絶対に私たちを離さない神

「絶対に私たちを離さない神」  新年礼拝 宣教     2019年1月6日

ローマの信徒への手紙8章31〜39節            牧師 河野信一郎

新年、明けましておめでとうございます。

クリスマスまでの待降節の期間にお休みしていましたローマの信徒への手紙に聴くシリーズを今朝から再開いたします。このシリーズは、私たちが礼拝をおささげする神様はどのようなお方であるのかというテーマと、神様からいただく数々の恵みに対してどのように応えて生きてゆくかというテーマに分けられていますが、この手紙をローマにいるクリスチャンたちに書き送った使徒パウロ先生は、1章から8章までは、神様はどのようなお方であるのかを教えることに比重をおきましたが、9章から11章はイスラエルの民について記され、12章から16章は、日常生活の中で、神様からいただく恵みに対してどのように応えて生きてゆくかというもっと実践的というか、具体的な信仰生活に比重が置かれていきます。そういうわけで、今回のテキストである8章31章39節は、ローマの信徒への手紙の前半をまとめる重要な部分であるということができます。その大切な部分をお話しした後に待降節に入って、9章から始まる後半部分を新年から再開するよりも、後半部分に入る直前にお話しした方が良いだろうと判断し、今朝に至ります。8章まで共に聴いてきましたが8ヶ月過ごしています。16章まで読み進めてゆくにはもう8ヶ月必要と思いますので、そのような心持ちでいていただければ幸いに思います。

さて、31節に「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」とパウロ先生は言っていますが、「これらのこと」というのはこの時点までに書き記してきたテーマや内容と理解することもできなくありませんが、強いて言えば、パウロ先生が5章から8章までに伝えてきたことです。ですので、31節からは5章から8章のまとめであると理解すると良いと思います。

そして、このまとめの部分には大きく分けて2つのテーマがあります。一つは、31節から34節になりますが、私たちのために主イエス・キリストを通して働かれる神様について記されています。二つ目は、35節から39節になりますが、主イエス・キリストによって示される私たちへの神様の愛について記されています。つまり、私たちがほめたたえている神様は、どれほどまでに私たちを愛してくださっておられるのかがここに記され、この愛に私たちは、誰からの強制ではなく、義務感からでもなく、喜びと感謝、自由な意思でどのように応えてゆくべきなのかということを信仰と祈りをもって、そして神様を愛する思いを持って応えてゆくのかということを考える励ましとなっています。

まず31節に「もし神が私たちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」とパウロ先生は言っていますが、私たちがほめたたえている神様は私たちの「味方」である、私たちにいつも寄り添い、助けてくださるお方であることがここで示されています。ここに「敵対するもの」の存在が記されていますが、それはあのパウロの映画でも描かれていたクリスチャンを憎み、迫害している人たち、それだけでなくその迫害や苦難、苦悩なども含まれます。また、その苦しみを先導し、私たちを神様から引き離そうとしているサタンが私たちに「敵対するもの」たちです。しかし、パウロ先生の強調したい点は、私たちのすぐそばに主なる神様がいつも共におられ、私たちを守り、私たちのために戦ってくださるので、敵対するものは問題ではないということです。しかし、私たちは目に見えない神様よりも、目の前に立ちはだかる「敵対するもの」、試練や逆風を見てしまい、恐れを抱いてしまいます。兄弟姉妹が迫害にあったり、苦しい思いをしているのを目の当たりにしますと、私たちの信仰も大きく揺さぶられてしまいます。けれども、そうならないために、神様はイエス・キリストをこの地上に、私たちのもとへ派遣してくださり、この人となられた神、救い主に信仰の目を注いで生きなさいと励ましてくださるのです。

次に32節です。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。

この32節は、一瞬、31節との密接な関係性がさほど感じられないように思えますが、パウロ先生の視点、「神はわたしたちの味方である」という点を補強する言葉としてここに記されています。すべての人、すべての私たちのためにイエス様を与えてくださり、私たちの罪の代償としてその御子を死に渡された神が私たちと共におられるのですから、何を恐る必要がありますか。私たちを不安にさせる材料がどこにありましょうかと確認することを励ますのです。

少しだけ5章に戻りたいと思います。6節から10節を読みたいと思いますが、前のスクリーンにも出ますので、ご覧になってください。聖書を開きたいという方は、279ページを開いてください。下の段の中ほどです。

「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かった頃、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵出会ったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」とあります。主イエス様を通して救いの御業を成し遂げてくださり、私たちを義としてくださる神様を私たちは愛し、感謝をもって礼拝しています。ですから、イエス様が復活された日曜日を主の日として、この新たな一年も共に神様におささげし、礼拝をささげてゆきたいと願います。

32節に神は「御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とありますが、この「すべてのもの」とは何を指しているのでしょうか。それは日々の中でわたしたちが受ける善いものも、悪いものもすべて含まれます。それらが主イエス様を通して恵みとなり、与えられるということで、そこにつながるのが8章28節だと思います。「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています」とありますが、すべてのことを、万事を善いものに主が変えてくださると信じる信仰が与えられ、委ねる恵みが与えられているということを覚え、神様に感謝をおささげしたいと思います。

