「復活の主イエスに変えられた人」 5月第三主日礼拝 宣教 2020年5月17日
ガヤテヤの信徒への手紙 1章13〜24節 牧師 河野信一郎
今朝も、この場所で礼拝を配信するために仕えてくださる皆さんと、またインターネットを通してこの時と場に出席くださっている皆さんとご一緒に神様へ礼拝をおささげできる幸いを感謝いたします。主イエス様が礼拝者としてわたしたちを招いてくださっている恵みを主に感謝いたします。多くの地域で緊急事態宣言が解除されましたが、東京、神奈川、埼玉、千葉という関東一都三県に生かされているわたしたちは、もうしばらくの間、このような形で礼拝をおささげすることになります。この配信はアメリカでも視聴され、礼拝されていますが、主なる神様はわたしたちがいま何処にいるかということよりも、わたしたちの心をご覧になられ、わたしたちの心がいま神様に、主イエス様に向かっていることを何よりも喜ばれますので、たとえそれぞれ異なった場所に置かれていても、違う時間帯に視聴されていても、思いを一つに、真心からの賛美と祈りと礼拝をささげているならば、神様とイエス様は喜んで受けてくださいます。そのようにご聖霊が励まし、導いてくださるのです。主に信頼し、感謝して、これからも礼拝をおささげしてまいりしましょう。
さて、皆さんの去る週は、どのような1週間であったでしょうか。大変なことも多々あったかと思いますが、心が慰められ、励まされ、勇気づけられること、感謝なことも色々とあったことと思います。大久保教会にとって感謝だったことの一つは、去る11日の月曜日にフィッシャーさんご夫妻がアメリカへ帰国され、無事に到着されたというニュースでした。ダイアモンド・プリンセス号内で感染し、2月4日から5月11日までの約100日間、新型コロナウイルスと戦って、神様が憐れみのうちにダンさんに癒しを与え、ひたすら信じて祈ったわたしたちに勝利を与えてくださり、彼らを愛する人たちの元へ元気に帰ってゆかれました。
まず、帰国直前にご夫妻にお会いしに行った時の写真をお見せしたいと思いますが、すみません、マスクもしていません。ソーシャルディスタンス(社会的距離)、フィジカルディスタンス(身体的距離)もとっていません。皆さんの中には、「これは絶対ダメだろう!」と驚愕され、私の行動を牧師としてあるまじき身勝手な振る舞いと批難される方もおられるかもしれませんが、キャロルさんの笑顔がすべてを物語っていると私は信じています。これは不要不急の外出ではありません。彼らが日本を離れる前に、どうしてもダンさんに会っておきたかった、どうしても祝福を祈りたかった。そういう行動です。批判は甘んじて受けます。
また数日後に、無事に到着したという連絡がモリナバプテスト教会のアマンダさんからあり、このような写真が送られてきました。この写真は、フィッシャーさんご夫妻を出迎えた時の写真だそうで、モリナという小さな町のローカル空港に到着したご夫妻を出迎えるために、ソーシャルディスタンス(社会的距離)、フィジカルディスタンス(身体的距離)をしっかり取りながら、ご夫妻が車に乗って町に帰ってくるのを、写真のようなプラカードなどをもって道端で待ったそうです。
この写真は、その時に集まった一部の人たちの集合写真です。私が冗談混じりに「みんな、マスク付けてないよ〜。フィジカルディスタンスも守られていないよ〜」とメールでツッコミを入れるほど、みんな感染をまったく恐れていないと云うことを物語る写真ですが、アマンダさん曰く、教会の皆さんがこのように集まったのは実に2ヶ月ぶりだったそうで、医師たちから余命あと36時間と考えられていたダンさんが完全に癒されて、ご夫妻が自分たちのもとに帰ってくることが嬉しくてたまらなかったそうです。その気持ち、私たちもよく分かります。
モリナ教会ではわたしたちの教会と同様で、現在もライブ配信の礼拝ということですが、アメリカ時間の今日の礼拝ではフィッシャーさんたちの帰還を大変喜ばれることでしょうし、癒し主であり、祈りを聞いてくださる、生きた、力ある神様に喜びと感謝の礼拝をおささげされることでしょう。キャロルさんとダンさんもこの日本での3ヶ月間、神様がどのように彼らを愛し、取り扱ってくださったかを証し続けることでしょう。大久保教会の皆さんが、またそれぞれの教会の皆さんが戻るべき所に戻れたら、大きな感動、喜び、感謝に満ちた礼拝をおささげいたしましょう。それが霊の実を結ぶということであり、神様が喜ばれるわたしたちのささげものであると信じます。
