「神はあなたの必要を全て満たす」 元旦礼拝 宣教要旨 2018年1月1日
フィリピの信徒への手紙4章6〜7、19節 牧師 河野信一郎
2018年の初日を迎えました。皆さんの新しい一年の歩みの上に、神の恵みが豊かにありますようにお祈りいたします。
今日から始まります新しい年は、どのような一年となるでしょうか。この新しい一年に対する期待を大きく持っておられる方。期待と不安が半分ずつの方。期待よりも不安の方が大きい方。とてもワクワクドキドキします。ワクワクは期待で、ドキドキは不安を表しますが、私たちにはどちらも必要なのかもしれません。何事もバランスが重要で、ワクワク感とドキドキ感が同時にあるということは、とても幸せなことなのかもしれません。
ワクワクは大歓迎だけれど、ドキドキは心臓に悪いから要らないと私たちのほとんどは感じるでしょうが、昨年を振り返ってみても分かるように、喜ぶことも悲しむことも、どちらもあったと思います。全てが心に痛みを覚えるようなことではなかったでしょうし、全てが心躍るような日々ではなかったでしょう。
私たちは、生と死の間に生かされている者です。つまり、喜びと悲しみの間に生かされているということです。人生は、確かに山あり谷あり、良い時もあれば悪い時もある。それが人生というものなのではないでしょうか。しかし、私たちの人生に大切なのは、心の平安であると思います。山を駆け巡る時も、谷間を歩く時も、いつも平安であること。人生の中で、良い時も悪い時も、いつも心が平安でいられるのが、本当の幸せではないでしょうか。
では、「心が平安である」とは、どういうことでしょうか。日々の営みが順調であれば平安かもしれませんが、次から次へと仕事や課題が押し寄せてくれば、心は平安になりません。身体に病や痛みがあれば、不安になりますし、家族に問題が降りかかってこれば、怒りや不平が心を満たします。「心が平安である」とは、良い時も、悪い時も、私たちの心が良いもので満たされている状態を言います。
それでは、「心が良いもので満たされている」という中の「良いもの」とは一体何でありましょうか。それは、お金や自分の頑張りようでは得られないもので、神にしか与えることができない良いものです。確かに、私たちが頑張って学んだり、働いたり、努力すれば手にできる良いものも色々とありますし、そのようにして得たものが悪いと言っているわけではありません。私たちの手で手に入れられるものは手に入れたら良いし、そのために身体や知恵や能力、才能が与えられています。しかし、自分の身体や知恵や才能や頑張りようで得られないものもたくさんあるわけで、時にどうすることもできないということもあるわけです。
得たいものが自分の決定権の元にない、どんなに努力しても努力し尽くしても得られる確率は半分以下、倍率であったり、1%未満であったりすることもあるわけです。ですから、多くの場合、最後は「神頼み」になって行き、大晦日から日本中の神社が大賑わいするという具合です。今日はこっちの神社に行って、明日はあっちの神社に参拝にゆく。
しかし、神という存在は、私たちの必要の数に応じて、その数だけの神々がいるのではなく、私たちの全ての必要を満たしてくださる神はお一人です。それは、私たちを創り、命を与え、生かしてくださる真の神です。ただ単に生かしてくださっているのではなく、私たちを愛してくださる神です。その神の力強さ、偉大さ、万能さ、存在の大きさは、大きすぎて私たちの目に収めることはできませんが、確かに存在されます。この神が、私たち一人ひとりを愛し、日々必要を全て満たしてくださいます。この神に与えられないものは何一つありません。神にできないことは無いのです。
私たちが求めているもので、今与えられないのは、自分の力だけで得ようとしているからかもしれません。求めているもので与えられないのは、本当に必要なものでないからかもしれません。求めているものが与えられないのは、求めている自分自身がまだ半信半疑であるからかもしれません。もしかしたら、人が持っているから自分も欲しいと思っていたり、ただ単に欲張っているのかもしれませんし、求めているものが身の丈に合っていないのかもしれません。私たちが求めているものと神が私たちに与えようと準備してくださっているものが違っているからかもしれません。そのように考えてゆくと、私たちの心は年始から思い煩いで満たされてしまいますが、そのような心の状態になることは神の御心ではありません。
神は、聖書の中で、このように私たちを招いておられます。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」とあります。
リビングバイブルはこの箇所を、「何事も心配してはなりません。むしろ、どんなことでも祈りなさい。神さまにお願いしなさい。そして、祈りに答えてくださる神さまに感謝するのを忘れてはなりません。そうすれば、人間の理解をはるかに超えたすばらしい神様の平安を経験できます。キリスト・イエスに頼る時、その平安はあなたがたの心と思いとを静め、安らかにしてくれるのです」と訳しています。
もし、あなたに、私たちに心配する時間とエネルギーがあるのであれば、その時間とエレルギーを神に助けを求めることに、私たちの全てを満たしてくださる神に祈り求めることに用いましょう。私たちに心配することがいつでもどこでもできるように、神に祈り求めることもいつでもどこでもできます。大切なのは、自分の力だけに頼るのではなく、自分の力の及ばない部分を神により頼み、助けてもらうことです。そうすれば、神は動いて私たちの心を良いもので満たし、必要を与えてくださいます。
使徒パウロは、確信を持って19節でこのように言っています。「わたしの神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と。イエス・キリストという救い主を通して、神にしか与えることのできないものを私たちに与え、私たちが本当に必要なもので満たし、心を良いもので満たすと約束してくださいます。
ですから、ドキドキは神にお委ねし、ワクワクも神に期待して、新しい年を歩み始めましょう。2018年の最初の日、全ての必要を満たしてくださる神のもとにあなたは集い、礼拝をおささげしています。素晴らしいスタートを切ることができましたね。それもこれも全ては、神の恵みです。この私たちの歩みに神はいつも伴って、守り導き、恵みを持って私たちの必要を満たし、良いもので心を満たしてくださいます。この恵みと愛の御神を信じて、主イエスを見上げて、共に歩んで参りましょう。