宣教要旨「あなたがたの手で与えなさい」~五つのパンと二匹の魚~ 大久保教会副牧師 石垣茂夫 2019/02/17
聖書:ルカによる福音書9章10~17節 招詞:民数記11:21~23
「男だけで五千人に食べ物を与える」この奇跡は、その場面に居合わせた人々にとって、どれほど印象深い出来事であったことでしょう。
福音書の中にある35の奇跡物語の内、四つの福音書に共通して書かれているのは、ただ一つ、この奇跡物語だけなのです。わたしたちは、~五つのパンと二匹の魚~で「五千人に食べ物を与える」、そのようなことが起こるはずはないと思いながらも、一方で、この時どれほど大きな喜びが起きたことだろうと想像してみたくなります。
空腹の男たち五千人を前にして、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と主イエスに言われたとき、弟子たちは、まったく自信がもてず、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません」、「できません」としか答えられなかったのです。
今朝は、新約聖書の中で「最も愛された物語」から、わたしたちの教会の働きについても、合わせて考えて行きたいと思います。
今朝は招詞に民数記11章から選ばせていただきました。「パンの奇跡」につながる旧約聖書の出来事です。
『モーセに導かれてエジプトから脱出したイスラエルの民は、40年間、荒れ野を旅します。その旅には男だけで60万人が一緒であったといいます。当然、日々の食べ物、飲み水は大きな問題となりました。旅の途中で、人々の不満は大きくなり、激しく怒りだし、「エジプトにいた方が良かった」と嘆きました。その声は、神の耳に届くほど大きくなったと書かれています(11:1)。
モーセは、人々と神の間に立たされて苦しみます。「わたしには荷が重すぎます。わたしを殺して下さい」そのようにも訴えています。苦しむモーセを見て、神が「すべての人に食べ物を与えよう」と約束しています。しかしモーセはこの事を疑いました。
すると神は、「わたしの手が短いとでもいうのか」とモーセの疑いを突き返しました。そしてすべての人に飽き足りるほどの肉を与えたのです。「食べ飽(あ)きて、遂に吐き気(はきけ)をもようすほどになる」(11:20)とまで書かれています。』
このように、旧約聖書の時代では、すべて神がリードし、神が与えていきますが、主イエスに於いては決定的に違っているところがあります。今日の箇所で主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(9:13)と言われます。
主イエスは、奇跡の中で、弟子たちを大いに用いていかれたのです。あなたがた自身で、今必要なものを、彼らに与えなさいと言っておられます。その日弟子たちが持っていた物は、五千人を前にして、何の足しにもならないと思われる「五つのパンと二匹の魚」だけでした。しかし、この貧しい状況に直面しても、主イエスはひるむことはなかったのです。主イエスが弟子たちに求めたのは、今、あなたがたが持っているものを差し出してみなさいという事でした。
その様に言われたあと、続けて「人々を五十人ずつ組にして座らせなさい」(9:14)と言われました。ここに、「組にして」という言葉がありますが、これは「食卓仲間」という意味です。「食事のためのグループ」を作ったのでした。ルカによる福音書には、神の国を食事や宴席に例えることが多いのですが、主イエスは、無秩序に座る群衆を、ここで「食卓仲間」としてまとめたのです。食事を伴った、交わりを楽しむ共同体に変えたのです。
初期のキリスト教礼拝では、現在と同じように、祈りと賛美、そして説教がなされていましたが、最も大切にされたのは、毎週必ず「パン裂き」が行われていたことです。その時代の礼拝でこそ、この物語は特別に愛され、語られていたに違いありません。この物語を耳で聞き、パンを裂き、それぞれの心に御言葉を刻んでいたのが、礼拝でした。
十二という数字があります。この数字は主イエスの十二弟子を表わしています。十二人が持たされたかごの中には、すでにパンと魚が入っていたのです。しかも弟子たちが、人々に配っても、また配っても、不思議なようにまだまだ籠の中にはパンと魚が残っていたのです。初期のキリスト教会では、礼拝の度に、この喜びの出来事を語り伝えていきました。
ここで大事なことは、給仕たちの先頭に主イエスが立っておられるということです。それは給仕として、仕えるために立たれるのです。何といっても最初に主イエスがわたしたちに、恵みを給仕してくださるのです。わたしたちは、それを感謝して受け、人々に配るよう求められています。
今朝は「パンの奇跡」を思い描きながら礼拝をしています。終りに、「信仰にとって、奇跡は決定的なことではなかった」という事を考えてみたいと思います。
マルコ6章には、「パンの奇跡」の後、「弟子たちも、このパンの奇跡を理解せず、心が鈍くなっていた。」と、52節には書かれています(マルコ6:52)。しかし、奇跡を信じられないこと、それは決定的なことではなかったと、弟子たちは気付かされていくのです。それを証明するかのように、主イエスご自身もこの先、こうした奇跡を繰り返すことはなさいませんでした。
「パンの奇跡を繰り返して満足させていく」、「各地を巡り、病を癒して人々を喜ばしていく」、
「強力な軍団を作ってローマを転覆させる」そのような力のメシアにはならなかったのです。
復活の主イエスを待つ弟子たちは、毎日教会に集まってはパンを裂き、分け合ってすごしました(使徒2:43~47)。日々の礼拝での「パン裂き」では、主イエスの奇跡は起きませんでした。主イエスの十二弟子たちでさえ、かつての「パンの奇跡」がどのようにして起きたのかを知らないのですし、人に説明することも出来ないのです。
ただ、その礼拝で主イエスの言葉を信じてパンを裂く度に、「パンを裂いて分けてくださったあの主イエスは、今日もここにおられる」という体験を繰り返し味わっていたのです。ここに、わたしたちの礼拝が目指すことがあるのです。
わたしたちの持っているものが、たとえ小さくても、主イエスがそれを拒むことはありません。それを用いて主イエスご自身が先頭に立って働いてくださいます。この事を信じ、自分が持っているものを差出して主に仕え、主と共に歩む群れとして導かれて行きましょう。