主の教えを愛し

宣教要旨「主の教えを愛し」  大久保教会 石垣茂夫副牧師     2019/10/20

聖書:詩編1編1~6節(p835)  招詞:コリント一15章57,58節

 

この朝お開き頂きました詩編は「いかに幸いなことか・・・」と始まっています。

2節と合わせますと、「幸いな人」とは「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」という言葉になります。「主の教え」という言葉は、口語訳聖書では「主のおきて」と書かれていますので、「律法」のことを連想しますが、本来は聖書の言葉そのものを指しています。

従って「幸いな人」とは聖書の御言葉を愛する人だと、この詩人は感動をもって叫んでいるのです。詩人は、聖書の御言葉を愛しているのです。聖書を読むことに喜びを感じているのです。「主の教え」とは、「掟(おきて)」のような重い足かせではなく、むしろ喜びの源泉となっていくものとして語っています。今朝は第1編から、人生の方角をはっきりと示す詩編の心、詩篇が目指すところを、ご一緒に味わうことが出来れば幸いです。

詩篇1編の2節に「口ずさむ」という言葉があります。

「口ずさむ」とは低く小さな声で歌うことですが、必ずしも声にならない心の底に潜む声を含んでいます。言葉で神に問い掛け、時には呻(うめ)くようにして問い掛け、神に答えていただく、そのようなわたしたちの生活を言っています。詩人は聖書を読むことに喜びを感じ、御言葉を口ずさむことを続けているのです。そのようにしてきたことで、やがて御言葉は、神の言葉として力を持ってきます。具体的には、礼拝する生活であり、わたしたちの教会に結ばれた生活が大切だとこの詩人は伝えようとしています。

 

しかし、この詩人が意識しているもう一つのことは、喜びの前に立ちはだかる、大きな問題です。1節と、また4節、5節には「神に逆らう者」「罪ある者」「傲慢な者」と、三つの人のタイプが言われています。神を知らない人やバプテスマを受けていない人のことを言っているのでしょうか。そうではなく、むしろバプテスマを受けた人が、主の教えを愛し、御言葉にふれて信仰を養われていないならば、信仰は衰えて、そうした姿になると言いたいのだと思います。そのことが冒頭で強い否定形をもって語られています。

神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず

この1節には興味深い動詞、歩む・とどまる・座るとの三つの動詞が使われていますが、この順番は人間が悪に向かって行く度合いとその深まりを表わしています。

「歩む」とはどこかに向かって真っすぐ歩くことではなく、「行ったり来たりすること」です。

「とどまる」とは、悪の道をまねたり、悪の立場に踏み込んでいく状況を言っています。

「座る」とは、自分がそこにどっぷりと身を置いているばかりか、歩んでいる人とどまっている人をも誘い、神をあざ笑うほどの立場になったことを意味しているのです。

正しくあろうとする私たちがいます。同時に、罪あるものに転落しかねないわたしたちがいます。そのどちらかという事にはならず、その狭間で苦しむのがわたしたちです。

 

3節は「主の教えを愛する者の道」、それがどれほど祝福に満ちたものであるかがうたわれています。“主の教えを愛するその人は流れのほとりに植えられた木”、3節はとても美しい言葉だと思います。

「流れのほとり」とは流れる川ではなく、人の手によって人工的に作られた水路です。従って「植えられた木」も、人の手によって植えられた並木のような樹木の事です。

このみ言葉は、人の手による、「主の教え」に向けた、人間の努力が語られています。

「主の教え」を聞こうとする人は、そのみ言葉に向けて、自分で水路を掘るのです。そして自分自身を、敢えてその流れのほとりに植えて立つのです。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」そのような人であろうとして、自分で努力していきます。

ここに集っています多くの方は、一般の人から見れば、礼拝という習慣を持っています。主の日の朝、礼拝で神の御前に立ちます。そのためには、自分自身の努力が必要になります。礼拝に身を置くための戦いは、日々お互いの生活の中でいつも続けられています。水路を掘り、そのほとりに自分を置くという努力を、粘り強く日常的にわたしたちはしています。

しかし、自分が努力して水路を掘り、そこに自らを植えたとしても、期待通りの実を結ぶとは限りません。そのため、なぜですか、なぜですかと問いたくなることも起きてくるのです。

そのような、思い通りにならない現実があっても、詩人はその人のすることはすべて、繁栄をもたらすと、大胆にも「繁栄をもたらす」と宣言して3節を結んでいます。

なぜそのように断言できるのでしょうか。終りにそのことをご一緒に考えてみたいと思います。

ある研究者は「信仰者は、自分の正しさや愛が当然報われるのだという、安易な望みを捨てなければならない。そうでなければ結局、自分の正しさや愛は、計算づくのこと、これをしたら得することになるかもしれないという打算になってしまうのではないか。」と言っています。

わたしたちはそのことを克服できるのでしょうか。

6節に「 神に従う人の道を主は知っていてくださる。」という言葉があります。

「終りの日、ゴールを信じる」のは、私たちの生活が、自分のためでなく、神さまの栄光を現わすことになると信じるからです。この事をわたしたちに先立ってなさったのがイエス・キリストです。しかしわたしたちは、イエスさまのように、自分を無にすることは出来ません。しかし、そのようなわたしたちを「主は知っていてくださる」のです。

神は、神を信じ、主イエスに従う人生が、たとえ労苦の多い人生であっても、「神に逆らう者」「罪ある者」「傲慢な者」となることを望んでおられません。希望を持って主の業に黙々と仕える事が出来るように励まして下さいます。

わたしたちはこの朝、本当の明日(あした)を確信して歩み出したいと思います。キリストに結ばれ、「キリストの日」に向かって歩んでいきましょう。そのためにも、この一週の日々が、希望を持って歩む一日一日となりますよう、祈りましょう。