使徒たちはイエスを誰と云うか

「使徒たちはイエスを誰と云うか」 二月第二主日礼拝  宣教 2018年2月11日

使徒言行録2章22〜24、32〜33節    牧師 河野信一郎

昨年の10月下旬から「イエスとは誰か」というテーマで聴いて来ましたシリーズの最終回です。宣教シリーズの目的は、ただ一つ。あなたは、私は、イエスを誰と云うか、告白するかと云うことです。神は預言者たちや御使いたちの言葉を通して、イエスが誰であり、何の目的のためにこの世に来られ、何を成し遂げてくださったかを私たちに語り続けてくださいましたが、その言葉を聞いた私たちが御言葉を通してイエスに出会った私たちがイエスを誰と証言し、告白するのかと云うことです。その答えによって、私たちの人生は変わって来ますし、その告白によって私たちに希望があるかないかがはっきりするのです。イエスは誰なのか。それがまだよく分からないと云う方もおられると思いますが、決してあなた一人だけではありませんから、安心してください。ただ、神の語りかけに心の耳をすませてください。

さて、「使徒たちはイエスを誰と云うか」と云う問いかけの中でまず心に迫ってくるのは、「使徒って一体誰?」という問いかけだと思います。「使徒」とは誰か? その答えは、マルコによる福音書3章13節から15節に記されていますから読みましょう。

そこには、主イエスが十二人を弟子たちの中から選び、任命し、使徒として名付けられた。彼らを自分のそばに置いて整え、また派遣して宣教者をさせ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであったとあります。この十二人のうち、イエスを裏切ったイスカリオテのユダ以外の十一人の弟子たちがイエスの十字架と復活の証人となり、全世界への福音宣教へ携わり、弟子たちをつくるためでした。つまり、「使徒」とは、主イエスから特別な使命を託され、派遣された人です。そして、この使徒たちがイエスをいったい誰だと告白するのかを共に聴いてゆきたいのです。

そして、その使徒の中から、今朝、使徒言行録の中に記されている二人の人たちの言葉に注目したいと思っています。その二人とは、シモン・ペトロとパウロです。しかし、聖書に精通している人は、パウロはイエスによって最初に選ばれ、任命された使徒の一人ではないと云うことを知っておられると思います。ですから、昔からパウロの使徒職について疑問視する人たちが実際に存在したことが第一コリントの9章1〜2節やガラテヤの1章11〜24節から分かりますが、使徒言行録の9章を読んでゆきますと、パウロは復活された主イエス・キリストから直接に選ばれ、使徒に任命された人物であることが分かります。

ガラテヤの信徒への手紙1章1節で、パウロは、このように自分の使徒職をはっきりと宣言しています。「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と言っています。彼は、使徒として主イエスと神に仕えることができることを恵みとして大変喜び、光栄に思い、感謝していたのです。

このパウロは、復活の主イエスに出会って使徒とされるまでは、クリスチャンたちを憎み、先頭に立って迫害する人でした。ユダヤ人の間では「呪いの木」と呼ばれる十字架につけられて死んだ罪人(ざいにん)が救い主・メシアであるはずがない。その罪人をメシアと仰ぐことは神を冒涜することで耐え難いことであるから、すべてのクリスチャンを捕らえて、キリスト教を根絶しなければならないと息巻いていた人です。

ユダヤ人の中でも優等なベニヤミン族出身で、ユダヤ教ではパリサイ派に属し、生まれながらにしてローマ市民。その当時のユダヤ教で最高のラビ・教師のもとで学び、先祖からの言い伝えを厳守しようとして来た超保守系のエリート中のエリートです。

しかし、かたやシモン・ペトロは、ガリラヤ湖で漁業を営んでいた漁師の息子であり、漁師であり、労働者でした。使徒言行録4章13節には、ペトロは「無学な普通の人であった」と記されています。この二人のギャップは驚きです。

しかし、復活の主イエスはどちらにも出会ってゆかれ、彼らを使徒として召し出すのです。そこには神のご計画があって、御心が成就するために、神の目的のために召されるのです。ですから、私たちが罪赦され、救われ、召されているのは、神のご計画があり、目的がある。つまり、私たちの命と存在には、意味があるということです。私たちがいま生かされているのは不思議なことではなく、偶然でもなく、只々神の愛であり、主の恵みなのです。

さて、使徒ペトロは主イエス・キリストの十字架と復活を宣べ伝えるためにユダヤ人たちに派遣され、使徒パウロは異邦人たちに派遣されてゆきます。このことは、彼らにとって大いなる喜び、神からの恵みでした。この恵みの中に生かされているペトロは、説教の中でイエスのことを次のように言っています。22〜24節、32〜33節をご覧下さい。

使徒ペトロは、「イエスこそ神から遣わされたメシア、キリスト、救い主」と告白し、神ご自身がその証明をなしてくださったと言います。「イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架につけられ、死なれましたが、そのイエスを死の中から甦らせ、今は神の右に上げられ、私たちは神から聖霊をいま日々受けて生かされています」と告白しています。

さて、使徒パウロは、イエスを誰だと告白しているでしょうか。もしパウロのことをもっと知りたいと思われる方は、この使徒言行録の9章以降を最後までお読みください。このパウロは、クリスチャンになる前はサウロという名でしたが、復活の主イエスに出会って改心した直後に「この人こそ神の子である」と使徒9:20で告白しています。また使徒としてアンティオケに遣わされた時には「神は約束に従って、このダビデ王の子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」と使徒13:23で告白しています。イエスを「神の子であり、救い主」と告白します。

また、パウロはこの使徒言行録の中で自分の改心の出来事を3回繰り返して語っています。

つまり、救い主イエス・キリストによってキリストを迫害する者からどのように新しく変えられ、使徒という使命を受けて言ったのかを赤裸々に語ります。それはつまり、イエス・キリストには、私たち一人ひとりを全く新しい人へと造り変える力があるということを告白し、主イエスは私たちに命の意味と生きる目的を教え、新しい使命を与えてくださるお方であることを伝えているのです。

ですから、たとえ私たちに重荷や弱さ、悩みや痛みがあっても、主イエスが私たちといつも共にいてくださり、私たちの信仰を守り導き、全ての必要を満たしてくださるので、私たちは大丈夫なのです。私たちに力がなくても、主イエスに私たちを救い、助け導く力があるから、大丈夫なのです。水曜日から始まる今年の受難節の中で、この救い主イエスがあなたと私と共にいてくださることをいつも心に思い出し、主を仰ぎ見て、共に主イエスに繋がり続け、主と共に歩んで参りましょう。