福音はイエス・キリストから

「福音はイエス・キリストから」   5月第二主日礼拝   宣教 2020年5月10日

 ガヤテヤの信徒への手紙 1章10〜12節    牧師 河野信一郎

緊急事態宣言が今月末まで延長され、引き続きそれぞれの家や置かれている場所に留まって礼拝することになりましたが、今朝もインターネットを通してご一緒に、賛美と祈り、礼拝をおささげできる幸い、礼拝者として招かれている幸いを神様に感謝いたします。「ゴールデン」というには程遠い自粛のゴールデンウィークが終わり、それぞれの日常生活、テレワークのお仕事、オンライン授業が再開されたと思います。全国的に感染者数が減少傾向にあると報道されていますが、一瞬の油断で第二波が来るやもしれません。まだまだ気を緩めるべき時期でないと思いますので、お互いの健康と命のためにステイホームを心がけましょう。

さて、今朝も、感謝な報告からさせていただきたいと思います。去る2月23日の週からずっと祈り続けていただきましたDFさんは、長い戦いの末、コロナウイルスから完全に解放され、去る8日に退院され、明日アメリカへ戻られることになりました。CFさんから写真が届けられましたのでスクリーンをご覧ください。退院直前のご夫妻の写真と退院後にホテル前を少し散歩され、外のフレッシュな空気を味わった時の写真です。大久保教会の会員で、この3ヶ月間DFさんの治療に当たって来られた兄弟から、病院の医療従事者の方々と写った集合写真もわたしに送られてきましたが、プライバシーの問題がありますので、ここではシェアできませんが、共に戦って勝利を収めたという誇らしい集合写真でした。ご夫妻は、大久保教会の皆さんをはじめ、癒しのために心を尽くして祈ってくださった方々に心から感謝していますと言っておられました。

2月11日に国際医療センターに搬入され、最初の1ヶ月間は何度も生と死の狭間を行き交う経験されたそうですが、優秀で熱心な医師たちや看護師たちの懸命な治療と尽力と新しい薬が功を奏して、ちょうど3ヶ月後の5月11日に日本を離れ、アメリカへ戻られることになりました。病院では「奇跡のDさん」と呼ばれていたそうで、アメリカへ戻られたら、二つ目の命を与えてくださった神様の愛・憐れみを証して生きてゆくと言っておられました。これまでのお祈りを本当にありがとうございました。癒し主なる神様、イエス様に感謝いたします。わたしは、アメリカの母からFさんご夫妻との出会いと関わりを手記にして読ませて欲しいと頼まれていますが、記憶が鮮明な間に書いてみたいと思います。

さて、母といえば、今日は「母の日」であります。すべてのお母さんに感謝いたします。わたしは、自分の母親を愛し、尊敬していて、まだ元気でいてくれることを日々神様に感謝していますが、わたしとは正反対に、お母さんのことが大嫌い、どうしても許せない、そのような悲しい思いに至らせた辛い過去、体験をもたれる方も確かにおられます。しかし、たとえ母と思えない、思いたくない、感謝できないようなお母さんでも、主なる神様はその人に命を与え、母の体内で形造り、この世に誕生させる器としてお母さんを用いられたのです。

もしかしたら、皆さんの中にそのような方がおられるかもしれません。生かされていることを感謝するよりも、自分の容姿、性格、DNA、そして今の境遇などをご両親の所為にし、自分自身をも愛せなくなって、生きていても仕方がない、生きている意味なんてないと思い苦しんでおられるかもしれません。お友達と自分、お友達の親と自分の親、お友達の置かれた環境と自分の置かれている環境や境遇を比べて、隣の庭が青く美しく見えてしまい、自分は不運、不幸だとふさぎこんでいるかもしれません。しかし、大切なことを聖書に記されている神の御言から知ってください。あなたを造られ、いま生かしておられるのは、あなたを愛する神様です。あなたは神様に望まれて生まれてきた存在であります。

わたしの友だちがイミダスという情報誌に掲載された「母の日にお母さんに感謝できなくたっていい」というコラムを紹介してくれて、わたしがこれまで何となくボンヤリ知っていたことを母の日を喜べない、感謝できない人の視点から見た「母の日」ということを考える機会をくれましたので、前のスクリーンにその情報をシェアしたいと思います。ぜひ検索して読んでみてください。宣教要旨の最後にもリンクを貼っておきます。しかし、どうぞ、検索は礼拝後にしてくださいね。よろしくお願いいたします。

さて、皆さんの中で、先にお母様を亡くされた方々は、お母様との大切な思い出を何度も思い返される方もおられるでしょう。また、現在ご両親の介護にお忙しい方々は、本当に大変だと思いますが、限られたお母様やお父様との地上での時間を大切にしていただきたいと思います。高齢者施設では、感染防止のため、早々と2月から家族との面談ができなくなっており、お互いに辛い日々を過ごされていると聞いています。電話やLINEでつながって、声を聞いたり、顔を見て健康を確認し合うこともできますが、やはり実際に顔と顔を合わせて話したい、手を握ったり、ハグしたいですよね。けれども、それが今できない状態が続いています。だからこそ、主に信頼して、大切な人のために心を尽くして神様に祈ることが大切です。主なる神様が最善をなしてくださいます。お母さん、お父さん、家族、友人たちのこと心配する時間とエネルギーがあるなら、その大切な人々のために祈ることに費やしましょう。

