『幼な子と神の国』 [子ども祝福の祈り] 十一月第三主日 宣教要旨 2014年11月17日
(旧)サムエル記上3:1-10 マルコによる福音書10:13-14 副牧師 石垣茂夫
サムエルは乳離れするとすぐ、祭司エリのいる神殿に、祭司見習いとして預けられ、健やかに成長しました。1節に『わらべサムエルは・・・』とありますが。サムエルは既に、12歳になっていて、神殿に泊まり、神の「契約の箱」を守り、灯が消えぬよう、これを守る役目をするようになっていました。
1節の後半に『そのころ、主の言葉はまれで・・・』とあります。主の言葉が、まれにしか聞けないのは、まず、「この神殿に於いてであった」ということです。「神の言葉が取り次がれるはずの神殿」で、神の言葉が聞けないということが起きていたのです。
ある夜サムエルが、いつものように神殿で務めをしていたときのことでした。「サムエルよ、サムエルよ。」と呼ぶ声が聞こえてきました。同じことが三度続いたとき、祭司エリは、「これは、神がサムエルを呼んでおられるのだ」と気付きました。「神の言葉」は、神殿で最高の地位にある祭司エリにではなく、灯を守る小さなサムエルに届きました。『まだ、主を知らないサムエル』(7節)に、主の呼び掛けがあったのです。
エリはサムエルに、「もし、もう一度呼ばれたならば『しもべは聞きます。主よ、お話ください』と言いなさい」と教えました。そして、四度目の神の呼びかけに応じたサムエルは、自分の師である「祭司エリの一族を永久に罰する」という厳しい言葉を聞くことになりました。
世の中の乱れは、神殿を預かる祭司の家で、特に大きかったのです。祭司の職を継いだエリの息子たちは、その地位を悪用して、神殿の捧げ物を奪い、欲望の赴くままに過ごしていました(2:17)。エリもそのことを知っていながら、見過ごしてきたのです。
このサムエルの物語の中で、この朝、最も注目したいことがあります。それは、エリが、自分は神と断絶したと覚悟した時でさえ、神は、方法を変えて、神の側から語りかけてくださっているということです。
今朝は、子どもたちへの神の祝福を祈り求めつつ、礼拝を守っています。マルコ10章14節に「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である」というお言葉があります
このときの「幼な子」とは、まだ一人で行動できない年齢の子どもを指しています。従って、「幼な子らを来るままにさせなさい」という主イエスのお言葉は、幼い子どもを抱いた女性たちをそのまま、わたしのそばに来させなさいということです。「来るままに」という主イエスの招きは、女性たちの思いを越えた出来事を、そこに起こしました。主イエスが祝福するとき、子どもを抱いた女性も跪き、ともに祝福をしていただくことになったからです。
ここに大切な恵が隠されていました。大人が、子どもを祝福してほしいと願う生き方をするとき、子どもと共に、大人のわたしたちも主イエスに抱きとめられ、祝福されることになるということです。わたしたちも今、『幼な子とともに』同じところに座っています。そのとき、この自分こそ、祝福される必要があると、わたしたちも気付かされていくのではないでしょうか。 サムエルのような、子どもたちを通して語られる神の声を、わたしたちもお聞きしましょう。