宣教要旨「宝をはこぶ土の器」(命どぅ宝の日)大久保教会 石垣副牧師 2018/06/17
聖書コリントの信徒への手紙Ⅱ4章7節~12節(329p)
『7aわたしたちは、このような宝を土の器に納めています。』
最近は、様々な分野で人間の研究が進んでいます。ある番組で、地球上で、なぜ小さくて弱い人間が生き延びて来たのでしょうか」との問いかけがありました。ゲストの皆さんは「どうしてだろう?」としばらく考えていましたが誰も答えることが出来ませんでした。
その答えとは、「人間が弱かったからです」という、思いがけない言葉でした。小さくて弱い人間は、一人ではどうにもならないことが多いなかで、「コミュニケーション」を取るという事に気付き、互いに意思を通わせて仲間となり、弱いことを認め合いながら、様々な困難を乗り越えて行った。だから「コミュニケーション」こそ、弱い人間が生き延びてきた決定的な要因なのだと結論付けていました。
人間は、多くの事を支配できる強い存在になりましたが、それでも人間が一人になりますとまことに弱いものです。人間とは本来、肉体的にも精神的にも、壊れやすい、弱い「土の器」なのだと思わされました。
「土の器」とは、落としてしまえば簡単に割れてしまう、粗末な素焼きの器のことです。パウロは、人間を「土の器」と呼びました。パウロは旧約聖書(創世記2章、イザヤ61章他)からから言葉を得て、自分を含めて、人を「土の器」と言ったのでしょう。
ところで、キリストに出会う前のパウロは、自分が「土の器」だとの意識は、全く持っていなかったのです。むしろ自分は、高級な陶磁器だ、エリートだと誇ってさえいたのです。しかしひとたび、キリストを信じる信仰に歩み始めた時、突然のように、このキリストにこそ本当の自分を発見し、生きる意味があると知るに至ったのです。パウロがあれこれと問いかけ、学び、探し求めて納得して得られた結果ではありませんでした。それは「復活のイエスとの出会い」という、突然の出来事によるものでした。これが「パウロの回心」と言われることです。
わたしは「パウロの回心」などということは、自分には遠く及ばないことと思っていました。しかし、今回の御言葉を読み返しながら、わたしたちの信仰の歩みには、少なからず、こうしたパウロに起きた出来事はあったのだと思うようになりました。
わたしは、中学1年生のときに、信仰との初めての出会いがありました。特に最初に聞いた説教と、最初の御言葉、そして礼拝している皆さんの姿に触れて、ここに本当のものがあると導かれたのです。それは自分にとっては、突然の事であり、理屈や納得して受け入れたことではではなかったのです。皆様の場合はどうでしたでしょうか。
さて、「宝」とは何でしょうか。「宝」とは、使徒としてのパウロが伝えている「福音」、「主イエス・キリストのこと」と理解してよいと思います。パウロは、自分の体験から、主イエス・、キリストを知った者は、そのお方を「宝」として持ち運ぶ者とされるのだと確信できたのです。
「宝物」であるイエス・キリストを運ぶ「器」とされた人間は、強くて頼りがいがあるから選ばれたのではなかったのです。むしろ、壊れやすい、弱い「土の器」で良かったのです。なぜなのか。7節後半でその理由を述べています。「7b この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。
「宝をはこぶ土の器」となったパウロが、一転して主イエスを伝道し始めると、人々はその変わりように驚き、極端に嫌ってさえいったのです。パウロを卑下し、あらゆる手段で宣教活動を妨害したと言われています。流石のパウロも苦しみ、失望したに違いありません。8節9節の逆説的な言葉は、その辛さを物語っていると思います。
4:8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、
4:9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
どうでしょうか。パウロがこうした生き方を貫けたというのでしょうか。そうではありませんでした。8節と9節の言葉、これはパウロ自身の事ではなく、イエス・キリストの生涯を言っていると言われています。「苦しめられ」「途方に暮れ」「虐げられ」「打倒され」。これは主イエスの生涯のことです。パウロは、苦しみのどん底でこの手紙を書きながら、主イエスを見上げ、主イエスこそが、わたしたちに先立って「土の器」となってくださり、苦しまれ、十字架に砕かれたのだと気付かされたのではないでしょうか。
主イエスこそ、神の子でありながら人間・土の器となられました。パウロはそのことを噛みしめるように、10節以下の言葉を書きました。10節以下で「イエス」「イエス」と呼んでいます。
4:10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
パウロは、神の子イエスは、自分たちと同じ人間、「土の器」となってくださり、その弱さと罪を担ってくださったとの思いを込めて、そう叫んでいるのです。
もう一度繰り返して読みます。
『4:10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています』との言葉は、イエスの死を自分の身に着物のように羽織って歩き、持ち運んでいるという意味です。
「土の器」は、他者を生かす『イエスの命』を持ち運ぶという、光栄ある役目を託されているのです。
4:13 「わたしは信じた。それで、わたしは語った」と書いてあります。
13節で「信じる者は語るのです」とパウロは言いました。主イエスの復活を知った者は、そのことを証しせざるを得なくなると言いたいのです。その主イエスの使徒として生きる事に、パウロは改めて確信を深めて行きました。
わたしたちの信仰は、福音が語られるとによって、他の人が聞くと言う出来事になります。わたしたちが語らなくて誰が伝えるのでしょうか。
わたしたちは、小さくて弱い「土の器」ですが、「主イエスの福音を持ち運ぶ者」として神の働きに用いられていきましょう。