33節に「誰が神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」とあり、34節には「誰がわたしたちを罪に定めることができましょう」とパウロ先生は言っていますが、確かにサタンは私たちの罪や過去の間違いを指摘したり、思い出させて罪悪感を与え、私たちの心を激しく揺さぶり、私たちを罪に定めようとしますが、神様がイエス様の贖いの死を通してわたしたちを赦し、無罪としてくださったので、私たちは主イエス・キリストにある恵みによって、神様との平和、そして心に平安を得ることができるとパウロ先生はここで言うのです。

イザヤ書50章8〜9節にこのように記されています。「わたしの正しさを認める方は近くにいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか。わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう」とありますが、この言葉がパウロ先生の心のうちにあったと思われます。

さて、35節から39節には、イエス・キリストを通して示される神様の愛が記されています。イエス様は、神の右に座して執りなしてくださるだけでなく、神様の愛を具体化してくださるお方であることを示します。パウロ先生は、神様の愛を「キリストの愛」と言い表していますが、イエス様以外に、私たちに対する神様の真実なる愛をはっきりと示すことができる方は、後にも先にもイエス様以外におられないし、実際に十字架上で示してくださったので、パウロ先生はこのような表し方をしています。

36節は、詩編44編23節の引用がされていますが、私たちは四六時中、日々のキリスト者としての生活の中で、試みや試練に遭います。苦しいことに遭わない日はありません。たえずサタンの誘惑、また激しい攻撃に遭います。誘惑や試練がないならば、むしろ私たちは不安になるべきです。何故ならば、サタンが私たちを誘惑したり、苦しい状況に陥れようとしないのは、何もしなくても私たちが罪のうちに生き、神様から離れた生活をしていると判断しているからです。しかし、わたしたちを神様から引き離したいサタンは様々な方法を屈指して試みてきます。艱難や、苦しみや、迫害や、飢えや、着ぐるみ剥がされる事態に落とし込まれたり、剣などの暴力を用いて命の危険に直面させたりします。

しかし、大切なことは37節です。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」とパウロ先生は言っています。「わたしたちを愛してくださる方によって」、私たちの人生は敗北ではなく、輝かしい勝利を収めていますと宣言します。「輝かしい」とは「確実な」と言う意味の言葉です。願わしくないこともすべてを益に変えてくださると言うことです。

パウロ先生は、自身のこれまでの歩みを振り返りながら、神様がいつも共にいて働いてくださり、パウロ先生を守り導き、必要なすべてを備えてくださった主の愛と憐れみ、恵みに励まされて、声を大にして「わたしは確信しています」と言います。38節と39節をご覧ください。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言っています。

ここにペアになる言葉が4つあります。それは「死と命」、「天使と支配する者」、「現在のものと未来のもの」、「高い所にいるものと低い所にいるもの」です。「死と命」とは、わたしたち生に関わることで、人間の存在を表します。「天使と支配する者」とは霊的な世界に関わることです。「現在のものと未来のもの」とは、ここには過去という部分がありませんが、それでもわたしたちの歴史すべてを示す言葉です。「高い所にいるものと低い所にいるもの」とは空間を表す言葉です。

「力あるもの」という言葉がこのリストには入っていて、何故パウロ先生はこの言葉をここに入れたのかはっきりしたことは分かりませんが、多分、エフェソの信徒への手紙1章の20節と21節と関係する霊的な力ではないかと思いますので、そこも読んでみたいと思います。新約聖書の353ページの上の段です。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」

新年早々、分かりにくくて長い宣教になりましたが、パウロ先生がこの8章の終わりで私たちに伝えたかったことは、主なる神様は、イエス様は、わたしたちの生の全領域で、信仰生活という霊的な領域で、すべての歴史の中で、すべての空間で、私たちと共にいてくださり、私たちを愛し、私たちを絶対に離さないお方であるということです。わたしたちが神様から離れそうになっても、神様が私たちを愛し続け、絶対に諦めないで、絶対に離さないでいてくださる。だから、私たちは災難や試練の中、試みにあっても大丈夫なのです。神様に愛されているから、大丈夫なのです。それほどまでに愛してくださるので、私たちは神様を喜び、感謝し、愛し、礼拝をおささげするのです。

この一年も、いろいろなことがあると思います。私たち一人ひとりの信仰が試されるでしょう。そのような中で、パウロ先生のように「確信していること」は何でしょうか。あなたは何か生きてゆく上での「確信」をお持ちでしょうか。もしまだ神様に愛されているという「確信」が、イエス様によって救われているという確信がないならば、イエス様を信じ、イエス様を心の中に招き入れてみてください。そうしたら、イエス様があなたの心に生まれて、共に生きて、これからずっと、この地上での命が終わって神様のおられる天国へ招かれるまで、共に歩んでくださいます。

この一年、どのようなことがあるでしょうか。荒野を彷徨うようなことも経験するでしょう。しかし、どのようなことがあってもこのことを信じ続けましょう。神様は、イエス様を通して私たちを愛し、絶対に離れない、絶対に私たちを離さないということを。荒野の中で、神様の恵みに預かりましょう。エレミヤ31:2