わたしたちはどんな時でも祈れます。一言二言の短い祈りでも「神様!」と呼ばわり、「イエスさまのみ名」で祈れば、わたしたちの思いは神様に届きます。「神様、わたしを母の体内で形造り、この世に生を授けて今生かしてくださり感謝します。あなたの愛、母の愛に感謝します。どうぞあなたの愛に十分に応えて生きて行けるように、主よ、どうぞあなたの愛をさらにわたしに注いでください。あなたの望まれる霊の実をわたしに結ばせ、あなたが喜んでくださいますように、イエスさまが愛してくださったように、わたしも母や周りの人を愛することができるように、主よ、助け、愛に生きる力を与えてください」と祈ってみましょう。

わたしたちにはイエス様と同じように生きる、愛する力はありませんが、その力の源である神様に求めるならば、神様は祝福をもってその力を豊かに授けてくださいます。この愛の力を受け取って歩む時、わたしたちはいつも喜んで、絶えず祈り、すべてに感謝できる、愛の人へと神様に憐れみの中で造り替えられてゆきます。主を信じて、主に絶えず求めましょう。

さて、新型コロナウイルスの感染から大切な人の命を守るために、みんな頑張っていますが、あまりにも頑張りすぎて、心が疲れ、また弱ってしまい、様々なストレスを感じる中で、「優しさ」を失ってしまっている人が、わたしを含めて多くなっていると思います。マスクをしていない人を見たり、花粉症や喘息かもしれないのに咳やくしゃみをする人をにらんだり、買い物の時にソーシャルディスタンスを守れない人たちにイラっときたり、自分のことは棚に上げて周りの人を感染者のように疑う目で見たりする。優しい心がどこかに行ってしまっているように感じます。

わたしの牧師仲間の一人が転勤で関東から九州へ昨年移り住んだのですが、車のナンバー登録をすぐにしなかったようです。たぶん関東のナンバーであったからかもしれませんが、先日車を運転している時に後ろから煽られたり、クラクションを鳴らされるという残念な出来事に遭遇したそうです。本当は、いつもはみんな優しいと思うのです。フィッシャーさんご夫妻も、日本の人たちはみんな礼儀正しくて優しい、異国の地でも常に安心感を与えてくれたと言っておられましたが、新型コロナウイルスへの不安と恐れと混乱の中、また長引く不自由な生活の中で、一部の人だけかもしれませんが、でも、多くの人は優しさや思いやる気持ちが弱くなっていると思い、わたしたちに今必要なのは、「優しさ」だと痛感するのです。皆さんは、どのようにお感じなられるでしょうか。

しかしながら、この「優しさ」は一体どこから来るのでしょうか。また、わたしたちは、どうやったら、冷静さを保つと同時に「優しさ」を持ち、継続して持ち続けることができるでしょうか。どうしたら年間標語にある「御霊の実」を結ぶことができるでしょうか。皆さんは、ご自分の心の「優しさ」を保つための秘訣をお持ちでしょうか。しかし聖書の教える秘訣は、たった一つ、救い主イエス・キリストにつながり続けるということです。イエス様につながり続けると、どういうことが起こるでしょうか。それは、優しくなる栄養素がイエス様を伝わって神様から注入されます。その御霊、愛の力を受けて初めて神様の喜ばれる実を結ぶことができると聖書は教えます。わたしたち一人一人が自分の力や努力で結びうる実ではありません。わたしたちには実を結ぶ力はないのです。しかし、神様がわたしたちの只中で働かれて実を結ばれるのです。わたしたちがその実を結ぶために、神様から遣わされた「言」であるイエス・キリストに聴くことしか、優しさが与えられ、持ち続け、思いやりを持って生きてゆく方法、秘訣はないのです。主イエス様は、「わたしにつながっていなければ、あなたがたは実を結ぶことはできない」とはっきりおっしゃるのです。「わたしにつながりなさい、従ってきなさい」という招きの言葉が、イエス・キリストの福音なのです。

先週、わたしは一つの賛美との出会いが与えられ、もっと謙遜になりたい、もっと優しい人になりたいと思う経験をしました。昨年来のお友だちであるゴン・ミンさんとシオンさんご夫妻は、ここ最近、精力的にユーチューブで素晴らしい賛美や演奏を紹介してくださっていますが、先週はシオンさんの「愛は」というデュエットの賛美が紹介されました。二つの優しい歌声と美しいメロディー、アレンジ、演奏など、深く感動しましたが、歌は韓国語ですのでわかりませんが、感動したのは日本語の対訳がついた歌詞です。新改訳聖書の第一コリントの13章4節から8節の前半、そして13節の御言葉がそのまま歌詞となっています。何度も繰り返してその歌詞を追いながら聴きましたが、御言葉と歌声とメロディーによって心が優しくされてゆくような感覚を覚えました。聖書に記されている神様の御言葉と人間の感性から生み出される音楽・旋律・歌声が融合される時、本当に不思議ですが、神様の愛の化学反応?が生じるようです。わたしたちの傷つき、疲れ果て、弱り果てた心を癒し、喜びと平安で満たし、わたしたちの心を何度も繰り返し優しくすることができるのは、神様、イエス様しかおられません。聖書の御言葉とメロディーが融合する時、神様とその愛を、イエス様を救い主とほめ讃える賛美が生まれてゆきます。

