誰のためにあなたは生きるか

「誰のためにあなたは生きるか」 六月第四主日礼拝 宣教  2019年6月23日

 ローマの信徒への手紙14章1〜12節           牧師 河野信一郎

先ほど女性会からアピールがありましたように、今日6月23日は、「命どう宝の日」という沖縄の慰霊の日です。国籍や言語や肌の色が何であったとしても、すべての人の「命は宝」であるということを覚える日だと思います。第二次世界大戦の最後の最後に、日本で唯一の地上戦が沖縄であり、20万人以上の一般市民の尊い命が失われました。また、1945年の終戦から1972年に日本へ返還されるまでの27年間、本土の日本人は沖縄を国外と切り離してしまった痛恨の間違いを犯してしまった過去があります。それだけでなく、アメリカから日本へ返還後も、沖縄に生きる人たちに米軍基地という重荷を一方的に押し付けて、言葉では表現できない苦しみを強いてきました。本土の私たちは、今まで沖縄の苦しみを他人事としてきたこと、無関心であったことを認め、悔い改めて、沖縄の人々が1日も早く苦しみから解放されて自由に生きて行くことができるようにして行く取り組みをしてゆかねばなりません。

今、沖縄の人々のために私たちができることは本当に限られていますが、限られている中でも、沖縄の人たちのために、忍耐と慰めと希望の源である神様にまず祈ること、そして祈った後は、神様の言葉に聴くことだと思います。ですので、今朝もご一緒にパウロ先生がローマの信徒へ書き送った励ましの手紙を通して、神様の語りかけに聴き、御心に従って歩んでゆきたいと思います。今朝のテキストは、14章の1節から12節です。先ほど読んでいただきましたこの14章は、教会の兄弟姉妹たちとの関係性について記されていますが、1節から読み進めますと、ローマの教会が二つのグループに分裂・分断されていることが分かります。パウロ先生は、教会内で、神の家族の中で、兄弟姉妹を裁いてはいけない、躓かせてはならないと14章で書き記しています。それらの行為は神様の喜ばれることではないと言うのです。

今、日本の中でも沖縄の人たちと本土の人たちに分断があります。日本社会でも様々な分裂があります。アメリカでも、イギリスでも、香港でも分裂・分断があります。先週の香港の学生デモでは、「Sing Halleluiah to the Lord・主を賛美しよう」という賛美歌がテーマソングのように絶え間なく歌われたと聞き、凄いなあと思いました。クリスチャンの青年たちがこの賛美をデモの時に歌い始めたそうです。裁き合うこと、足を引っ張り合ったりすることは、神様の御心ではありません。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」とエフェソ4章26節にあります。

わたしたちプロテスタント教会の得意とするところは、主なる神様への信頼のうちに、平和のうちに、自分たちの思いを主張したり、表明したり、抗議することです。主を賛美することは、主に栄光を帰するだけでなく、わたしたちの心を落ち着かせ、わたしたちの心を神さまへと向けさせ、わたしたちが本当に集中すべき事柄に集中させる力があります。この14章は、とても刺激的な言葉というか、わたしたちの心を目移りさせる言葉、心を掻き立てる言葉が色々とありますが、わたしたちが本当に見逃してはならない言葉、心に留めるべき言葉は、6節にある「感謝」と17・18節の「喜び」だと私は思うのです。憐れみによって主イエス・キリストを通して神様から与えられている神の家族、主にある兄弟姉妹を感謝し、共に歩み、共に主にお仕えできる恵みを喜ぶこと、それが神様の御心であることを今朝と来週の宣教を通して共に聞き、喜び、感謝し、主を賛美したいと思います。

さて、ローマの教会、信仰共同体が二つのグループに分裂してしまっていることが1節で記されています。「信仰の強い人」たちに対して、「『信仰の弱い人』を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」とパウロ先生は言いますが、「信仰の強い人」、「信仰の弱い人」とは、どういう人たちであったのでしょうか。わたしたちは、信仰の強い人=信仰的に成熟した者、信仰の弱い人=信仰的にまだ未熟な者と端的に考えがちですが、そういう意味合いではなく、また「信仰の弱い人」=信仰的に劣った人というわけではありません。

よくご存知のように、ローマは異邦人の国の都市です。つまり、異邦人クリスチャンが教会の中で人数的に多数派の「強い人たち」で、ユダヤ人クリスチャンが少数派の「弱い人たち」と言う構図があったわけです。多数派=優勢、少数派=劣勢と言うことで、パウロ先生は弱い人たちに対する強い人たちの強い態度というか、高慢な態度を心配しています。

2節に「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」とありますが、ユダヤ人クリスチャンたちの信仰生活の背景にはモーセの律法があり、血抜きなどユダヤの律法によって適切に処理されていない肉は食べないという思いがありましたから、ローマという異国の都市で適法に処理されていない肉は、あえて食べなかったわけです。異邦人クリスチャンから見たら、とても神経質で、いつも面倒くさいことをいうユダヤ人クリスチャンたちのそのような考えを批判することがあったようで、3節にあるように、「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とパウロ先生は言い、態度を変えなさいというのです。ローマ教会の兄弟姉妹たちが、そして今日生かされているわたしたちがなすべきこと、それは人を批判したり、裁いたり、軽蔑することではなくて、誰でも「受け入れる」、違いを認め合うと言うことです。この考え方の土台が3節後半にある、「神はこのような人をも受け入れられたからです」と言う言葉です。神様に受け入れられない人は誰もいません。ですから、わたしたちも互いに受け入れ合うのです。

