「主イエスは復活された:空っぽの墓を喜ぼう」 イースター礼拝 宣教 2019年4月21日
マタイによる福音書28章1〜10節 牧師 河野信一郎
2019年のイースター、おめでとうございます。今年の復活祭をこのように皆さんとご一緒にお祝いできて本当に感謝です。神の御子イエス・キリストは、私たち人間が犯してきた罪の莫大な代価を支払うために、十字架に架かって贖いの死を遂げてくださいました。これは、神様のご計画されたことで、私たちを救い、私たちを神様に再びつなげることが神様の願い、御心でありました。神様のご計画は、それだけにとどまらず、永遠の命を私たちに与えて、神様との永遠の交わりに招くことでした。そのためにイエス・キリストを死から甦えらせ、永遠の命への道を開いてくださいました。このことを共に覚えて感謝し、喜び祝うことがイースターの目的であり、私たちに対する神様の望み、願い、御心です。
イースターがおめでたい理由、それは私たちが神様に愛され、赦され、救われているからです。神様が計画された救いが従順なイエス様によって完成し、イエス様を信じるすべての人が神様に再びつながる祝福に与かれるようになったからです。イエス様を信じることによって神様につながることができ、神様の大いなる祝福を受ける者とされ、その祝福を周りの人たちと分かち合う者として生きる人生の目的が与えられるようになったからです。
イースターがおめでたい、もう一つの理由は、主イエス様のご復活がなければ、この教会は存在しなかったはずです。つまり、私たちはこのようにして、この教会で出会うことはなかった、でも出会えたからです。今朝このように礼拝をおささげする私たちの中には、主イエス様のご復活がなければ、この世に存在し得なかった人もわたしを含めて確実にいます。わたしの両親と妻の両親は、それぞれ生きていた場所でキリストの福音に触れ、主イエス様の十字架と復活を信じてクリスチャンとされました。父と義父はその後に牧師として召され、その後に母と義母と出会って結婚して、わたしや妻、その兄弟もみんな生まれましたので、イエス様のご復活がなければ、今ここに存在し得ない者なのです。そういうことを考えると本当に感慨深くなり、いま生かされていること、今ここに居ること、存在することが、ほんとうに嬉しくなり、感動します。わたしは、神様の愛と憐れみ、そしてお導きの中で皆さんと出会えたことを神様に感謝し、イエス様に感謝いたします。イエス様のご復活がなければ、今朝、皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いに与ることはできませんでした。
さて、イースターがおめでたい理由は、他にもたくさんありますので、今朝はご一緒にマタイによる福音書28章に記されているイエス様のご復活の出来事からおめでたい理由、宝探しをしてゆきたいと思います。
1節をご覧ください。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った」と記されています。彼女たちはイエス様を尊敬し、愛し、信頼し、ずっと従って来た女性の弟子たちです。イエス様も彼女たちを愛し、神様の愛と天国について教えて来られました。イエス様と彼女たちの心は固く結ばれ、つながっていました。けれども、この数日間の間にイエス様が他の男性の弟子に裏切られて捕らわれ、不当な裁判にかけられ、酷たらしい十字架刑に処せられたことは、彼女たちの心を傷つけ、苦しめ、悲しませました。愛するイエス様の死は、彼女たちの心を切り裂き、絶望を与えました。そういう中でイエス様が葬られた「墓を見に行った」とあります。彼女たちは、墓参りに来たのです。
他の福音書では、彼女たちはイエス様の亡骸に香料を塗るために墓に行ったと墓参りの目的が明確に記されているのですが、このマタイによる福音書では、ただ「墓を見に行った」と記されています。死なれたイエス様のために「せめて何かをして差し上げたい」という思いもあったかと思いますが、彼女たちがイエス様の墓に来た理由は、イエス様のためだけでなく、自分たちのためであったということが判ると思います。では、彼女たちは何のために墓に行ったのでしょうか。亡くなられたイエス様のために何かをして差し上げることで、心の中にぽっかりと空いた穴を少しでもふさぎたいと思ったのかもしれません。あるいは、イエス様の墓で思いっきり泣いて、悲しみを少しでも和らげたいと思ったのかもしれません。しかし、彼女たちは死なれたイエス様を見に、週の初めの日の明け方、墓に行ったのです。
そのような心持ちで来た彼女たちは、イエス様の遺体が葬られた墓で数々の驚くべきことを体験します。2節から6節を読みます。「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。』」とあります。
彼女たちは大きな地震、つまり心が揺さぶられる体験をします。何のために墓に行くのか、何のために生きているのかということが心揺さぶられる中でとっさに考えさせられます。この地震は、主の天使が天から降って来て、墓の入り口に置かれた石を転がしたことが原因で起こったということが分かります。その天使がその石の上に座って、マリアたちを出迎えます。これも彼女たちが今までに体験したことのない驚くべき出来事です。天使の衣は雪のように白かったとありますが、稲妻のように輝く天使の姿を見て、腰を抜かすほど本当に驚いたと思います。マリアたちは死なれたイエス様を見に来たのですが、次から次へとその期待を裏切られるというか、予期せぬ出来事が続きます。イエスの亡骸が弟子たちによって奪われないようにと墓を見張っていた番兵たちは、天使の出現に驚き、恐ろしさのあまり気を失ってしまいます。マリアたちも初めての出来事にびっくりして恐れたことでしょう。しかし、目の前にいて自分たちを見ている天使が、「恐れることはない」というのです。「恐れることはない」。