「神の憐れみの器として生きる」 一月第四主日礼拝 宣教 2019年1月27日
ローマの信徒への手紙9章19〜33節 牧師 河野信一郎
前回の宣教では、ローマの信徒への手紙9章の1節から18節に聴きましたが、2節で、パウロ先生は、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と告白しています。どのような悲しみ、痛みであったのかという答えが3節にありました。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と。
つまり、パウロ先生の悲しみ、絶え間ない痛みとは、同胞のイスラエルの民、ユダヤ人たちが、神様からたくさんの特権を恵みとして与えられているのに、最も重要な恵みであるイエス様を神様から遣わされたメシア、救い主としてまったく信じないで、信じるどころか、イエス様に従う者たちを迫害し続けていたということです。
パウロ先生もかつてはキリスト者を迫害する者でしたが、イエス様に出会って改心し、イエス様に仕えるようになりましたが、そのような中で、ユダヤ人たちの頑なさ、イエス様を拒絶し続けること、彼らの不信仰がパウロ先生にとって大きな悲しみであり、痛みであったわけです。
もう一つ学んだことは、私たち異邦人が救われたのは、奇跡的であり、神様の憐れみ、慈しみによって救われたということです。パウロ先生は6節で「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、またアブラハムの子孫だからと言って、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』。すなわち、肉による子供が神の子供ではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです」と言っています。
分かりにくい箇所ですが、創世記21章12節(旧p29)を見ますと、神様はアブラハムに「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」と約束されています。イサクの誕生は、高齢であり、子どもを望めなかったアブラハムと妻のサラにとって、本当に奇跡的な誕生であったわけです。どんなに夫婦が願っても、夫婦の行いや努力によってだけでは生み出せない神様の御業、奇跡の誕生でした。
同様に、私たち一人一人が主イエス・キリストによって罪赦され、救われ、神の子とされるということは、奇跡的な恵みであるわけです。神の御子イエス・キリストを通して神様から与えられる「救い」というのは、血筋に寄らず、奇跡的に与えられた信仰によって、神様からの「恵み」であるということをパウロ先生は言いたいのです。私たちの行いや努力によってではなく、ただ神様の御意志の中で私たちに与えられる恵みなのです。
神様から与えられるこの奇跡的な恵みを、パウロ先生は「神の憐れみ」と宣言します。エジプトの苦役からイスラエルの民を導き出したモーセに対して、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と神様が言われた言葉を15節で引用しています。つまり、私たちが救われるのは、私たちの意志とか、努力ではまったくなく、ひとえに神の憐れみによるのだとパウロ先生は断言しています。私たちが救われているのは、ひとえに神様の「憐れみ、慈しみ」であるということ。私たちが「救われたい!」とどんなに強い意志を持っていても、どんなに努力しても、私たちの力だけでは救われないし、家族や同胞も救われない。その家族や同胞の人々も、自分の意思で神様からの憐れみ、慈しみを受け取らなければならない。だからまず私たちがなすべきことは、憐れみ深い神様を礼拝し、イエス様の言葉に聴き、主のみ名によって「祈る」ことが大切であるということを前回聴きました。
「神は御自分が憐れみたいと思うものを憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされるのです」と言う18節の言葉は、「救い」という恵みは神様の御意志によるのである、神様にいっさいの主権、権限、選ぶ自由があるということを聴きました。私たちにできることは、神様の御力に信頼し、その憐れみにすがり、祈ることです。しかし、そのように信じて祈ることができることも奇跡的な恵みでありますから神様に感謝します。
さて、ここまでが前回聴いたところですが、次にイスラエルの民、ユダヤ人たちのことをお話ししたいと思います。
イスラエルの人々というのは、神様に選ばれたという「選民」のプライドがあり、一種の自己満足があり、「自分たちは大丈夫」という自己完結したところがありました。それが要因となっていたのでしょう、「今の自分たちは、神の憐れみ、慈しみを必要としない。自分たちは、自分たちの信仰と力と努力で、主なる神から与えられた『律法』を厳守し、律法を守るという行いによって救いを得られる」と思い込んでいました。その思い込みとプライド、傲慢さが、イエス様を救い主と信じることができない原因になっていました。
呪いの木にかけられ、異邦人たちの手によって十字架刑に処せられて死んだ者が私たちの王、メシア、救い主であるはずがない。そんな者を信じて救われるはずがない。自分たちは律法を守っていれば必ず救われると信じ、自分たちの努力と行いによる「救い」をユダヤ人たちは信じてきましたし、今でも信じています。律法を守っていれば必ず救われる。だから神の憐れみ、慈しみなど必要ないと考えていた。考えている。ですので、パウロ先生は9章30節から32節で、「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らは(イエス・キリストという)つまずきの石につまずいたのです」というのです。
さて、イスラエルの民、ユダヤ人たちには神様に対して大きな不満がありました。その不満が原因でいつも呟いて暮らしていました。その不満とは、異邦人たちの救いです。異邦人が救われ、神の子とされ、神の祝福の相続人となることをまったく歓迎しませんでした。神の祝福はイスラエルにのみあるべきと考えていたからです。ですから異邦人を毛嫌いしました。そして文句をたくさん神様に言い、呟きました。
