2016年6月の大久保バプテスト教会の賛美曲
新生570番 「たとえばわたしが」
(初行) たとえばわたしが
(曲名)TOMO NI IKIRU
- 作詞・作曲 野中宏樹 (1962- )
福岡大学卒業。1979年、小倉教会にて受侵。西南学院大学卒業。平野教会牧師を経て、現在、鳥栖教会牧師。
この賛美歌は、作者が大学生の時に出会ったマーガレット・パワーズの詩 〝Footprint(あしあと)をモチーフに、北九州市の喫茶店「山小屋」を会場に行われていたクリスマスコンサートのために作詞、作曲されました。その喫茶店で10年続いたクリスマスコンサートの中で次のようなことを知らされた新生讃美歌ハンドブックに書かれていました。
『その喫茶店のママさんは在日韓国人の方で金さんという方でした。そしてそのご主人は日本が朝鮮半島を植民地支配していたときに強制連行で九州の炭鉱に連れてこられたこと、戦後もひどい差別と偏見の中で苦しんだこと。そしてそのことを知らなかった自分、知ろうとしてこなかった自分にコンサート8年目に気づかされました。イエスさまのあしあとが私の横にあればうれしい、などと自己満足の歌詞を並べ立てていたその自分の横で、金さんは黙ってそのことに気づくまで一緒にあしあとを刻んでくださっていたことに気づきました。〝あしあと〝はイエスさまだけではなく、もっともっとたくさん、わたしの周りで今も刻まれていると思います。』
わたしたちの教会では、愛するK兄を5月29日に天にお送りしました。そのお葬儀でK兄の愛唱歌としてこの賛美を歌いました。K兄が亡くなるその日のお昼頃、河野牧師がご自宅を訪問され、K兄のお部屋に伺ったときに、この賛美歌の詞が書かれていたものが壁に貼られていたのをご覧になったそうです。そのお話を聞いて、きっとK兄はご自宅でも賛美歌を開いて、賛美歌の歌詞を読んでおられたのだろうなぁと想像しました。そして「たとえばわたしが」の歌詞に出会ったとき、彼がその人生の中でつらく苦しい時、彼を背負って共に歩いてくださったイエスさまを、彼が涙を流すとき、共に涙を流してくださるイエスさまを体験してこられたから、この詞に共感されたのでしょう。
K兄と私たちは、地上では共に礼拝をささげることはかないませんが、天からK兄は私たち大久保教会の歩みを見守っておられることでしょう。この一か月間、K兄を偲びつつ、すばらしい一人のキリスト者が私たちの教会の群れに与えられていたことを主に感謝して参りましょう。またK兄のその90年の生涯の中、ずっと彼を見捨てず共に歩んでくださったイエスさまが、わたしたちのそれぞれの人生の中においても同じように共に歩んでくださっていることを心に留めて、わたしたちもイエスさまにつながり続け、共に礼拝を捧げて参りましょう。そして、わたしたちは大久保バプテスト教会というキリストの体を形造る一部分として共に集められ、共に歩んでいける幸いを喜んで、そこに私たちの愛する家族や友人をつなげていくことができるように祈っていきましょう。
最後に、6月は23日に、「命どぅ宝の日」があります。一般的には沖縄戦が終結した日と言われていますが、今なお沖縄では尊い命が奪われ、傷つけられ、戦争は終わったとはいえない現実を抱えています。沖縄の痛みを、叫びを、私たちも共に共感し祈りを捧げていきましょう。
イエスさまと共に、また神の家族としてわたしたちが、共に歩む喜びをかみしめながら、賛美して、今月も歩んでいきましょう!
たとえばわたしが
1. たとえば私が歩けなくなっても
私を背負ってともに歩いてくれる
たとえば私が道をはずれても
私とともにいてそこを歩いてくれる
ともに生きる喜びかみしめながら歩いていく
私のそばにはいつももうひとつの足跡
2. たとえば私が涙を流すとき
ともに涙流し悲しんでくれる
たとえば私がひとりになっても
私を慰め励ましてくれる
ともに生きる喜びかみしめながら歩いていく
私のそばにはいつももうひとつの足跡
- イェス様とともに歩きだすときに
あなたも気づくだろうもうひとつの足跡
砂の上に続くふたりの足跡は
あなたとイェス様の足跡なのです
ともに生きる喜びかみしめながら歩いていく
あなたのそばにはいつももうひとつの足跡