さて、ここ数週間の河野の宣教を聞いていると御言葉の取り次ぎというよりも、自分が嬉しかったことや感動したことを話しているだけ、シオンさんの賛美の宣伝をしているだけに聞こえる。大久保教会の牧師は、誰か特定の人たちに取り入ろうとか、気に入られようとしているだけではないかと不信感を募らせる方もおられるかもしれません。しかし、どうぞ誤解しないでください、そのような下心など決してありません。けれども、どうしてもそのような懸念を払拭できないとお感じになられるならば、ぜひ一度シオンさんの「愛は」という賛美をユーチューブで繰り返し、せめて3回は聴いてみてください。賛美やメロディーは素晴らしいですが、日本語の対訳の歌詞・御言葉に目と心を注ぎながら聴いてみてください。ユーチューブが見れない方はどうしましょうか。ご家族やお友達と一緒に見てくださいませんか。それも無理ならば、わたしにお電話ください、何とか対応したいと思います。

さて、ガラテヤ地方に生きる信徒たち、イエス・キリストを信じる人たちにパウロ先生は手紙を書き送るのですが、その手紙が書き送られた最大の理由と目的が6節に記されていることを先週ご一緒に聴きました。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」とあり、これが手紙を出したパウロ先生の理由です。そして、今回の10節から手紙の本題へと入ってゆきますが、その前に、このガラテヤ地方にあった諸教会に、パウロ先生が伝えたキリストの福音とは違った福音を伝えようとした人たちが存在したという事実を踏まえる必要があります。

それではパウロ先生が伝えた福音は何であり、「違った福音」とは何であったのかを知る必要がありますが、パウロ先生が伝えたキリストの福音には三つのディメンション(特性・要素)があります。1)救いはイエス・キリストのみにある。2)信仰によってのみ神に受け入れられ、恵みのうちに救われる。3)ユダヤ人以外の異邦人も救われる。この三つです。しかし、「違った福音」というのは、簡単に言うと、1)救いはイエスを救い主と信じることプラス、モーセの律法を守る中で得られる。2)異邦人はユダヤ人の生き方に習って生きる必要があるというものです。しかしパウロ先生は、それは違う、あなたがたは間違った道、福音理解に迷い出てはいけない、イエス様を救い主と信じる信仰によってのみ、恵みのうちに救われているのだから、決して自分の努力や行いで救いを得ようとしてはならないと訴えるのです。神様から無償で提供されている救いと愛を喜んで受けなさいと言うパウロ先生が伝える福音と、無償で提供されているけれども自分の稼いだお金でそれを買い取りなさいと言う福音、どちらが本当の良い知らせでしょうか。

こんなことを言って、つまりそんなカッコイイこと、強気なことを言って、オベンチャラを使って、わたしは誰に取り入ろう、気に入られようとしているのでしょうかとパウロ先生は言っています。人々の支持や承認、賞賛を得るために福音を語っているのか、それともキリスト・イエスから命じられ、託された福音を伝えようとしているのか、「もし、今もなお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」と言っています。「キリストの僕」とは、その言葉通りにイエス・キリストに忠実に使える者ですが、この「キリストの僕」とは、人々からの好意や支持や賞賛を受けたいと言う欲望から解き放たれて、只々イエス様に、神様に喜んでいただきたい、そのために一生懸命に生きたいと願い、イエス・キリストに全幅の信頼を置き、キリストの言葉に聴き従う人です。

わたしたちもそのようになりたいと願う者ですが、そのように作り替えてくださるのは主イエス様、神様だけです。神様の言葉に力があります。イエス・キリストという神の言に神様の愛が完全な形で表されています。パウロ先生は11節と12節でこう言います。「兄弟姉妹たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」わたしがあなたがたに伝えた福音は、自分で考え出したものでも、他の使徒たち、例えばペトロから教えられたものではなく、ユダヤ教や律法や伝統の影響を受けたものではなく、ましてやエルサレム教会の影響を強く受けたものではなく、救い主イエス・キリストから直接啓示された福音、良き知らせ、イエス様を信じる信仰によってのみ救われるというイエス様の宣言、固い約束なのですとパウロ先生は訴えるのです。

この主イエスの愛と約束に生かされて、人々に優しい謙遜な人として生きる。そのために、まずイエス様を信じること、福音に聴くことから始め、祈り、感謝し、御言葉を口ずさみながら、主を賛美しながら共に生きてまいりましょう。

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