「憐れみをもって選ばれる神」 三月第一主日礼拝 宣教 2019年3月3日
ローマの信徒への手紙11章1〜10節 牧師 河野信一郎
今朝もご一緒にローマの信徒への手紙から神様の言葉を聴いてまいりたいと思います。先週で最初の10章を聴き終わりました。今朝からようやく11章に入ってゆきますが、4月は受難節とイースターのメッセージになります。8月には最終章の16章にたどり着き、ローマの信徒への手紙を終えられると思います。12章からは信仰生活に直結する、より具体的なお話になりますので、神様に期待してお待ちいただければと思います。
さて、今朝は、11章の1節から10節をテキストに、神様の御心を探り求め、共に御言葉に聴いてゆきたいと思いますが、今朝の宣教を始めるためには、どうしても10章21節から聴いてゆかなければならないと思いますので、どうぞご覧ください。
「イスラエルについては、『わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた』と言っています」とありますが、イスラエルの民・ユダヤ人たち、神の民として神様が自ら選ばれし人たちを神様は「不従順で反抗する民」と呼んでおられます。それはとっても衝撃的な言葉です。自分もそのように言われたら、本当に悲しいと思います。
しかし、その不従順で反抗的なイスラエルの民に対して、主なる神様は諦めることなく、愛と忍耐をもって救いの手を差し伸べる神様がおられて、今もこの神様の御手は、救い主イエス様を通して差し伸べられている。それだけではなく、十字架につけられた時の釘の跡がある主イエス様の御手が異邦人である私たち一人一人にも差し伸べられていることを先週ともに聴きました。イエス・キリストという救い主を必要とする全ての人々、私たちの隣人たちにも差し伸べられ、その良き知らせを伝えることが、先に救われた私たちクリスチャンの働きだということを聴きました。しかしながら、そうしたくても一筋縄では行かないことはみんなよく知っていることです。
その理由は、いろいろあるのですが、自分の幸せは自分の力と努力で掴むもの、自分には「神」という存在はいらないという人や、自由気ままに自分らしく生きたいという人や、宗教にすがるのは弱い人のすることと思い込んでいる人や、自分の家には先祖代々受け継がれて来た宗教があるからという人もいたり、新興宗教は怖いというイメージを持っている人であったり、外国の宗教など必要ないと考える人が多くおられることも理由であります。目の前のことが忙しすぎて、一息つける時には自分や家族のために時間やお金を使いたいという人もいます。窮屈なスペースと時間の中で生活し、心が疲れ切っている人がおられます。しかし、孤独な人もたくさんおられます。しかしそれでも、神様から差し伸べられているイエス様という救いの手を見ようとしない人や差し伸べられていても握り返さない人もいて、本当に一筋縄ではいかないわけです。
それは、神の民として選ばれたはずのイスラエルの民も同じです。しかしながら、神様の救いの御手は、イスラエルの歴史の中でこれまで差し伸べられて来ましたし、今も差し伸べられています。そしてこれからも、つまり主イエス様の再臨の時まで差し伸べられ続けるのです。けれども、イスラエルの民たちは差し伸べられているイエス様の御手が呪いの木、十字架につけられた跡があるので握らず、正真正銘のメシアを送ってくださるはずと今も信じているのです。
しかし11章1節にこのようにあります。「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか」とパウロ先生はローマの信徒たち、ユダヤ人クリスチャンたちに問いかけます。そして「決してそうではない」と断言します。私のような者でも「イスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です」とパウロ先生は言います。私はユダヤ人です。またイエス様に従う者たちを迫害して来た者ですが、私のような者も主は憐れんで救ってくださいましたという思いが聞こえて来そうです。「ユダヤ人の中にも、イエス様と出会って、イエス様を信じている者がここにも実際にいるのです」というパウロ先生の叫びです。パウロ先生の主張は、「神は、前もって知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでしたし、現在も、これからも退けたりしません。」ということです。
確かに預言者エリヤは神様にこのように訴えています。3節。「主よ、彼ら(イスラエルの民)はあなたの預言者たちを拒絶し、殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています」と叫びます。その訴えに対して神様は4節でなんと言っているでしょうか。少しリフレイズして読んでみます。「確かにわたしはあなたが訴えるそのことをつぶさに知っている。しかし、その民の中にも偶像バアルにひざまずかなかった7千人の信仰も知っている。だからその人々を残しておいた」と告げられます。