しかし、それでも相手を受け入れられない頑ななクリスチャンがいます。寛容になりなさいとパウロ先生から熱心に言われても寛容になれない人がいます。そういう人に対してパウロ先生は4節で「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」と問います。この「あなた」とは、信仰の弱い人と強い人、どちらにも当てはめられますが、召し使いを批判したり、評価したり、裁くことができるのはその召し使いの主人だけです。それなのに、主人でもないのに人を批判したり、裁いたりするあなたはいったい何者ですか、自分は何者であるのかをよく考えてみなさいと言われています。

「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」と5節にありますが、ユダヤ人クリスチャンたちはユダヤ人としての特別な日があるわけですが、異邦人クリスチャンたちはそれを理解しようと努力せず、非難するばかりです。今日においては、日曜日を「聖日・聖なる日」という人もいれば、「主日・主の日」と呼ぶ人もいます。主の晩餐式を「聖餐式」と呼ぶ人もいます。パウロ先生は、「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです」と5節の後半で言っています。わたしたちも周りの人のことを気にすることは止めて、主イエス様だけを見て、このイエス様にどのように忠実に仕えてゆこうかということを自分の心の確信に基づいて決めるべきです。イエス様は、わたしたち一人一人の忠実さをご覧になられます。

6節から9節を読みたいと思います。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」

ここで「主のために」という言葉が何度も出てきますが、ギリシャ語と英語の聖書では「to the Lord」と記されています。直訳すれば、「主に」ということです。日本語だと「主のために」は、「for the Lord」という意味合いで受け取れてしまいますが、「主のために」ということと「主に」というのは同じでしょうか。8節に「わたしたちは主のものです」とあり、9節では「キリストがわたしたちの主」であると記されています。わたしたちクリスチャンの主人は、イエス・キリストであって、わたしたちが主人ではありません。イエス様がわたしたちを罪から贖ってくださったからです。ですから、その主のために生きることは当然のことで、それがわたしたちの存在理由です。それがわたしたちの人生の目的です。「主のために」というとき、何かをするかしないかを決める決定権、行う主導権、自由はわたしたちにあるかのように思い違いをしてしまいますが、そうなると、気分的に余裕のある時は無理なくできることも、余裕のない時、気持ちがそこまで入りきらない時はできない、しないということになってしまいます。しかし、「主に」生きるという時に重要なのは、わたしたちの気持ちではなく、神様の御心、主イエス様の思いです。それが主のために生きることへとつながります。

パウロ先生がこの14章で言う「信仰」とは、その人の「信心」というよりも、神様から与えられている信仰は何のために与えられていて、何のために用いるべきなのかをその人が知って、「確信」を持って生きるということです。主の御栄光のために、主の御心がなるために、主のご計画が実現するために、主の愛でこの地が満たされるために、主のしもべとして主に仕え、人々に仕えるために救われ、召されているという確信を持つことが大切だとパウロ先生は励ましていると思います。

わたしたちは神様に造られ、愛され、罪赦され、主イエス様の弟子として生かされています。わたしたちのこの地上での使命は、神様と主イエス様を愛し、隣人を愛し、神の家族の中で兄弟姉妹と愛し合うことです。それが大宣教命令に生きる土台となり、大きな力となります。しかしながら、今、神の家族の中で、キリストのからだなるローマ教会の中で、愛し合うこと、受け入れ合うこと、仕え合うことができていないとパウロ先生は言うのです。10節で「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」と言うのです。教会の中で、キリスト教界の中で、お互いの考えや信仰を批判しあったり、裁きあったり、軽蔑しあったりしていると言うのです。それは神様の御心ではありません。神様の喜ばれることは、非難し合うことではなくて、理解し合うことです。裁き合うことではなく、許し合うことです。軽蔑し合うことではなくて、愛し合うことです。悪口を言い合うことではなく、祈り合うことです。パウロ先生は、わたしたちが主イエス様を通して受けた愛を持って互いに忍耐と寛容さを持つようにと励ましています。

神様の御心が11節に記されています。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と」。主なる神様は生きておられ、全てを見ておられます。神様は裁き主であられますから、12節にあるように、「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べること」になります。神様からいただいた命や時間や健康や能力や富、恵みをどのように用いて神様の栄光を表したのかを説明する責任があります。そのことをしっかりと覚えていなければなりません。しかし、神様はわたしたちを裁くよりも、わたしたちをもっともっと愛されたいのです。そして愛してくださっています。この愛を喜び、感謝し、そしてこの愛を一人でも多くの人たちと分かち合うこと、それが神様の御前で神様をほめたたえ、賛美することになります。自分の力で生きるのではなく、神様の愛の力を日々受けて、主に対して生き、主のために、隣人のために仕えてゆきましょう。