「憐れみ豊かな神」 一月第二主日礼拝 宣教 2019年1月13日
ローマの信徒への手紙9章1〜18節 牧師 河野信一郎
今朝もローマの信徒への手紙に聴いてゆきたいと思いますが、手紙のちょうど半分に当たる8章がようやく先週終わりました。パウロ先生は、1章から8章までで、私たちがほめたたえる神様はどのようなお方であるのかを丁寧に解き明かしてくださいました。今日から共に聴く9章からこの手紙の後半に入ってまいりますが、パウロ先生はこの9章から11章の部分を割いて、主イエス・キリストにおける「救い」というテーマを取り上げ、この「救い」という神様からの大きな恵みは一体どのようなものであり、誰に対して与えられているのかをイタリヤ・ローマに生きる兄弟姉妹たちに教えるためにこの手紙を書き送っています。
今朝は、9章の1節から18節に聴いて参りますが、先ほど司式者に読んでいただきましたが、この箇所は数回読んだだけでは理解できない、いえ、何度読んでも分からない難解な箇所です。しかし、この箇所にも神様の御心が記され、神様の愛、キリストの福音が記されていると信じますので、ここから示されることをお話しさせていただきたいと思います。
まず1節から5節の部分ですが、パウロ先生はご自分の心の中にある悲しみ、痛みを隠さずにさらけ出しています。1節から2節を読んでみましょう。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」と言っています。
「わたしには深い悲しみがあり、心には絶え間ない痛みがある」と告白しています。一体なにを対象とした悲しみ、痛みであったのでしょうか。どのような悲しみ、痛みであったのでしょうか。その答えは3節と4節にあります。
「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのもの」、つまり神様から与えられた彼らの特権ですとパウロ先生は書き記し、続けて5節では「先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです」と書き記しています。
パウロ先生の心のうちにあった悲しみ、絶え間ない痛みとは、同胞のイスラエルの民、ユダヤ人たちが、その特権を神様から与えられているのにも関わらず、イエス様を神様から遣わされたメシア、救い主であるという真実を頑ななほどまでに信じないで、信じるどころか、イエス様に従う者たちを迫害しているということでした。パウロ先生は、かつてはキリスト者を迫害するその先頭に立っていましたが、イエス様に出会って改心し、イエス様に仕えるようになりましたが、同胞たちの頑なさ、イエス様を拒否することが大きな悲しみであり、長年の痛みであったわけです。
皆さんの心には、パウロ先生と同じような「深い悲しみ、絶え間ない痛み」があるのではないでしょうか。家族の救い、同胞の救いをひたすら願い、祈り求めていると思います。
パウロ先生は、イスラエルの民たちが救われるのであれば、「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもかまわない」と思っていました。それ程までに同胞を強く愛し、同胞の救いを祈り求めていたのです。ともすれば、皆さんも「家族が、友人が救われるのであれば、自分はどうなっても良い」と思う程までに家族や友人、同胞を愛し、その人たちの救いのためにお祈りしていると思いますが、私たちはこのことを心に覚えなければなりません。イエス様が、私たちを救うために、神様から離されてこの地上を歩まれ、十字架上で神様から見捨てられたということを。もし私たちに「家族や友に救い、同胞の救い、日本の救いのためならば、自分はキリストから離され、神から見捨てられてもかまわない」というほどまでの愛があるのであれば、その愛の力を三つのことのために集中して用いることが神様の御心であると今朝のみ言葉から示されます。
一つは、神様とキリストをほめたたえることに集中することです。パウロ先生は、5節の後半で、「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン」と記していますが、この神様とキリストをほめたたえることが、家族や同胞の救いのための大きな力であり、力の源であるのです。神様を第一にし、礼拝しないで、家族や友人を愛することはできません。なぜならば、神様を礼拝しないで、家族や友人、同胞を愛するという人生の目的の一つを知り得ないからです。愛する愛を、仕える力を受けることができないからです。
もう一つのヒントは、6節の前半にあります。ご覧ください。「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません」とありますが、私たちは神様の言葉に常に聞き従わなければ、家族や同胞を愛し、彼らに仕え、彼らの救いのために祈ることはできません。何故ならば、神の言葉には「命」があり、命は力であるからです。神の言葉は明らかに「イエス・キリスト」です。
ヨハネによる福音書1章4・5節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。つまりイスラエルの民たちはイエス様をメシア、救い主と理解しなかったのです。また、9節から13節が今回の箇所にも通づるところなのですが、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあります。イスラエルの民はイエス様を受け入れなかった。しかし次の12・13節が今朝私たちに重要な箇所です。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」とあります。