5節でパウロ先生は、「同じように、現に今も、恵みによって、神の憐れみによって選ばれたものが残っています」と言っています。イスラエルの歴史を見ますと、ユダヤ人迫害の連続の歴史です。ナチスの支配下、ヨーロッパで生きていた600万人以上のユダヤ人が無残に殺されましたが、第二次世界大戦の最中、その死の危険から免れた人たちが生き残っています。それも、神様の憐れみであり、恵みであります。パウロ先生は、「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」
と言って、大変な状況の中にあっても、不信仰な民であっても、それでも神様は憐れみをもって、その中から救われ残される民を選ばれて来たし、これからもそのようにされる。しかし、神様の御心は全イスラエルが救われるということだとパウロ先生は11章26節で言っています。そのことは3月24日の礼拝の宣教でお話しします。
話を元に戻しますが、7節をご覧ください。「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです」とありますが、分かりにくい言葉でありますね。しかしパウロ先生の言うことを次のようにリフレイズすることができます。「では、どうなのか。イスラエル全体が求めている救い主・メシアを全体が得られないで、神の憐れみによって選ばれた者、限られた者たちが神の子イエスをメシア、キリストと信じて救われた。全体で得られなかったのは、大部分の人たちが、十字架にかけられた救い主を信じることができなかったから。そのように彼らの心をかたくなにしたのは神様です」と。それを裏付けるように、パウロ先生は8節から10節で、旧約聖書から引用しています。
8節「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」。9節「ダビデ王もまた言っています。『彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください』。
8節の引用は、申命記29章4節とイザヤ書29章10節を重ねたもので、9節と10節の引用は、詩編69編の一部の言葉です。パウロ先生は、律法の書・申命記、預言書・イザヤ書、そして詩編、つまり旧約聖書を通して、イスラエルにも責任があるけれども、彼らの心を頑なにしたのは神様であると言っています。と同時に、その中から救われる者たちを選ばれたのも神様であると言っています。
つまり、全てのすべては、神様の愛と憐れみ、そして主権によるということです。神様は、誰が神に対して忠実で、誰がそうでないかをすべて知っておられるということ。私たちの群れからこぼれ落ちる人も、この群れに加えられる人も全て神様はご存知であるということです。もしかしたら、牧師であるわたしがこぼれ落ちるかもしれません。ですので、私たちは自分の信仰の帯としっかりと結び直すこと、そして互いの信仰が守られるように祈り合い、仕え合う必要があるということだと思います。
もう一つ覚えたいこと、それは全ての人は救いへと招かれています。しかしながら、主の憐れみによって救われる人が誰であり、どこにいるか、私たちには分からないということです。ですから、全ての人々にイエス様をご紹介しなければならないのです。
わたしにはこういう痛い経験がアメリカであります。大学生の時、日系のスーパーマーケットでアルバイトをしていましたが、そこに元気にバリバリ働く若い日本人女性がいました。彼女は結婚し、幼い男の子を育てていました。わたしは職場で、自分がクリスチャンであることを彼女には言っていませんでしたが、ある日曜日の朝、彼女がお子さんを連れて礼拝にいらっしゃったのです。彼女は、教会を探していたのです。神様を必要としていたのです。自分がクリスチャンであることをもっと早くから伝えていれば、その方はもっと早くに教会に導かれていたでしょう。誰がイエス様を必要としているか、求めているか分からない時が大半です。誰が救われるのか、それは神様の御業ですから、私たちには分かりません。しかし、分からないからと言ってイエス様を紹介しないのは、神様に対して不忠実で、人々に対しては不誠実なのではないかとも思わされます。ですから、イエス様を紹介できる勇気と言葉を与えてくださいと祈ることが私たちに大切なのです。
最後に覚えたいこと、それは人の心をかたくなにされる神は、そのようなかたくなな心を柔らかくできる愛のお方であるということです。皆さんの周りにも、心がかたくなな人、イエス様を見ようとしない人、福音に耳を閉ざしている人、心を開かないで自分の思い通り、直感に頼って生きているような強情な人がおられるのではないでしょうか。どんなに祈っても、どんなに愛を持って歩み寄っても、無反応な人、神様を拒絶する人もいるのではないでしょうか。そういう人が今そのような状態であるのは、神様がそうしておられるのかもしれないと今朝の箇所から聞くことができるのではないでしょうか。
しかしながら、そのような人々の心を柔らかくし、目と耳を開き、心を福音へ向けてくださるのも神様であるということがここから聞こえてくること、慰めであり、励ましではないでしょうか。神様にできないことは何一つないのです。神様に不可能という文字はないのです。神様は愛と憐れみに満ちたお方です。その神様に忠実に生き、人々に誠実に生きてゆく時に、神様は大いなる救いの御業を私たちに見せてくださるのではないでしょうか。神様と救い主イエス様を信じ、ご聖霊の導きの中で、信仰と希望と愛を持って歩んで参りましょう。