「何故、どうして」と彼女たちは思ったでしょうが、天使はなぜ恐れる必要がないのか、その理由をマリアたちに告げるのです。「あなたがたが捜しているイエスはもうここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と。「あなたがたはイエスの亡骸が納められた一部始終を見ていたでしょう。さあ、その場所を見て、本当におられないこと、十字架にかけられるもっと以前からイエスがあなたがたに何度も繰り返し言って来られた三日後に甦るということを思い出しなさい、そして復活されたことを自分たちの目で確認しなさい」と招かれるのです。イエス様の十字架と壮絶な死、そして遺体が葬られるまでの一部始終を見ていた彼女たちにとって、考えられないことが目の前で起こっています。しかし、この出来事はイエス様がかねてから予告されていたことで、その言葉が確かに成就したという事実を確認しなさいと招かれています。イエス様は甦られた、その宣言がここでされているから、おめでたいのです。
自分の家の墓が誰かによって荒らされ、「そこにあるはずの遺体、遺骨がない」ということを見るとき、私たちは失望し、悲しみがさらに増し加わり、怒りが込み上げてくるでしょう。そしてそれを警察に通報し、犯人探しが始まるでしょう。しかし、イエス様のご復活の場合は違います。死から、墓からイエス様を甦らせたのは神様で、それは私たちに永遠の命を与えるためであったのです。ですから、恐れたり、悲しんだり、失望することではなく、喜んで、感謝し、希望をもつようにとの励ましがここでなされている、だからおめでたいのです。
天使はマリアたちに7節でこのように言います。「急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」と。天使は死んだイエス様を見に来たマリアたちに、イエス様は甦えられたと他の弟子たちに伝えるという使命・ミッションを与えました。これが彼女たちの新しい生きがいとなってゆきます。復活されたイエス・キリストを信じる人に、神様は新しい生きがい、人生の目的を与えてくださる。だから、イースターはおめでたいのです。
8節をご覧ください。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」と記されています。「恐れながらも大いに喜び」というのは半信半疑であったということだと思います。半信半疑であったのは、イエス様の亡骸がなかったという事実と天使から聞いたことだけで、実際に復活されたイエス様に会っていなかったからだと思います。しかし、それでも彼女たちに「このことを伝えたい」という気持ちと「早く知らせたい」という走る力が与えられたのは、復活の良き知らせ・福音に大きな力があったからです。今後自分はどうなってしまうのか、天国へ招かれるのか、そもそも天国っていうものはあるのかと思うことにあると思いますが、神様の言葉であり、救い主であるイエス・キリストの言葉を信じて従う時に、神様につなげられて、喜びと平安と希望、生きる力が神様から与えられてゆき、地上で生きる間に必要な知恵と力と勇気が与えられてゆきます。
そのことを裏付けるかのように、9節をご覧ください。「すると、イエスが行く手に立って「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」と記されています。復活されたイエス様がマリアたちに発した第一声は「おはよう」でした。この「おはよう」という言葉はギリシャ語で「チャイレテ」という言葉が使われていますが、この「チャイレテ」という言葉は他に二通りに訳すことができる言葉です。一つは「喜びなさい」、そしてもう一つは「平安を得なさい」です。イエス様を通して神様が私たちに望んでおられるのは、悲しんだり、痛んだり、苦しんだり、悩んだりすることではなく、平安のうちに喜ぶことです。私たちもいつかはこの地上での生に終わりを告げる時が来ますが、復活されたイエス様を信じることによって「死」という恐怖から解放され、自由にされて、永遠の命が約束されていることを喜んで、平安のうちに生きてゆくこと、それが神様の望みです。ですから、復活されたイエス様の二言目は、「恐れることはない」であるのです。
皆さんは、最近、「心配しなくても大丈夫だよ。喜びなさい」と誰かから言われたことがあるでしょうか。差し迫った今後のこと、将来のこと、健康のこと、お金のこと、保証のこと、子どもたちの成長と未来のこと、心配することがたくさんあります。しかし、復活されたイエス様が「恐れることはない。心配するな。喜びなさい」と言っておられます。「わたしがこれからずっとあなたと共にいて、あなたを守り、あなたを支え、あなたに必要なものを与えるから。私を見なさい。信じなさい」と招いてくださいます。
私たちに大切なことは二つです。一つは、「おはよう」と言って招いてくださる主イエス様に近寄って、イエス様の足を抱き、その前にひれ伏すということ、つまりイエス様を救い主と信じて礼拝するということ。もう一つは、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」とイエス様の復活を宣べ伝え、イエス様のもとに人々を向かわせるということ、イエス様による救いの喜び、恵みを分かち合ってゆくことです。これがマリアたちの心にぽっかりと空いた穴をふさぐ喜びになりました。イエス様は私たち一人ひとりの心の穴をふさぎ、喜びと平安と希望で満たし、新しい生きがいを与えるために神様のご計画・御心によって甦らせられました。ですから、ぽっかりと空いたイエス様の墓は、ぽっかりと空いたままで良いのです。私たちのために復活されたイエス様の墓がぽっかりと空いて、イエス様がそこにおられないのは、私たちにとっての救いであり、神様の愛のあらわれなのです。ですから、イースターはおめでたいのです。感謝して、喜び祝いましょう。救い主イエス・キリストは甦られました。神様とイエス様に心から感謝いたします。主をほめたたえます。