キリストのために

「キリストのために」  9月第三主日礼拝 宣教要旨       2014/9/21

ピリピ1:29-30,使徒行伝9章10-19節a   副牧師 石垣茂夫

ピリピ1章29節には、「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている」(口語訳)とあります。

「信じること」は神の賜物だ、ということはよく分かりますが、「苦しむこと」も神の恵みの賜物ということは、どう受け止めていけばよいのでしょうか。後になってみれば、「あの苦しかったことも、恵みに変えられた」という程度のことではないようです。

新約聖書ギリシャ語の、この「苦しむ」という言葉は、第一に、キリストご自身の苦しみや、キリスト者の苦しみを表わすときにのみ使われる特別な言葉です。第二に、この語源を辿りますと、「戦う苦しみ」であったということです。皆さんは、ローマのコロセウムという円形競技場をご存知だと思います。そこでは奴隷に中から選ばれた剣闘士が観客の前で戦うという、凄惨な競技が行われていました。苦しみとは、そうしてまでも戦わなければならない、彼らの「戦う苦しみ」を表わしていました。従ってパウロが、「苦しむことをも賜っている」と、ピリピの人々に向けてこの言葉を使ったとき、人の内面の苦しみだけを念頭に置いていたのではないのでしょう。むしろ信仰を持った時から始まる、具体的な信仰の戦いと、その苦しみを念頭に置いて、この「戦う苦しみ」という言葉を、敢えて使ったのだと思えます。

使徒行伝9章にはパウロの回心の記事があります。16節に、主イエスの言葉として、「わたしの名のために、彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」とあります。ここでの「苦しみ」も「戦う苦しみ」という言葉です。

パウロは、最も過激人物として恐れられた、キリスト教を迫害するユダヤ教徒でした。この日もダマスコへ、殺害の息を弾ませながら向かっていましたが、その途上で、復活のキリストが彼に現れ、劇的な回心を経験して「キリストの名を運ぶ人」に変えられた人物です。そのパウロをキリストは「自分のために苦しむ者」として選んだと、アナニヤを通して伝えます。

30節は「あなたがたは、さきにわたしについて見、今またわたしについて聞いているのと同じ苦闘(戦い)を、(戦い)続けているのである。」とあります。事実パウロが、キリストの福音を告げる度に、迫害が起こり,患難に遭遇しています。ピリピでは人々の目の前で、パウロは鞭打たれ投獄されました。「キリストのために苦しむ」パウロの姿は、人びとの目に焼き付いたことでしょう。

これが、「キリストの名を運ぶ器」(使徒9:15)とされ、「キリストのために苦しむことをも賜っている」(ピリピ1:29)と言ったパウロの姿です。このように、信仰が一つの戦いであるとすれば、苦しむこともその中で起きてきます。

教会を挙げて「どのようにして教会の伝道を進めるのか」ということを、創立50年を迎えようとするわたしたちは、取り組んでいます。この一つの事をとっても、わたしたちは繰り返し、悩み苦しんでいます。しかし苦しい事ですが、「苦しみにあずかればあずかるほど喜ぶがよい」(Ⅰペテロ4:12,13)と、主イエスは勝利を約束して下さっています。

わたしたちの、小さな信仰の戦いのゴールは、「キリストのために」と導かれ、「恐れるな小さな群れよ」と励まして下さる主の導きを信じ、従うときに現れてされてくることでしょう。