「天使ガブリエルはイエスを誰と云うか」 十二月第一主日礼拝 宣教要旨 2017年12月3日
ルカによる福音書1章26〜33節 牧師 河野信一郎
「イエスは誰か」というテーマで宣教シリーズを続けていますが、旧約の時代、主なる神は預言者や王を通して来たるべきメシア、救い主はどのようなお方であるかを預言して伝えてきましたが、救い主の到来が近くなりますと神はご自身のもとから直接に使者を遣わされます。今回の箇所は、天使ガブリエルから神の子を宿すとの御告げを聞いたマリアに焦点が集まる箇所ですが、今回のフォーカスは神から遣われた天使ガブリエルがイエスを誰と云っているかと云うことに聴きたいと思います。ですので、今回の焦点は、32節と33節になり、この短い2節に、マリアを通して生まれてくる幼子イエスについてガブリエルが5つのことを云っていることに気付かされます。
まず1点目として、ガブリエルはイエスのことを「その子は偉大な人になる」と云っています。しかしながら、興味深いことに、このガブリエルは、ルカ1章15節で、バプテスマのヨハネの誕生をその父親であるザカリアに予告した時に、「あなたの子として生まれる子ヨハネも主の御前に偉大な人になる」と云っています。どちらの場合も、偉大と云う言葉は「メガス」と云うギリシャ語が用いられています。しかし、イエスとヨハネの「偉大さ」は同じではなく、イエスの偉大さは徹底的な偉大さ、比べることができないぐらいの偉大さです。
そのことがガブリエルの2点目の言葉から分ります。すなわち、「その子はいと高き方の子と言われる」と云う言葉です。イエスは、神の子です。ヨハネはザカリアの子です。ヨハネは確かに主の道を整えると云う神から託された使命を全うしましたが、イエスは神の子として、救い主として私たち人間の罪を贖うという使命を全うしてしてくださいました。そこに決定的な違いがあります。
ザカリアも自分の息子ヨハネのことをルカ1章76節で次のように云っています。「幼な子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」と。ヨハネは、いと高き方の預言者と呼ばれ、主イエスはいと高き方の子と呼ばれる。その働きも偉大さの中に違いがあると云うことが示されます。ヨハネは、イスラエルの民に罪の悔い改めを迫った預言者でした。
3つ目の点は、「神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」という言葉です。この言葉にイエスのメシア・キリストとしての役割と任務が明確に記されています。イエスは、私たちを罪と死とその恐怖から解放し、平和と安定と繁栄を与える「王」として来られ、その力を持って私たちを治めてくださるということです。罪と闇のうちを歩み、サタンに支配され、滅びへと向かっている私たちをその支配から解放し、光のうちに招き入れるために、世の光として私たちのもとに来てくださったイエスを救い主として信じて従って行きましょう。
4つ目の点は、33節にある「彼はヤコブの家を治める」ということです。「ヤコブの家」とはイスラエルのことです。つまり、イエスはイスラエルのメシアであるということです。私たち異邦人のメシアであると同時に、ユダヤ人たちにとっても重要なメシアであること、だから私たちはイスラエルとユダヤ人の救いのために祈り、できることをしなければならないのです。イエス・キリストがユダヤ人とすべての異邦人の救い主なのです。
5つ目の点は、「永遠にその支配は終わることがない」ということです。神の御子であるイエスがメシアとして、王として君臨してくださり、私たちと共に歩んでくださり、治めてくださり、祝福してくださる。その祝福は永遠に終わることはないとここで約束されています。
しかし、そもそも、なぜ、私たち罪多き者たちにこのような永遠の命と祝福がイエス・キリストを通して約束されているのでしょうか。不思議です。私たちには不釣り合いな一方的な「恵み」です。私たちの限られた知識・知能では理解できない「恵み」です。しかし、イザヤ書9章5節から6節を読む中で、6節の最後にこのようにあるのです。「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」と。熱意とは、神の愛です。神の愛が、私たちに罪の赦しと救いと平安、そして地上での使命と生きる力と永遠の希望を与えて下るのです。主に心から感謝です。