宣教要旨「二つの国を生きたヨセフ」 大久保教会石垣茂夫 2019/07/21
聖書:創世記37:1~11 招詞:箴言16:9
今朝は創世記37章、長いヨセフ物語の初めの部分をお読みいただきました。
この創世記は次のような言葉始まっています 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた(2節)」、この言葉を「地の混乱、世の混乱そして人間の混乱を予感させると共に、そのような地を神はじっと見ておられた」と解釈している方がありました。「神の霊が水の面を動いていた」との言葉を「神はじっと見ておられた」との解釈に慰めをいただきました。
「混沌」、あるいは「混乱」、これは今日に至って、益々世界を巻き込み、わたしたちを困らせています。どこか一つが歪むと瞬く間に全世界を巻き込んで、混乱していきます。こうした時代に、神はどのように働いてくださるのか。ただ、見ておられるだけなのか。そのようなことを思わずにおれなくなります。
今朝はヨセフ物語の初めの箇所を読みました。ヨセフは、自分が願ったことではないのに、イスラエルとエジプトという二つの国、二つの文化の中に生かし、動かしていかれました。
この礼拝に集っておられる方々の中には、既に、二つの国、三つの国にチャレンジしておられる方があります。こうした方々こそ、この混乱した世界が求めている、必要な人材なのでしょう。そうした方々とヨセフとが重なって見えてきました。このヨセフの、まことに混乱した人生の中にあっても、ヨセフを忘れず、ヨセフと共に立ち続けてくださる神がおられました。そのような思いをもって、今朝の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。
創世記の兄弟たち
創世記には、良く知られた何組かの兄弟が登場しますが、みなそれぞれ、不幸な出来事を背負って生きていくことになります。
創世記4章には、人類最初の兄弟「カインとアベル」が登場します。神が造られ、「良し」とされた人間の、最初の兄弟は、殺人事件で幕が開きます。
アブラハムの独り子「イサク」には「エサウとヤコブ」という双子の兄弟が与えられますが、弟のヤコブは、兄の「エサウ」を騙(だま)し、最終的には父イサクをも騙して長男の祝福を奪ってしまいました。そのため、二人の間には深い溝が生じ、特に、弟ヤコブは兄を恐れるようになり、怯(おび)えながら辛い思いで長い年月を生きていきます。
聖書の兄弟はみな、なぜか兄が退けられ、弟が選ばれて行きます。これも不思議なことです。その理由ははっきりとはしません。「神のお心」と説明されます。残念なことに、こうしたとき、いつも人間の側には、「これは神のお心だ」と受け入れる備えが、出来ていないのです。
お読みいただきました創世記37章に進みます。ヤコブには12人の男の子が与えられます。
このうち、11番目の子ヨセフと、12番目の子ベニヤミンは、ヤコブが最も愛し、最初に妻として迎えたかった女性・ラケルの子です。ヤコブが秘かに願っていたことは、このラケルの最初の子ヨセフこそが跡継ぎになるという事だったのです。興味深いことですが、この物語でも、10人の兄たちが退けられ末の弟ヨセフが重んじられて行きます。
37:3 イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。
イスラエルとは、神がヤコブに与え、後に民族の名となる特別な名前です。父ヤコブはヨセフが小さい時から「晴れ着」を着せていました。「晴れ着」とは王族の衣装だということです。
10人の兄弟や妻たちに対して、この11番目の子ヨセフこそイスラエルを継ぐ者、お前たちの中では一番の各上だとばかり、裾の長い晴れ着を着せ、見せつけていったのです。10人の兄たちの心中は、次第に混乱していきます。
ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。
「一体どういうことだ、お前が見たその夢は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか。」37:5 ~37:10
ここで伝えられた「穀物の束の夢」と「星たちがひれ伏す夢」この二つの夢の内容は、どちらもやがてヨセフが一族の長となり、兄たちや両親でさえもヨセフにひれ伏すようになるというもので、結末を知っているわたしたちには受け入れやすいことですが、当時の家族の中には、言い知れぬ憎しみが渦巻いていったと想像されます。
二つの国を生きるヨセフ
父ヤコブは、神によって一つの民族となる呼び名「イスラエル」を与えられていました。
その子ヨセフは、自分の思いではなくイスラエルに生まれ育ち、若くしてエジプトに売られ、二つの文化の中で生きて行かなくてはなりませんでした。繰り返しますが、これは全く、自分の思いではなかったのです。
わたしたちの教会の交わりの中にも、実際に二つの文化、あるいはそれ以上の、複数の文化の中で生きておられる方々が沢山おられます。わたしはご一緒に過ごしているなかで、驚きをもって見させていただいています。特に、そうした方々の勇気に、いつも感動を覚えています。
創世記のヤコブ一族は、様々な問題や混乱をもって生きていましたが、その一族からイスラエル民族が生れました。その歴史の中から、イエス・キリストがお生まれになりました。はじめに、「この混乱した中で生きていく人間を、神はじっと見ておられたのだ」とお話しました。
じっと見ておられた神は、ただ見ておられた神ではありません。イエス・キリストの姿となって、「無力な人間に、ご自身を与えてくださった神」でした。終りにそのことを覚えたいと思います。
スイスの神学者カール・バルトは、ある論文で次のようなことを言っています。
『スイスの国旗には十字架が描かれている。これにはイエス・キリストの十字架を表わしている。十字架の国旗を掲げて、キリストの十字架の意味と同じ思想を、スイスという国は持っていると表明している。
キリスト教の十字架の意味とはこのようなことだ。十字架は一本の横木と縦の柱が組み合って作られている。
横木は「人間とその混乱」を表わし、これに対して縦の柱は「神の働き」を表わしている。
人間とは、自分だけではどうにもならない混乱を抱えている。その事をあらわしている横木に対し、これを支えているのが縦の柱、神である。神はイエス・キリストとなって人間を支えておられる。十字架とはそのような意味を持っている』と言っています。続けて、『この混乱した時代に在って、この十字架を理解し受け入れる人はわずかだ。それだからこそ、教会に集う人が、そのわずかな人になろうではないか』と言っています。
ヤコブ一族にも現れた「家族間の憎しみと混乱」は、「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。(37:11)」との言葉で一旦閉じられています。今の私たちにも絶えず混乱が起こり、憎しみの思いが湧いてきます。しかし、不思議なように、その出来事の中で神に祈り、神への思いへと導かれていくものでもあります。「父はこのことを心に留めた」。かつて、夢で神と格闘までした父ヤコブは、ヨセフの夢に、神の眼差しを意識したようです。
神は私たちを忘れておられません。「神の働き」は途絶えることはありません。太い縦の柱が「人間の混乱」を貫いて立ち続けています。
この世で、教会に集うわずかな人を、神はじっと見ておられます。十字架の主イエスを与えて、支え続けてくださっています。
招詞では(箴言16:9 )『人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる』と読まれました。
この御言葉を心に留め御言葉を信じて、この一週も歩んで参りましょう。