え、その恵みへの応答として礼拝や献金をささげるということです。自分が救われたという恵みを「1」ととらえる人もいれば、「1000」ととらえる人、「1万」ととらえて感謝を表す人もいるわけです。
もう一つ大事なことは、「1」とか「1万」という量の問題ではなく、「全身全霊」を、つまり神様が100%ささげてくださったのですから、わたしもベストをささげるというささげ物の「質」が大切です。日本だけに限らず、人から何かいただいたらお返し、返礼をするということが社会の中であります。最近はそういうお返しすることが煩わしいという人も多いようですが、良い物をいただいたのであれば、量にこだわらずに、質の高い、心からの感謝の気持ちを表すことが大切なのではないでしょうか。神様が与えてくださる恵みに対等な返礼はわたしたちにはできませんが、それでも「体」に対して「体」を、「命」に対して「命」をささげる、その気持ち、その信仰を神様は喜ばれ、聖なるささげ物として受けてくださるのではないでしょうか。
もう一つ覚えたいこと、それは礼拝というのは、神様の恵みを得るための「手段」ではなく、「恵みへの応答」であるということです。わたしたちが何かを犠牲にしてささげたら、神様は報いてくださるとか、与えてくださるという考えではなく、神様はすでにわたしたちの救いのために御子を与え、犠牲としてくださっています。全ての恵みは神様から出ていますので、この恵みを受けて、感謝して、応答することがふさわしい礼拝であるということです。
2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とパウロ先生は言います。世の中の考えや価値観、風習や伝統に従って、この世の形にはまって形作られてはなりません。むしろ、神様によって「心を新たに変えてしていただき」なさいとパウロ先生はわたしたちを励まします。この世のものにつながっているとこの世の形になってゆきますが、イエス様を救い主と信じて、イエス様につながるならば、イエス様とご聖霊が働いてわたしたちの心を新たに造り変えてくださいます。この新しい心が与えられることによって、「何が神様の御心であるか、何が善いことで、神様に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ知ることができるのです」とパウロ先生は言い、イエス様につながること、つながり続けることの重要さを強調します。わたしたちの心を変えてくださるのはイエス様だけであって、不完全で弱さのあるわたしたちがどんなに努力しても、新しい心を持つことはできません。唯一できるのは、神様であり、イエス様なのです。神様の愛・憐れみ、主イエス様とご聖霊の助けなしに、わたしたちは御心、善いことを行うことも、わきまえることも、ふさわしい礼拝をおささげすることもできないのです。
ですから、パウロ先生は3節で、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います」、あなたがたに与えられている神様の豊かな憐れみ、恵みを第一に喜び、感謝し、そして日々の生活の中で礼拝としてささげなさい。わたしもこの恵みに生かされ、この恵みを感謝していますというのです。これは日曜日だけのことではなくて、日常生活の中で、それぞれが生かされている家庭やコミュニティの只中でささげるということで、それが家族や隣り人への証となり、恵みの分かち合いとなります。
しかし、まず教会という信仰共同体という中で、神の家族の中で、培われ、整えられ、形作られてゆく必要がありますので、パウロ先生は教会の中でわたしたちがどのように共に生き、仕え合うべきかを3節後半から伝えようとしています。憐れみ豊かな神様と主イエス様の御前で大切なこと、それは悔い改めた者として従順に、謙遜に生きるということです。「自分を過大に評価してはならない。むしろ、神様が各自に分け与えてくださる信仰の度合いに応じて、慎み深く生きなさいとアドバイスされています。わたしたち一人ひとりは、「キリストのからだ」である教会を建てあげてゆくために必要不可欠な存在で、教会は体と同じで、多くの部分が組み合わされて成り立っている共同体であり、お互いが非常に重要な部分なので、それぞれがキリストに結ばれ、主が必要としている存在であることをわきまえることが大切であり、お互いが慎み深く生きることが大切だと励ましてくれています。
6節から8節では、わたしたちは教会を建て上げる者として、恵みによって賜物が神様からそれぞれに与えられているとパウロ先生は言います。ここには7つの賜物が記されていますが、これ以外にもたくさんの賜物がありますので、どれも自分に当てはまらないと気落ちしないでください。また、この賜物は時間とプロセスを通して形作られ、与えられるものですので、一瞬で与えられるものではなく、神様によって徐々に造り替えられてゆく中で与えられてゆくものです。また、何のために賜物が与えられるのかということに関してですが、それは年間聖句の15章2節にあったように、「おのおのが善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上のため」に与えられていると理解することが大切です。
まず6節の「預言の賜物」というのは、神様の言葉を預かり、御心をわたしたちの生活に関連づけてくれる賜物で、今では牧師の働きなのかもしれません。
7節の「奉仕の賜物」ですが、奉仕というギリシャ語は「ディアコネオ」という言葉が用いられていて、ここからディーコン、つまり執事という言葉ができましたので、執事の働きととらえて良いと思います。
「教える」というのは、福音の真理を分け与えるということです。教える資格のある人だけの働きではなくて、わたしたちがイエス様を日々分かち合うことでできる働きであり、決して牧師や宣教師だけの賜物ではありません。
「勧める人は勧めに精を出しなさい」とパウロ先生は言っていますが、これは先ほどの「教える」ということに近いようにも聞こえるかもしれませんが、これは「励ます」ということです。初代教会にもバルナバという兄弟姉妹を励ますことに長けた人がいましたが、教会の中でも笑顔や言葉で励ます人がたくさん必要です。
「施しをする人は惜しまず施し」とありますが、神様に憐れまれている者として、自分の持ち物の一部を必要としている人に分け与えてゆくことができる人も教会に必要です。
「指導する人」というのは教会の中で、また様々な教会の働き、ミニストリーの中でリーダーとして力強くしかし忍耐を持って引っ張ってゆく人のことで、そういう人も教会には必要です。
このリストの最後で「慈善を行う人は快く行いなさい」と励まされていますが、慈善という言葉は思いやり、同情を含む憐れみと同じ言葉が用いられていますので、神様に憐れまれた者として、神様の愛と憐れみを必要としている人々に寄り添い、語りかけ、福音を分かち合うことが神様に求められていることだと導かれます。
ここに記された7つが神様の御心のすべてではありません。しかし、救い主イエス・キリストを通して受けた神様の愛と憐れみ、恵みに感謝を日々おささげしてゆくことが、私たちのなすべき日常的な礼拝ではないでしょうか。それが神様の願い、御心ではないでしょうか。今朝のみ言葉は、わたしたちの心にそのように語りかけられているように聴こえます。