ダビデ王はイエスを誰と云うか

「ダビデ王はイエスを誰と云うか」 十月第四主日礼拝 宣教要旨 2017年10月29日

  詩編 22編2〜9節       牧師 河野信一郎

 シリーズで「イエスは誰か」ということを聖書から聴いています。今回は、イエスが生まれる1000年前に、イスラエルのダビデ王が来るべきメシアについて何と言っているかを聴いてゆきます。詩編にはメシアについて70箇所ぐらい記されていて、例えば詩編89編にはダビデ王の家系からメシアが出ると記されています。メシアの性質と名前については、102、110編に、メシアの地上での働きについては40、78、107、118編に、メシアが裏切られて殺されることは22、27、31、34、35、41編に記されています。他にも、詩編69編と109編にも大変興味深いことが預言されています。メシアの復活と昇天については、16、45、68、80編にしっかりと記されています。

 前回の宣教では、イザヤ書53章を取り上げ、メシア、つまりイエスの御受難についての預言について聴きましたが、ユダヤ人はシナゴーグと呼ばれる礼拝所で、また彼らの礼拝ではこの53章は決して読まれないと云うことです。イザヤ書はメシアについてたくさん記されていますから、ユダヤ人たちは好んでイザヤ書を読むと云うことですが、この53章だけは絶対に読まないそうです。何故ならば、メシアの受難と死について記されているからです。クリスチャンは、例えば53章5節が好きな方もおられます。「彼が刺しつらぬかれたのは、わたしたちの叛のためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けたこらしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。」この預言者イザヤの言葉は、私たちイエス・キリストを救い主と信じる者にとって、とても大切な御言葉ですが、ユダヤ教徒たちにとっては、53章は受け入れがたいものです。何故ならば、ユダヤ教徒たちは弱弱しくて苦しみ痛むメシアではなく、大いなる力を持ってイスラエルをローマから、全ての敵から救い出し、イスラエルに栄光と繁栄を与えてくれるメシアを切に求め、そのようなメシアの到来を待ち望んでいるからです。

 ユダヤ人たちは、預言者イザヤのメシアに関するこの預言だけは完全に無視をします。しかしながら、彼らが心から愛し、尊敬するダビデ王もメシアについて詩をいくつも詠み、その中の一つである22編の最初の言葉を、十字架の上で耐えきれない苦痛と悲しみの中で絶叫されるのです。「わたしの神よ、わたしの神よ、何故わたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」と2節にあります。主イエスは十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と大声で叫ばれたとマタイ福音書27章46節に記されています。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた主イエスの叫びによって、ダビデ王の言葉が成就したのです。神の御子であり、肉においてはダビデ王の子孫であるイエスが死の間際にこの言葉を吐かれた、叫ばれたと云うことには大きな意味があると思います。

 ダビデ王は彼なりに危機的な状態の中に置かれ、信頼をよせていた神に見捨てられたと思えるような体験をしたようでありますし、この詩を詠んだ時には、イエスのことなど思いもしなかったかも知れません。しかし、私たち人間の思いを遥かに超えた中で、神は働き、その思いや言葉を用いられます。1000年の時を超えて、神はご自分の御旨を成就されます。

  さて、本来、詩編22編から24編はダビデ王によって作られた一つの詩であったと考えられています。そしてこの詩編は、「羊飼いの詩編」と呼ばれています。つまり、ダビデ王は、主なる神を、またメシアであるイエスについて、自分を養い、導き、命を守ってくださる良い羊飼いと言っている訳です。そのつながりの中で導かれるのが、ヨハネによる福音書10章11節にあるイエスの言葉です。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言葉です。主イエスは、私たちを罪と死とその恐怖の縄目から解放し、救ってくださるために、十字架に架かってご自分の命を捨ててくださいました。ヨハネは、「そのことによって、わたしたちは神の愛を知りました」と第一ヨハネ3章16節で言います。

  それでは何故、神の御子イエスが十字架に架けられて死ななければならなかったのでしょうか。二つが理由にあります。一つは、私たち人類が犯してきた罪、犯している罪、そしてこれから犯してゆく罪の代償を払えるのは、神しか存在しないからです。それほどまでに私たちの罪は大きく、汚れているから、その汚れから私たちを解放し、救うことができるのは神であられるイエスがその血潮と命によって贖うしか方法はなかったからです。もう一つは、神が死ぬためには、神は死ねませんから、肉体をとり、人として生まれ、人として死ななければならなかったからです。ですから、イエスは、メシア・キリストとして神性と人間性をもって生きられ、死なれたお方 であり、そのイエスを父なる神は死より甦らせ、高く引き上げて神の御座の右に置かれたのです。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのですか」と言う主イエスが絶望の中から叫ばれたと聞こえるでしょうか。イエスは、この言葉を十字架上で叫ばれた時、父なる神がご自分をお見捨てになる理由をすでに知っていました。何のために自分は捨てられるのかを知っていました。イエスは、苦しみと痛みの中で、神を見失っていたわけではなく、神に呼び求め、神につながり続けることを望み、神に信頼していたと思います。絶望ではなく、父なる神への信頼と希望を持っていたはずです。ですから、十字架の苦しみの後、三日後に復活することを弟子たちにも予告していました。

 詩編22編4節から6節には、父なる神への信頼が記されています。6節に目をとめたいと思います。「助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」とあります。神と主イエスに信頼を置くものを主は絶対に裏切らない。これは私たちに与えられている神の約束でもあります。

  7節から9節には、イエスが十字架につけられていた時のことが記されています。イエスは私たちの身代わりとなって、虫ケラのように、人間のクズのように、民の恥のように扱われました。8節と9節のことは、マタイ27章39節、マルコ15章29節に記されています。

 10節から11節には、イエスが母の胎内にいる時からすべて神のご計画の中に生きてきたことが記されています。13節から19節には、十字架での苦しみが記されています。渇きを覚えられたこと、手足をくぎで砕かれ、着物もくじで分けられることなどが詩というよりも預言として記されています。

 しかし、主なる神は必ず顧みてくださるお方です。必ず救ってくださり、私たちの口に賛美を授けてくださるということが23節から24節に記されています。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、蔑まれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)。ですから、私たちがこの地上で生かされている間になすべきことが26節から32節に記されています。私たちのなすべきことは、大いなる集会で、教会で主に賛美をささげ、神に喜ばれる献げものをささげ、互いが愛し合い、助け合うことで皆が満たされ、命がつなげられて行くこと。そして28節にあるように、地の果てまで福音が宣べ伝えられ、全ての人が主イエスを救い主として認め、神の御許に立ち返り、礼拝をおささげしてゆくことができるようにすると。つまり、31節から32節にあるように、私たち一人一人が神とキリストに仕え、神の愛と救い主イエスの十字架と復活を来るべき代に語り伝え、主イエスが成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせること。これらが主イエスを通して神から委ねられている私たちクリスチャンの使命であることを覚えましょう。ダビデ王が言うように、イエス・キリストが私たちの良き羊飼いであることを全世界へ告白し、宣言して行きましょう。苦悩や悲しみ、恐れのためにうつむいている顔をあげ、救い主イエスを見上げて歩んでまいりましょう。