まことの神の礼拝 宣教要旨 九月第三主日礼拝
旧約聖書 出エジプト記32章1~12節(p147)32:1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。」と・・
新約聖書(招詞)ペトロの手紙一 8節(p428)1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
出エジプト記32章には、偶像を見て礼拝したいと願う人々の姿が描かれています。神と偶像の問題はわたしたちを悩ます深い問題を孕んでいます。何時どのようにしてわたしたちが偶像崇拝に陥るのか誰も油断できない事柄です。人はどうしても見えるものを求めてしまいます。アダムとエヴァの原罪より、もっと根深い人間の罪の姿をそこに見ることができます。この時イスラエルの民は、神の約束の石版をいただいて帰るモーセを待つことが出来ず、アロンにせがみ、金の雄牛の像を造ってもらい、これを神として礼拝します。
このような大きな過ちを犯した人々に対し、神は激しく怒りますが、モーセの必死の執り成しを受けて赦し、再びまことの神を礼拝する者となるのを待ってくださいました。
招詞で、ペトロの手紙一1章8節を読んでいただきました。
使徒ペトロは、主イエスの弟子となって三年ほど、ごく身近で、主イエスをその目で見て生活してきました。しかし、主イエスを直接見ていたときに、心底、イエスを信じ、愛してきたとは言えなかったのです。主イエスのことを良く知っているのに、三度も「わたしはあの人を知らない。」と言ってしまいました。十字架の道に進むイエスを助けることができず、せめて遠くから眺めてその死を見届けて泣いたという辛い経験をしていました。
そのペトロが、「十字架で死んだ主イエスこそが救い主だと、信じられた」のは、実に主イエスが十字架で死に、その死から復活した姿にお会いしてからでした。ペトロは、主イエスが死に、肉の目では、最早見ることが出来なくなったときに、聖霊の導きの中で、初めて主イエスを信じることが出来たという、貴重な経験をした一人なのです。
1:8 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」手紙の主ペトロは、この一つのことに驚いています。手紙の主は、エルサレムから遠く離れて暮らし、そこで信仰を得た人々が、今、キリストにお会いしているかのように、喜びに溢れて信仰の道を歩んでいる様子を知って驚いているのです。ペトロが驚いているのは、まさに今日のわたしたちの姿です。キリストを見たことのないのに信じているわたしたちのことなのです。わたしたちも今朝、このみ言葉の事実に励まされたいと思います。
それではわたしたちは、目に見えない神を、どのようにして身近に感じ、信じていくことができるのでしょうか。
『神がおられるということが分かるのは、議論しているときではなく、神を礼拝し、賛美している時だ。神を礼拝するという体験を持たないでは、神が生きておられるということは分からない』と、C.Sルイスは言うのです。あなたはどう思われますか。