「ユダヤ人も、異邦人も、神をたたえるため」七月第二主日礼拝 宣教 2019年7月14日
ローマの信徒への手紙15章7〜13節 牧師 河野信一郎
今朝もローマの信徒への手紙の15章から神様の語りかけを聴いてゆきたいと思いますが、少しだけ先週の宣教の振り返りをさせていただきたいと思います。神様とイエス様は、わたしたちに「三つの愛に生きなさい」とお命じになられます。すでにお覚えになられたと思いますが、一つは、「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くしてあなたの神を愛しなさい」という愛。二つ目は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という愛。そして三つ目は、十字架に架けられる前に主イエス様が弟子たちにお命じになられた、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という教会内、神の家族内での愛です。
「この三つの愛に対していつも真摯に生きなさい」と神様と主イエス様はお命じになられますが、わたしたちの心の内では、「なぜそのように生きなければいけないのか」という思いが心にすぐに起こるかもしれません。また、「自分の人生、なぜ自分の好きなように生きてはいけないのか」という不快感を抱く人もいるかもしれません。しかし、神様から与えられているこの聖書、旧約聖書と新約聖書を全体的に読んでゆきますと、「この三つの愛に生きること、神を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合ってゆくことこそが、わたしがあなた一人ひとりを創造し、生かしている目的であり、あなたがたの生きる使命である」という神様の御声が聴こえてきます。
先週の宣教では、この三つの愛の中から「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という愛と「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という愛をより具体化したことを聴きました。つまり、この二つの愛に誠実に生きることが、わたしたちを造られた神様をたたえることにつながり、神様はこの愛をご自身への献げものとして喜んでくださるということを聴きました。この二つの愛に心から生きることが神様を心から愛することであることを聴きました。
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という戒めは、言い換えるならば、「神様が愛してくださっている自分を喜び、愛するように、あなたの隣人を喜び、愛しなさい」ということであると思います。そのように隣人を愛し敬ってゆくことがわたしたちの存在理由であり、神様が喜ばれることだと聴きました。15章の1節から3節に「自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリスト・イエスもご自分の満足をお求めになられませんでした」とあります。隣人を愛し、互いに愛し合うことの最高の模範はイエス・キリストで、このお方だけを見つめて、このお方に倣いなさいというのが、ローマにいるクリスチャンたちへのパウロ先生の励ましです。
さて、今朝はローマ書の15章の7節から13節に聴いてまいりたいと思いますが、新共同訳聖書には小見出しがあります。「福音はユダヤ人と異邦人のためにある」とあります。また、今朝の宣教の主題を「ユダヤ人も、異邦人も、神をたたえるため」としました。本当は最後を「たたえるために」としたかったのですが、看板用のお知らせと週報に記す主題が長すぎて支障がありましたので、「たたえるため」としました。なぜそこまでこの事にこだわるのかと申しますと、わたしたちは何のために生かされているのかというわたしたちの存在意義、その目的をわたしたちに知らせるため、パウロ先生は「〜のために」と「ために」という言葉をこの箇所で多く用いているからです。それらをご一緒に見てゆきたいと思います。
わたしたち一人ひとりは、本来、何のために生きているのか、生かされているのかという人生の問いかけに対して、まず7節に「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」とあります。この「神の栄光のために」というのは、「神がたたえられるために」と訳すことができます。で、そのために「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と言われています。これは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という戒めの具体化されたことです。つまり、「愛し合う」というのは、「受け入れ合う」ということです。主イエス様は、「それによってあなたがたがわたしの弟子であること、キリストを信じて従う者であることをあなたがたの周囲の人々が、隣人が知るためです」とおっしゃいました。言葉というのは、行いが伴わなければ、陳腐なものになります。愛しますと言って、実際に愛さなかったら、何の意味もありません。キリストに従っているという告白、証になりません。わたしたちは、何のために生きているでしょうか。生かしてくださっている神様に、その答えがあります。7節には、互いに愛し合い、受け入れ合うということは、わたしたちが神様をたたえられることであり、人々によって神様がたたえられることになるということが記されています。
次の8節の最初の部分に注目しましょう。「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです」とあります。ここにも「ために」とあります。イエス・キリストは、父なる神様の「真実」を現すために、ユダヤ人たちに仕える者となられた」とありますが、ここで言われている神様の「真実」とは、神様はユダヤ人たちを愛しておられると言う真実です。その真実な愛を現し、ユダヤ人たちも救いを受けることができるように、イエス様はユダヤ人たちのためにも死なれ、贖いの死をもって仕えてくださったと言うことが記されています。
