「聖なる者とされている生活」 十月第一主日礼拝 宣教 2019年10月6日
コロサイの信徒への手紙3章12節〜17節 牧師 河野信一郎
先週の宣教は、裵讃植宣教師がしてくださり、わたしたちは「祈る者とされているから、祈りましょう」というメッセージをしてくださいました。「もうすでに祈りは答えられているから、祈りましょう」という励ましでした。祈る人だけが祈りが応えられる体験を得ることができます。祈ることは恵みです。祈らないことは、恵みを捨てているのと同じです。イエス・キリストのみ名によって祈る祈りは必ず神様に届き、神様が必ず応えてくださいます。
さて、9月から「わたしは誰か」というテーマで新しい宣教シリーズを始めています。新約と旧約聖書から、「わたしはいったい何者であり、何をなして生きる存在であるのか。わたしたちを造られ、生かしてくださっている神様の御心は何であるのか」を聴いてゆきますが、今日までコロサイの信徒への手紙から神様のみ言葉を聴いています。この手紙の学びの中で、イエス・キリストを信じる者は、「キリストに結ばれた者」、主イエス様の十字架の執り成しによって「神様との和解が与えられた者」、「傷のない者」、「咎めるところのない者」とされていること、また、イエス・キリストを通して神様によって闇の力から救い出された存在であることを聴きました。
そして前回は、キリストに結ばれている者は全て、キリストと共に死んだ者であり、そしてキリストと共に復活させられて、神様の恵みの中で生かされている存在であるということを聴きました。もし復習されたい方、ご興味がある方は、教会ホームページの宣教要旨をお読みいただければと思いますが、5節から11節には、キリストと共に死に、キリストと共に復活の恵み、新しい命に与っている人たちが捨てるべきものが記されています。5節と8節を読みます。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。」、「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨て去りなさい」とあります。9節の前半には「互いに嘘をついてはなりません」とあります。10節では、あなたがたの間では偏見や差別があってはいけないということを言っています。これからのものは、神様を悲しませること、神様の御心がこの地上で成就すること、キリストのからだなる教会を建てあげることを妨害することですとパウロ先生は言います。
それではわたしたちは具体的に何をすれば良いのでしょうか。答えは9節の後半から10節にあります。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」とあります。キリスト・イエス様を信じる前の古い性質を捨て去り、キリスト・イエス様につなげられ、このキリストを通して神様から与えられる新しい性質をもって生きなさいということです。
古いものを手に持ったままで、古いものを着たままで、新しいものを受け取ること、新しいものを着ることはできません。古いものを手放さなければ、真新しい祝福を受けることはできません。どうしてでしょうか。それは、わたしたちに差し出されている神様の祝福は聖なるもの、神様の愛であるからです。憎しみや妬みを持ったままでは、この愛を受け取ることができないから。それらのものは神様の愛と共存できないからです。この愛を受け取る時はじめて、わたしたちは神様の助けを受けて神様とイエス様を愛し、隣人を愛し、そして自分をも愛することができます。つまり、神様の愛・憐れみを受けて初めて神様には忠実に、隣人には誠実に、自分には信実に生きることができるようになります。
11節の後半に「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と記されています。「キリストがすべて」というのは、果たしてどういうことでしょうか。それは、キリスト・イエス様がすべての祝福・恵みの出発点であるということです。罪のために神様から遠く離れていたわたしたちが、暗闇の中でもがき苦しんでいたわたしたちが光を見い出し、神様に立ち返ることができたのも、イエス様がこの世の光として、救い主として神様から派遣され、わたしたちのもとへ来てくださったからです。わたしたちがこのように神様に賛美をささげ、礼拝をおささげできるのも、キリスト・イエス様がわたしたちの罪をすべて着て、十字架に付けられ、その十字架の上で流された血潮によってわたしたちを洗い清めてくださり、わたしたちの身代わりとなって死んでくださったからです。そして、このイエス様を神様が死人の中から引き上げ、甦らせて永遠の命への道を開いてくださったから、わたしたちはこの神様とイエス様を礼拝し、心からほめたたえます。このイエス様がおられなければ、与えられなければ、死んでくださらなかったら、甦られなければ、今わたしたちはここにはいないのです。ある人は、存在をもしていないのです。イエス様がいなければ、わたしたちは出会うことはなかったのです。ですから、「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」とパウロ先生は書き記し、喜びと感謝とを持って、この恵みと愛のうちに誠実に生きなさいとわたしたちを励ますのです。
今朝、わたしたちに与えられている箇所は3章12節から17節ですが、ここにはわたしたちが何者であるのか、何をなして生きてゆくことが神様の御心であるのかが記されています。わたしたちは何者であるのか。12節をご覧ください。わたしたちは「神様に選ばれた者」であり、「キリスト・イエス様によって聖なる者」とされた者であり、「愛されている者」であると記されています。13節をご覧ください。そこには、わたしたちは「主に赦された者」であると記されています。次に15節の中程をご覧ください。わたしたちは「一つの体となるべく招かれている者」、つまり「神の家族へと招かれ、その一員とされている者」であると記されています。
ここに記されていることを素直に信じて主の憐れみと恵みを受け取る人は幸いです。今日、この場所で神様の愛を受け取り、イエス様を救い主と信じる人は、ここに記されている救いと恵みと約束を受け取ることができます。そのようなあなたにとっていま重要なのは、10節にあるように、造り主の姿に倣う新しい人を身につけるために、まず自分の罪と弱さを認め、悔い改めるということ、つまり古い自分を脱ぎ捨てるということです。自分を脱ぎ捨て、裸のままの自分を神様にお委ねする時に初めて、神様の愛があなたを覆い、イエス様があなたの衣となって永遠に共にいてくださいます。それが「キリストを着る」ということです。神様が着させてくださるのです。イエス様が衣となってわたしたちを覆ってくださるのです。