さて、わたしたちはシリーズで、ガラテヤの信徒への手紙から神様の語りかけを聴いていますが、今朝はその4回目となります。パウロ先生がガラテヤ地方で福音の種を蒔き、導いたクリスチャンたちに対して、パウロ先生は手紙を書き送るわけですが、その最大の理由が6節に記されています。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」とパウロ先生は嘆いています。
前回聴きました1章10節からこの手紙の本題へと入ってゆくわけですが、パウロ先生が誠心誠意を尽くして伝えたイエス・キリストの福音とはまったく違った他の福音を伝えようとした人たちがガラテヤ地方の諸教会に入り込んでクリスチャンたちを惑わしていたという事実と、いとも簡単にそちらへなびいてしまったクリスチャンたちがいたという事実を確認しました。これは約2000年も前に起こった危機的な事例ではなく、今日も同じことが起こりうる、パウロ先生の時代よりもっと凄い異端がはびこる時代、状況になっているから十分に気をつけなさいという警告でもあります。
実際に、いま首都圏を中心に「全○神」という中国から来ている間違ったキリスト教の教えを伝え、惑わそうとするグループが潜伏しはじめていますから警戒しなければなりません。この「全○神」のアジトは新大久保にあると言われていますので、なおさら警戒が必要です。もしかしたら、このライブ配信も観て大久保教会を調査しているかもしれません。もし画面の向こう側の皆さんにキリスト教の異端グループから悩まされている方がおられましたら、例えばこの「全○神」であったり、韓国系の異端グループであったり、エホバの証人の洗脳に悩まされている方がおられたり、家族や友人で苦しんでおられる方がおられたら、強力な助っ人が知り合いに二人いて、すぐに紹介できますのでご連絡ください。秘密は必ず守ります。
さて、話が少し逸れてしまいましたが、前回の振り返りに少しさせていただきます。パウロ先生がガラテヤ地方のクリスチャンたちに伝えたキリストの福音には三つのディメンション(特性・要素)があります。1)救いはイエス・キリストにある。2)信仰によってのみ神に受け入れられ、恵みのうちに救われる。3)ユダヤ人以外の異邦人も救われる。この三つ。イエス様を贖い主、救い主と信じるだけで十分、救いを受けるということです。
しかし、「間違った他の福音」というのは、簡単に言うと、1)救いはイエスを救い主と信じることプラス、割礼を受け、モーセの律法を守る中で得られるということ。この「割礼を受けて」ということを前回分かち合うことを忘れてしまい、申し訳なく思っていますが、間違った福音を語る者たちは、「救いイコール信仰と割礼と律法」と教えしました。もう一つの間違った福音とは、2)異邦人はユダヤ人の生き方に倣って、ユダヤ人のように生きる必要があるという要求です。つまり、「律法主義的ユダヤ系クリスチャンになれ」ということです。
しかしパウロ先生は、それは絶対に違うよ、あなたがたは間違った道に迷い出て、間違った福音理解をしてはいけない、イエス様を救い主と信じる信仰によってのみ、主の恵みのうちにあなたがたはすでに救われているのだから、決して自分の思いや努力や行いで救いを得ようという間違いを犯してはならないと訴えるのです。前回もお話ししたことですが、神様から無償で、無条件で差し出されている神様の愛、救いを喜んで受けなさいと言うパウロ先生が伝える福音と、それプラス自分の稼いだお金でそれを買い取りなさいと言う福音、どちらが本当の良い知らせであろうかと云うことを考えました。
パウロ先生は11節と12節でこう言います。「兄弟姉妹たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と。
わたしがあなたがたに伝えた福音は、自分の知恵と経験とで考え出したものでもなく、ペトロのような使徒たちから教えこまれたものでもなく、またユダヤ教や律法や伝統の影響を受けたものでもなく、ましてやエルサレム教会の影響を強く受けたものではなく、神様によって死から甦らせられた復活のイエス・キリストから直接啓示された福音、「イエス・キリストを救い主と信じる信仰によってのみ人は皆救われる」という主の宣言、固い約束なのだとパウロ先生は訴えるのです。