そのようなユダヤ人たちに対して、パウロ先生は、「主なる神様にはあなた方の思いを遥かに超えた御心があり、主権があり、自由がある。誰を救い、誰を救わないのか。誰を頑なにし、誰を憐れみたいのかを決める自由はいっさい神様にあり、誰も神様に文句は言えない」と言うのです。
そして20節と21節では、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」と言っています。イスラエルの民たちは、選民というプライドと傲慢な思いが邪魔をして、かつて自分たちがどれほど神様に憐れまれたのか、何度もなんども繰り返し罪を犯したのにその都度神様に憐れまれ、赦され、絶えず恵みを得てきたと言う歴史的事実、神様の愛と憐れみを忘れてしまっていました。
それでは、今日を生きている私たちはどうでしょうか。イエス・キリストを通して神様から与えられている恵みを当然のように、当たり前のように受け取り、神様の憐れみ、慈しみを忘れ、傲慢になっていないでしょうか。恵みを独り占めし、分かち合うことをせず、自分の持ち物を自慢したり、人と比べてみたり、隣り人が喜ぶことを羨んだり、妬んだりしていないでしょうか。もしそのように生きていると、私たちの心はいつも不満と憤りと不安でいっぱいになります。しかし神様は、私たちの心を喜びと感謝と平安で満たすために造られました。私たちの心を神様の愛と憐れみ、慈しみで満たすために造られました。罪によって滅びてもおかしくない存在であった私たちを神様は憐れんでくださり、御子イエス・キリストの命と引き換えに私たちの罪を帳消しにしてくださり、救ってくださいました。22節にあるように、主なる神様は「怒りの器として滅びることになっていた者たち、つまり私たちを寛大な心で耐え忍んで」くださり、救ってくださったのです。
しかし、それだけではありません。23節をご覧ください。「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たち(つまり私たち)に、ご自分の豊かな栄光をお示し」くださった。そして24節、「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」とあります。神様はご自分の憐れみを豊かに注ぐ器として、対象として私たち異邦人を選んで、召し出してくださったのですとパウロ先生は私たちに教えてくれるのです。
パウロ先生の宣言をバックアップするために、ホセア書2章23節と1章10節の言葉が25節と26節に引用されています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる」
27節から29節では、イザヤ書10章22・23節と1章9節が引用され、頑ななユダヤ人たちに対する警告のような言葉が記されています。パウロ先生は言います。「頑ななままでは祝福されない。へりくだってイエス様をメシアと信じる者を神様は祝福する。その数はイスラエルの民の一部だけである」と。
さて、今日、皆さんとご一緒に、この場所で心に刻みたいことをお話しして終わります。それは24節のみ言葉です。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」とあります。「神様は、私たちを憐れみの器として召し出してくださった」と云う真実がここに記されています。神様は、あなたを、わたしを、わたしたちを、救い主イエス・キリストを通して、神様の愛と憐れみを受ける対象としてくださっていると云う驚くべき恵み、奇跡的な恵みがここに示されています。
しかし最も重要なことは、なぜ、何のために憐れみの器とされているかと云うことです。なぜ、何のために神様から恵みを受けているのかと云うこと。なぜ、何のために先に救われ、キリストに従う者とされているのかと云うことです。
その答えは、神様から注がれる愛と憐れみを私たちが一旦受けて、その恵みを周りの人たち、家族や友人、同僚、地域の人々に注いで分かち合うために他ならないのです。神様の愛と憐れみ、慈しみに限りはありませんから、それは惜しみなく、絶え間なく、そして豊かに注がれ、私たちの器を満たします。その満たされている恵みを周りの人たちと分かち合うことがイエス様から託された私たちの働き、使命であります。そのことを奇跡的な恵みとして受け取り、喜び、感謝したいと思います。
しかし、今それを心から感謝して受け取ることが難しいと云う方もここにおられるかもしれません。自分のことだけで精一杯、周りの人のことを考える余裕はないと云う方もおられるかもしれません。まだまだ神様の愛と憐れみを受け取ることが必要で、分け与えることは二の次と云う方もおられても不思議ではありません。いつも人と自分を、人の持ち物と自分の持ち物を比べてしまい、劣等感に浸ってしまう人や、自分はいつも独りぼっちと気持ちがふさぎ込んでいる人もいるかもしれません。心に傷を負い、体には怪我や病気を負って苦しんでいる方、悩みや悲しみを感じ、虚しさを感じている人もいるかもしれません。人生に喜びも生きがいも感じないと云う人、何のために生きているか分からなくなっている人もいるかもしれません。
しかし、そのような中にあっても、今朝、この一つのことを覚えてください。あなたは決して独りではない。あなたの側にはイエス様がおられ、いつも共にいてくださると云うことを。神様の愛と憐れみは、今もあなたの心に向かって注がれていることを。ですから、心の扉を開いて、イエス様を受け入れてください。そうしたら、憐れみに満ちた神様は、あなたの心に愛を豊かに注いで満たしてくださり、新しく造り変えてくださいます。頑なな心をほんの少しでも柔らかくし、扉を開いてみましょう。まず神様の憐れみを受け取りましょう。そして、神様の愛と憐れみを分かち合う器とされ、生きてゆきましょう。そのように求め祈れば、神様はそのようにしてくださいます。神様にできないことは何一つありません。信じましょう。