さて、神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている人は、新しい性質を身に着けなさいと12節で励まされています。これはわたしたち一人一人に言われていることで、自分には関係ないと言える人は一人もいません。わたしたちが身に着ける性質、それは「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」であります。「憐れみの心」とはどういう心でしょうか。これは許すことと忍耐をもって人に接する心です。人の弱さを受け入れ、それが変えられるのを忍耐して待つという心です。そのように憐れみの心を最初に示してくださったのが神様です。「慈愛」というのは、積極的な親切という意味です。苦しんでいる人や悲しんでいる人を見かけたら、自分の方から歩み寄って言葉をかけたり、何か助けるということです。罪にいるわたしたちを神様が積極的に動いて、イエス様を遣わしてくださり、救ってくださいました。「謙遜」というのは、神様の愛と赦しの中に生きる存在であることをいつも覚えて謙って、いつも低姿勢で生きることです。「柔和」というのは謙遜に限りなく近い性質ですが、その謙遜に「仕える」というメンタリティーを加えたものと捉えることが良いと思います。イエス様は、「人々から仕えられるためではなく、人々に仕えるために来た」とおっしゃいましたが、謙遜な消費者ではなく、神様の愛を自分のものだけにしないで、周りの人におすそ分けする謙遜な提供者が柔和な人と言えると思います。最後に「寛容」という性質ですが、これは「憐れみの心」に近いものとも捉えることもできますが、人の弱さや間違いを消極的に我慢したり、問題を避けることではなく、人々の弱さや痛みをより積極的に受け入れ、忍耐し、寄り添ってともに生きるというメンタリティーを持つことです。イエス様が実にそのようなお方でした。
さて、13節には個人のことではなく、教会の中でのことが記されています。「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」とあります。ここで注目すべき点は「赦す」という漢字です。口語訳聖書はあえてひらがなをここでは使っていますが、新共同訳と新改訳聖書では「赦す」という漢字が用いられています。しかし、わたしたちが互いにゆるしあう時は「許」という漢字を用います。そして神様がわたしたちをゆるしてくださることを示す時は「赦」を用います。ここで「赦す」という漢字が用いられているのは、パウロ先生が伝えたかったことを正確に伝えるためです。つまり、社会の中でゆるす時は「許」という漢字が使われますが、神様の家族、教会の中では自分の力や努力だけでゆるすことができず、まず神様の赦しが必要で、そして介入と助け、励ましがいつも必要なので、神様と一緒にゆるす、神様とイエス様に助けられてゆるし合うということで「赦」という漢字が用いられています。
この赦すこと、互いに忍び合い、受け入れ合うこと、ともに生きることで大切なのが14節に記されている「これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は全てを完成させるきずなです」ということです。わたしたちには、何をするにも神様の愛がいつも必要なのです。この神様の愛が、イエス様が全ての出発点で、その中心であり、最終地点なのです。
「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と15節で励まされています。いま、あなたの心を支配しているものは何でしょうか。イエス様が与えてくださる平和・心の平安ではなく、何かに対する不安であったり、焦りであったり、怒りであったり、不満であったり、貪欲な思いであるかもしれません。あるいは誰かに対する妬み、欲情があなたの心を支配しているかもしれません。しかし、神様はパウロ先生を通して「キリストの平和」があなたがたの心を支配するようにしなさいと言っておられます。「キリストの平和」であなたの心を満たしなさいとは言っていません。「キリストの平和『が』あなたの心を支配するように」、つまりキリストによってわたしたちの心が治められなければ、真の平和・平安はわたしたちの心にはないということです。キリストがすべてであり、わたしたちの心のうちにおられる必要があるのです。
キリストのからだなる教会を建て上げてゆくためにも、イエス様の愛と赦しと平和と助けが常に必要であって、わたしたちの力だけではダメで、主の思いとわたしたちの思いが祈りの中で一つとなるとき、教会は建て上げられ、一つの体とされて行きます。
その過程の中でいつも大切なことは一体何でありましょうか。15節後半から17節に記されていることです。ご一緒に読んでみましょう。「いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い。詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父なる神に感謝しなさい」とあります。この部分は神様への「感謝」とい言葉で始まり、終わっています。何を感謝するか。救い主が与えられ、キリストの言葉が与えられているという恵みです。だからその恵みをちゃんと心に宿らせ、大切にしなさいとパウロ先生は言っています。神様からイエス様という知恵の言葉が与えられているから、感謝しつつその知恵を用いて教会を建て上げなさいということ。心からの感謝と喜びの賛美をもって神様を礼拝しなさいということ。何を話すにせよ、行うにせよ、主イエス・キリストのみ名によって行い、この救い主を通して父である神様に感謝しなさいと励ましをわたしたちは今朝受けています。わたしたちの周りには確かに困難なことがたくさんありますが、それでも主なる神様とイエス様とご聖霊がいつも共にいてくださる。わたしたちは何と幸いな者たちでしょうか。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝して生活する者とされてゆきましょう。わたしたちはその途上になります。主に信頼して従ってゆきましょう。ご聖霊に満たされることを求めてゆきましょう。