パウロ先生は、復活の主イエス様から直接授かった福音と、人々の伝統や考えや都合に合わせた福音とは根本的に違う、その違いと大きな間違いに気づいて欲しいと訴えるのです。これほどまでに、ガラテヤ地方の諸教会とクリスチャンたちは切迫した状況の中に置かれていたのです。わたしたちも、同様に、一瞬の油断で、いっ時の気の緩みで、神様の祝福が奪い去られ、自分の力で生きていかなければ救われないと思い込む危険にさらされるのです。
さて、今日の聖書箇所は1章13節から24節ですが、内容はパウロ先生のミニ自伝・伝記という感じです。しかしパウロ先生はここでわたしたちに何を伝え、何を知って欲しいと願っているのでしょうか。簡単に申します。ここに記されている内容は、パウロ先生の過去ではなく、「今わたしは人や伝統につながれているのではなく、神様の憐れみのうちに、復活されたキリスト・イエスに、神の愛につなげられているのです」という告白です。
「わたしは、確かに過去にユダヤの教え、律法、祖父たちの時代から受け継がれて来た伝統や風習、ユダヤの人々にだけつながって、ユダヤの神に仕え、ユダヤ人のために生きて来た。ユダヤ人が一番、ユダヤ教が一番、モーセの律法が一番、律法を固く守っていれば幸いを得ると信じきって生きて来た。呪いの木にかけられて死んだイエスが復活したと信じるクリスチャンを迫害し、根絶すれば、神は喜んでくださると思い込んで頑張って生きて来たけれども、今はまったく違う。わたしは、復活の主イエス様に出会い、聖霊によって造り変えられ、使徒として召され、今まで無視して蔑んできた異邦人たちを愛し、異邦人の救いのために生きる者となった。今はイエス様が一番!このお方によってのみ真の救い、平安、幸いを得ることができる」と告白するのです。
パウロ先生は、「自分は今まで本当に限られた人たちとの関係性、つながりの中で熱心に学び、生きて、多くのクリスチャンと神の教会を迫害して来たけれども、その迫害者に復活されたイエス様が出会ってくださり、使徒として召してくださった。今わたしが宣べ伝えている福音は、救い主イエス様から直接啓示された、神様の側よりあらわされた神の愛、真理である」と言っているのです。先頭に立ってキリスト教会とクリスチャンたちを迫害して来た者が、復活された救い主イエス様に出会って、いや、出会ってくださり、この復活の主イエス様がわたしの手をぎゅっと握りしめてつながってくださった。そればかりでなく、わたしの人生を180度かえ、確かな人生の目的、生きる使命、その保証と確信さえも主から与えられている。これはすべて「神様の御心」であり、御心であるならば、わたしは神の御心のままに生きてゆきたい、キリスト・イエスの福音を大胆に語り伝え、主イエス様の十字架の死とご復活を宣べ伝えてゆく、いや、伝えてゆきたい、一人でも多くの人たちが復活したイエス様に出会って、信じて、従って、神様をほめたたえて生きて行けるように仕えたいというパウロ先生の強い思いが伝わって来ます。
さて、皆さんに質問です。皆さんは、いま何につながって生きておられますか。何に信頼し、何を心の拠り所としておられますか。自分自身でしょうか、それとも今まで自分の力で積み重ねてきた知識、経験、築き上げてきた地位や名声や富でしょうか。わたしたちの生い立ち、過去、そこで経験して来たものはみんな違います。パウロ先生のような劇的な救いの経験ではなくて、クリスチャンの家庭に生まれたとか、長い時間をかけて信じるように至ったという方もおられると思います。
しかし、わたしたちにとって最も重要なのは、復活の主イエス・キリストに出会い、イエス様につながることです。このお方を通して父なる神様につながることです。主イエス様は、今朝も「わたしにつながりなさい!」と招いてくださっています。復活の主イエス様を信じるとは、イエス様がわたしの罪を贖うために十字架でその命をささげてくださったという犠牲と愛を信じ、悔い改め、このイエス様を死の淵より甦らせてくださった父なる神様の愛を受け取り、感謝し、喜ぶことです。このイエス様を信じて、心に受け入れる時、神様の霊・ご聖霊がわたしたちの心を住まいとされ、それぞれの心を造り変え、新たなる力で満たし、生きる目的、使命、平安と希望を与えてくださいます。復活の主イエス様にわたしたちを変える力があります。主を喜ぶことは、わたしたちの大きな力、慰め、励まし、祝福となります。主イエス様を信じて従いましょう。