五つのパンと魚(さかな)二匹

「五つのパンと魚(さかな)二匹」 宣教要旨 聖書 ヨハネによる福音書6章1-15節

今朝は「五つのパンと魚二匹」で、主イエスが、大勢の人々を養ったという「パンの奇跡の出来事」を読んでいただきました。

この「奇跡の出来事」は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに一つずつ、合わせて4回も記されています。そのうえで、改めて他の福音書の同じ出来事を、ヨハネと比較して読んでみますと、ヨハネ福音書には、他にない二つのメッセージがあると気付かされます。

一つは、6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。」との言葉が示しています。

「過越祭」とは、イスラエルの歴史の中で、今も続く、最大の出来事を喜び祝う祭りです(出エジプト12章参照)。『エジプトから脱出する前夜、イスラエル人であることを証明するため、過ぎ越しの小羊を屠(ほふ)り、その血を家の入口に塗りなさい。この血のしるしのない家では、人であれ家畜であれ、その家にとって初めて生まれた子の命が奪われる』。というものでした。脱出の前夜、エジプトにいるイスラエルの人たちは守られ、エジプト人の家だけにその災いがくだされ、驚いたエジプト王はイスラエルの人々の解放を、その夜の内に赦したのでした。この時、家の入口に塗るための血は、小羊を屠(ほふ)って得たものです。この犠牲となった小羊と、主イエスが十字架で流された血を、ヨハネの著者は重ねたのです。

更に、ヨハネ福音書6章は、全部で71節ありますが、このすべてを使って、主イエスこそ「命のパン」であると伝えています。それがもう一つのヨハネのメッセージです。

わたしたちは、死をもって終わる限りある命を生きています。パンを食べ、命をつなぐわたしたちの中に、主イエスが「永遠の命」というパンをもってお出でになったと伝えます。草原に集まってきた大勢の人々(男の数で五千人)を見て、アンデレは「二百デナリオンは必要だ。しかしそれでも足りない。」と言い、続けて「五つのパンと魚二匹を持っている少年がいる。これがなんの役に立ちましょう」と、そう主イエスに言いました。

みなさんも、少年が手にした「五つのパンと魚二匹」に感心を持たれたことでしょう。たとえ小さくとも、神はそこを足掛かりとして、ご自身の業をなさるお方だと、この少年と捧げものから教えられたように思いました。これはまさしく、教会の業です。

更にもう一つ、このようなことがありました。「無駄にせず、残った屑を集めなさい」と主は言われたのです。その屑をどうされたのでしょうか。聖書にその後のことは記されていません。これはこういうことではないかと導かれました。神から与えられる恵みは、ただ、自分のお腹が一杯になったということでは終わらず、有り余る豊かさに溢れて、他の人を潤していく、そのような出来事であると、「パンのくず」は物語っているようです。これも教会の在り方、わたしたちの生き方を示していると言えるのではないでしょうか。わたしたちは、自分だけお腹が満たされればそれでよいのでしょうか。受けた恵みを自分の中にしまっておいてよいのでしょうか。「無駄にする」ということは、自分の中に留(とどめ)めておくという事かもしれません。

わたしたちは、自分の食卓に命のパンである主イエスをお迎えして食しましょう。そのとき、恵みは溢れて他の人を潤していくと、この奇跡物語は教えてくれています。