主イエス様は、父なる神がたたえられるために、ユダヤ人とその他の異邦人を全て愛し、受け入れてくださり、全ての人の罪の赦しのために十字架に架かって贖いの死を遂げてくださいました。それは、イエス様を通して罪赦され、救われたすべての人々、私たちが神様の愛と赦しに感動し、喜びと感謝の賛美をもって神様をほめたたえるためだとパウロ先生は言うのです。ですから、神様をほめたたえるために、主イエス様に倣って、主イエス様が受け入れられた人々をあなたがたも受け入れ、恵みのうちに共に歩みなさいと促されています。
当時のユダヤ人と異邦人は、お互いを兄弟姉妹と呼び合うことはありませんでした。彼らの間にいつもあるのは仲違い、敵意であり、自力では飛び越えられない高い壁、埋められない深い溝です。この社会的構造は、神様と私たちの関係にも見られるものです。すなわち、私たちは神様に対して罪を犯し、神様に背を向けて会い見えることを拒否し、愚かにも自分たちでは簡単に飛び越えられない壁を作り、埋められない深い溝を作ってしまいました。
しかし、その壁を打ち壊し、その溝に十字架という橋をかけて、神様と私たちをつなげてくださったのが主イエス・キリストです。このイエス様の十字架によって、私たちの罪は赦され、神様に再びつなげられ、神の子と呼ばれる者にされました。わたしたちにその様な資格があったからではなく、まったくの神の憐れみによって、神様の一方的な愛によって、イエス様の執り成しによって神様に受け入れられ、救われ、いま私たちは生かされています。この驚くべき恵みによって、神様に受け入れられたのだから、あなたがたも互いに相手を受け入れなさいとパウロ先生は言うのです。
教会にも、多種多様なバックグラウンドを持った人々が招かれています。この人の価値観は自分のものと違うなぁと思える人や、性格が自分と正反対だなぁという人もいると思います。融通のきかない人、ルーズで無責任な人もいますでしょう。いろいろな人たちが教会に招かれています。その全ての人を神様とイエス様は愛し、受け入れてくださいました。ですから、私たちも主イエス様に倣って、互いに受け入れ合い、愛し合い、神の家族として共に生き、共に神様に仕え、共に神様をたたえる。その様な恵みにわたしたちは招かれているということを覚えたいと思います。
8節後半から9節後半に「それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」とあります。イエス様は、ユダヤ人たちを救うと言う神様の約束を果たし、神様が真実なお方であることを証明するためにこの世に来て仕えてくださった。そして異邦人をも救うために来てくださったとパウロ先生はここで言います。ユダヤ人、そして異邦人のどちらも救うために神様は主イエス様をわたしたちのもとへお遣わしくださったのです。
ユダヤ人クリスチャンは、異邦人クリスチャンを受け入れる必要があるとパウロ先生は言います。何故ならば、救いの中に異邦人を含めるというのは、神様の御心であり、イエス様が来られた目的の一つであるからです。また、異邦人クリスチャンは、ユダヤ人を救うことが神の関心事であり、神の約束であることをいつも覚えて神様のみ旨を尊重しなければなりません。
パウロ先生は、9節から12節で、旧約聖書から4つの言葉を引用し、神様の愛と憐れみはイスラエルに満たされた後、そこから溢れ出た恵みは異邦人に注がれてゆき、異邦人が神様をたたえる仲間に加えられてゆくことが旧約の時代からずっと神様のご計画の中心にあったことを伝えています。
9節の「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」は、詩編18編49節からの引用です。10節の「異邦人よ、主の民と共に喜べ」は申命記32章43節からの引用です。11節の「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」は詩編117編1節からの引用です。12節の「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける」は、イザヤ書11章10節からの引用です。これらの言葉が少し違うのは、ヘブル語からギリシャ語へ訳された聖書から引用しているからです。
さてここにモーセの5書と呼ばれるものの中から申命記、そして詩編、そして預言書の一つであるイザヤ書から引用されていますが、それは旧約聖書全体を通して、異邦人の救いが約束され、神をたたえる仲間に加えられることが神様の御心であることをはっきり示すためです。神様の愛は、ユダヤ人だけでなく、全ての人に注がれていると言うことがここで宣言されています。キリストの福音は、全世界の全ての人のためにあると言うことがここで宣言され、共にこの恵みに預ろう、そして共に神をたたえようと励まされています。
13節に「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」というパウロ先生の祈りが記されています。希望の源である神様から、イエス・キリストと言う救い主が全ての人にもれなく与えられてきましたし、今も後も与えられます。それはイエス様を信じる人が、その信仰によって、救われているという喜びとイエス様を通した神様と和解しているという平和で満たされ、聖霊の力によって希望に満ち溢れ、神様をたたえ、神様と隣人を愛して仕えて生きてゆくためです。
この愛をまだ受け取っておられない方は、今朝、神様の御手から受け取ってください。この愛はあなたの目の前にいま差し出されています。信じるだけで良いのです。どうぞ受け取ってください。この恵みをすでに受け取っている私たちは、この恵みを独り占めにしないで、一人でも多くの隣人に分かち合ってゆきましょう。それがわたしたちの生かされている理由であり、使命であるからです。言葉で愛し合うのではなく、行いで愛し合いましょう。神様の栄光のために、神様の真実を現すために、一人でも多くの隣人が、異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるために。すべての人の心が、神様からいただく喜びと平和と希望で満たされますように、共に生きましょう。主の愛と恵みに生かさせていただきましょう。