そこでローマ書9章6節の後半に戻りましょう。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、またアブラハムの子孫だからと言って、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる』。すなわち、肉による子供が神の子供ではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです」とあります。とても難解な箇所だと感じられると思いますが、パウロ先生がなぜこのような言い方をするのかと言いますと、創世記21章12節(旧p29)を見ますと、神様はアブラハムに「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」と約束されているからです。イサクの誕生は、アブラハムと妻のサラにとって、奇跡的な誕生であったわけです。どんなに願っても、人間の行いや努力によっては生み出せないものでした。ですから、私たち一人一人が救われて、神の子とされることは、奇跡的な恵みであるわけです。神の御子イエス・キリストを通して神様から与えられる「救い」というのは、ヨハネが言うように、血筋に寄らず、奇跡的に与えられた信仰によって、神様からの「恵み」であるということをパウロ先生は言いたいのです。私たちの行いや努力によってではなく、ただ神様の御意志の中で私たちに与えられる恵みなのです。神様はイエス・キリストを通してすべての人を救いたいと願っておられます。ですから、家族や同胞の救いを切に求めているならば、まず第一に神様を礼拝し、神様の言葉であるイエス様に聞き従う必要が私たちにはあるのです。神様の言葉、イエス様に私たちの力の源があるからです。
10節から13節にはイサクの子供達のことが記されていますが、今日はそのことには触れませんので、私たちが集中すべき三つ目のことをお話しして終わりたいと思います。
これまでにお伝えしましたように、家族や同胞の救いのために私たちが集中すべきことは、神様を礼拝すること、そしてイエス様に聞き従うことと申しましたが、三つ目はまず私たちが神様の恵みに生かされる必要があると言うことです。
皆さんは、飛行機に乗って旅行をされたことがおありでしょうか。飛行機が搭乗口を離れ、滑走路に向かう中で、離陸する前に、必ず搭乗の際の安全について客室乗務員から、あるいは今ではビデオで、シートベルトや緊急時の酸素マスクの装着、ベストの着用についてアナウンスがあります。今朝は、それを皆さんにも少し見てもらいたいと思いますが、こう言う大きな三つ折りくらいのカードが座席前のポケットに入っていますが、そこに色々と指示が記されています。このようにシートベルトやベストなどについてありますが、皆さんに見ていただきたいのはこの部分です。緊急時に酸素マスクを着用するとき、子どものことを最優先して子どもにマスクをつける前に、まず自分が酸素マスクを着用し、それから助けを必要とする人、高齢者や子どもに装着するのです。そうでないと、有害な煙やガスが機内に充満してゆく時、自分が先にその煙を吸ってしまい、倒れてしまい、私たちの助けを必要としている子や人たちを助けることができないからです。ですから、家族や隣人を助け、また救い出すためには、自分の安全を確保してゆくことが必要なのです。つまり、家族や同胞の人たちが恵みに預かるためには、まずあなたが、私たちが恵みに生かされる必要があるのです。繰り返しになりますが、それは決して自己中心的な考えから出ることではなく、それが救いの順番なのです。
先ほどから「恵み、恵み」と連呼していますが、この恵みとは一体なんでしょうか。神様から来るもので間違いありませんが、15節と16節で、パウロ先生はこのように言っています。「神はモーセに、『私は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思うものを慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と記しています。
ですから、「救い」は神様からの恵みであり、「恵み」は神様の「憐れみ、慈しみ」であり、それは私たちがどんなに強い意志を持っていても、どんなに努力しても、私たちの力だけでは家族や同胞は救われないと言うことです。つまり、私たちがすべきことは、神様をほめたたえ、主イエス様に聞き従い、神様の憐れみ・慈しみを求めて祈ってゆくと言うことだと今朝の箇所は私たちに語っているのではないでしょうか。
パウロ先生は17節で、神様というお方は、ファラオというエジプトの頑なな王さえも、神様の力を知らしめ、御名を全世界に告げ知らすために、イスラエルの救いのために用いられる方だと言っています。
18節の「神は御自分が憐れみたいと思うものを憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」と言う言葉は、「救い」と言うのは神様の御意志であるということ、そして救おうと神様が動かれれば、救いはあるという神様の御力にまず信頼し、この神様に助けを受けてなすべきことをなしなさいと励まされているのではないかと導かれます。
家族や同胞の救いのために祈り、生きるためには、私たちがまず憐れみ豊かな神様の恵みのうちに生かされ、憐れみ豊かな神様をほめたたえ、憐れみ豊かな神様の言葉である主イエス様の言葉に聞き従って生きることが大切です。私たちが神様の愛・憐れみをまず受けずして、どうして神様の愛を隣り人におすそ分けしてゆくことができるでしょうか。主イエス様がいつも共にいて私たちを導いてくださり、助けてくださり、私たちが仕えていくために必要なすべてのものをお与えくださいます。物事すべてを益にしてくださいます。私たちに必要なのは、憐れみ豊かな神様、イエス様を愛してゆくことです。