宣教「主は生きて、この世にあり」 コリントの信徒への手紙一15章1~11節 2018/4/15
大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫
「東京復活大聖堂教会」の礼拝
昔から、『西方教会(ローマカトリック)は十字架を重んじ、東方教会(ギリシャ正教会)は復活を重んじる』と言われてきました。
私たちはどうでしょうか,西方教会から生まれたプロテスタント教会では、十字架の重さに比べてキリストの復活を語り伝える事、それを喜ぶことには控えめにしてきたように思えるのです。皆さまはどのように感じておられるでしょうか。
わたしは先週、教会からの帰り道に、時間が間に合えば、御茶ノ水にありますロシア正教・通称ニコライ堂の礼拝に行ってみようと思っていました。その理由は「東京復活大聖堂」の礼拝で、彼らがキリストの復活喜ぶ姿に出会いたいと常々思っていたからです。
正式のイースター礼拝は、4月8日夜中(12時)から明け方にかけて行われるのですが、午後16時からも礼拝がある事が分かりましたので、わたしは午後の礼拝に出席しました。午後の礼拝は40分ほどで、聖堂の中で立ったままで礼拝しました。3人の司祭と8人ほどの聖歌隊が歌い交わして礼拝が進んでいきます。会衆は姿勢をピンとして、時々十字を切り深々と礼をします。ラテン語と日本語で朗々と歌いながら続くのですが、残響が大きくて言葉は聞き取れませんでした。残念ながら、その礼拝でキリストの復活を喜ぶ姿を感じ取ることは出来ませんでした。今度はぜひ、真夜中のイースター礼拝に行って、皆さんが主イエスの復活を祝い喜ぶ姿に出会ってみたいと思います。
「聖書の復活信仰」
パウロが書いたコリントの信徒への手紙一は、イエス様が「十字架で死なれ墓に葬られ、三日目に復活された」その出来事から、25年後に書かれました。まだ「復活の出来事」からから25年しか経っていないとも言えます。紀元55年のことです。復活の主イエスに、実際に出会った人々は、まだたくさん生存していたのです。パウロは二回目のヨーロッパ伝道のとき、コリントに1年半滞在して伝道し、教会を造りました。その教会は、復活のイエス・キリストを土台とした教会だと、パウロは繰り返し言っています。しかし、パウロが去って間もなく、分派、分裂が起き、信仰の中心がずれて行っていると、使いの人がパウロに伝えて来たのです。コリントの教会には、「主イエスの復活はなかった」とする人々が増えていたのです(15:12)。
パウロは、「もし主イエスの復活がなければ、わたしたちの信仰は無駄であり、クリスチャンはこの世に望みをかける人たちと、なんら変わりはない」と、この15章2節で断言しています。
「最も大切な事」
この朝どうしてもお伝えしたいと思っていますのは、コリントの手紙一15:3~5節の言葉です。
『15:3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
15:4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
15:5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。』
パウロははじめに、「わたしも受けたものです」(15:3)と言っています。この言葉は、パウロがエルサレム教会の人たちから「受けたもの」であると言っているのです。「受けたもの」,つまりパウロにとっての最初の教会、エルサレム教会の「信仰告白」として受けた、信仰の中心的な言葉であったということです。
次に『キリストが、わたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、』とあります。
3節に「死んだこと」とあり、この後に「 葬られたこと」とあります。わたしはこれまで、4節の「葬られたこと」という言葉を読み過ごしていました。これは確実に死んだということを確認するための大事な表現だそうです。
『また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、十二人に現れ・・』
そしてこれは特に大事なのですが、「復活して現れた」と書かれていることが重要なのです。
この「現れた」という言葉は「復活した」ことが、ただ生き返ったという事実に留まるのではなく、これは本当にあったのだということを確認するために、具体的に「十二人に現れた」と書かれているのです。しかも、キリストの復活は、過去の出来事で終わっているのではなく、キリストは復活して今も生き続けておられる、復活は続いていると告白しているのです。
パウロは自分の体験から、「わたしは、神によって復活させられたキリストに、出合った。わたしはその証人です」、そのように証言して行きました。
『 15:6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。』
「復活のキリストを見た」そのような経験をした人々が500人以上あったとここに書かれています。これはわたしたちの時代に起きる、信仰経験として、また、霊的なキリストとの出会いの事ではなく、トマスのように「見て信じる」ことの出来た、限られた時代の特別な出来事であったのです。教会は、まさに、この証言を受け止めて信じ、伝えている群れなのです。
わたしたちの誕生から死にいたるまでの人生は、イエス・キリストの死によって神の赦しをいただき、支えられています。それに留まらず、復活の主イエスによって新しい命に、日々生かされています。私たちは毎日、主の言葉を繰り返して聞き、復活の主、イエス・キリストの恵みの中で、日々新しくされて歩んで参りましょう。「主イエスは今も生きて、この世におられます」この信仰に立たせて頂きましょう。
[祈り]
神さま。この朝はわたしたちの言葉では語り尽くすことの出来ない主イエスさまの復活について導かれました。わたしたちの知恵をはるかに越え、わたしたちは信じる以外に、捉えられないことでもあります。しかし、教会はそこからはじまり、わたしたちに受け継がれてきました。神さまの不思議とも思える恵みの中で、わたしたちは生かされていますことを、わたしたちは誇りに思い、喜びと望みを以て生き続けたいと思います。感謝して主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン