広い心を持つ者とは

「広い心を持つ者とは」  十一月第二主日礼拝  宣教 2019年11月10日

 フィリピの信徒への手紙4章1節〜7節        牧師 河野信一郎

 「わたしはいったい何者であるのか」というテーマで神様のみ声に聴いてきていますが、今朝は、フィリピの信徒への手紙4章1節から7節を通して、特に5節のわたしたちは「広い心」を持つべき存在として救われ、生かされている者であることを共に聴き、感謝し、そしてこの「広い心」を用いてどのように生きてゆくべきかを探ってゆきたいと思います。

まず1節をご覧ください。この手紙を書き送ったパウロ先生は、フィリピの教会の信徒たちに対して、「わたしが愛し、慕っている兄弟姉妹たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい」と励まします。この短い1節に、今朝心にとどめるべきことが二つあります。

一つは、パウロ先生はフィリピに生きるクリスチャンたちを「わたしの喜びであり、冠であり、愛する人たち」と言っている点です。第2回目の伝道旅行の際に初めてこのフィリピという土地を訪れ、キリストの福音を語って伝道しましたが、その福音の種まきが多くの実を結び、パウロ先生のその後の働きを積極的にサポートしたのがこのフィリピ教会の兄弟姉妹たちで、パウロ先生には愛おしくて仕方のない大切な教会でした。「冠」というのは競技の勝利者に与えられた花の冠を示すものですが、フィリピでのパウロ先生の伝道は虚しく終わることなく、素晴らしい勝利を得たかのような実りが多く与えられ続けていることを確信した大きな喜びと感謝・感動を表す言葉です。

もう一つは、パウロ先生がこれから勧める事柄は、あなたがたの力だけではなし得ないということをしっかりと知らしめるために「『主によって』しっかり立ちなさい」との励ましです。確かにわたしたちは自分でもしっかり立てると思っています。しかし、パウロ先生がここで言わんとしていることは、「自分に対して過信しない、また過度のプレッシャーをかけない。同時に、人にも過度な期待をしない、互いに過度なプレッシャーをかけ合わないで、いつもそばにいてくださる主イエス・キリストに委ねつつ、より頼みつつ、主の声に聞き従い、しっかり立ち続けなさい」ということです。わたしたちの限られた知恵と力だけで物事を成し得ようとする時、それぞれには様々な思いや感情がありますから、意見が合わなくなったり、気持ちに摩擦が起きてしまい、ストレスが加算され、心が縮こまってしまい、神様の喜ばれることを行うことは決してできないということです。いつも「主によって」しっかりと歩み続けなさいという励ましです。

さて、2節を読みますと、フィリピ教会の兄弟姉妹たちにどうしても協力してほしいことことがあるとパウロ先生は書き送っています。それは教会員同士の対立を解消し、主による平和をもたらすことです。ここではエボディアとシンティケという女性二人の対立があったようですが、対立というのは、男性同士でもありますし、性別が関係ない対立もありますし、牧師と信徒の対立ということもあります。(大久保教会ではありません。笑)また、そういう対立が各方面に飛び火し、教会内でギクシャクした関係が起こり、互いの存在を感謝し、喜び合うことのできない状態になることもあります。実際にそういうことがフィリピの教会ではあったようです。

しかし、3節後半を読みますと、この二人の女性たちは、「福音のためにパウロ先生と共に戦ってくれた人たち」であったということが分かります。彼女たちは「福音のため」という同じ目的を持っていましたが、年齢、経験の差、価値観、性格の違いなどによって、物事への取り組み方、アプローチの仕方が違って、「福音のために」一緒に取り組んだことの中で、残念ながらギクシャクした関係性へ発展し、さらに対立という残念な形に発展してしまったということも考えられます。本日も、女性会、執事候補者選考委員会、執事会と話し合いの場が持たれますが、みんな主のために、教会のために、福音の前進のために話し合うのですが、先ほど言いました様々な意見の違いでストレスを抱えるということが出て来るかもしれません。そういう時に、わたしたちはどうすれば良いのでしょうか。

現代では、電話やラインで有る事無い事が噂話として飛び交うのでしょうが、当時はそのようなものは無かったものの、一人でも多くの人を自分側に味方につけたいという囲い込みなどがあったかもしれません。パウロ先生は、この二人の女性に対して、ここでも「『主において』、同じ思いを抱きなさい」と勧められています。

「真実の協力者よ、あなたにもお願いします」とありますが、この「真実な協力者」がいったい誰であるのか分かりませんが、二人の間をとり持つことのできる人が存在していたということは分かります。「偏った考え、感覚を持たず、しっかりとした常識を持ち、どちらに対しても平等に向き合い、誠実に生きられる人」が協力者、支える者として備えられていることは感謝なことではないでしょうか。そして、この「真実な協力者」とは、わたしたちのことを言っており、そのような人として生きることが主から求められていると思います。

ではストレスを感じず、対立も回避し、主にある平和の中で共に生き、共に主と人々に仕え、互いのために生きるために、わたしたちに必要なことは果たして何でしょうか。その答えが4節以降に記されていると思いますので、ご一緒に読み進めてゆきましょう。

まず、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」とあります。これがファーストステップです。これはわたしたち大久保教会の今年度の目標の一つでもあります。互いの存在を喜び、感謝するということです。確かに生まれも育ちも全く別々なわたしたちです。違いもたくさんあります。受け入れがたいこともあるでしょう。一人でいる方が楽だと感じることもあるでしょう。でも、主なる神様がわたしたちを集められ、共に生きなさい、あなたは一人では生きられない存在だ、一人ではわたしの求めていることはできない、みんなで一緒に生きなさいとの思いがおありなのです。ですから、主の憐れみの中で導き、出会わしてくださった兄弟姉妹を感謝し、喜び、主イエス様がわたしたちをそのまま受け入れてくださったように受け入れて行くのです。それがキリストのからだなる教会だと信じます。

次の5節に「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい」とあります。「広い心」とは何でしょうか。他の聖書訳では「寛容」、「寛容な心」と訳されていて、面白いことに31年ぶりに新しく発刊された「聖書協会共同訳」も「寛容な心」にしています。でも、「広い心」ってとっても良い言葉だと思いませんか。わたしは心が惹かれました。では、この「広い心」とはどういう意味なのでしょうか。「寛容さ」の他に、「親切、優しさ、穏やかさ」という意味を持つ「ジェントルネス」という英単語がここで用いされていますが、ギリシャ語の単語を見ますと「道理をわきまえたこと、妥当なこと、適正なこと」という意味のある言葉が用いられています。「道理」とは、「人が行うべき正しい道」、また「物事のそうあるべき筋道」ということですが、つまりわたしたちの考えや感覚でというよりも、わたしたちを救い、生かしてくださる神様の御心をわきまえた、神様の愛をわきまえ、神様を拠り所とした優しさ、親切、穏やかさ、寛容さを人々に示しなさいということになるでしょうか。

多分、そういう流れで大丈夫だと思いますが、では「神様の御心をわきまえ、神様を拠り所とした優しさ」とは、いったい何かということになりますが、学びをしてゆく中で興味深いことがわかりました。聖書の他の箇所でこの「広い心」という言葉に訳されている箇所がありました。それは第二コリントの10章1節の後半です。新共同訳聖書ですと336ページの上の段です。「このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」とあります。つまり、この「広い心」というのはイエス・キリストの心ということになります。すごいと思いませんか。

では、イエス様の心とはどのような心であったでしょうか。色々な側面から言えるのですが、この「広い心」という言葉が聖書や他の文献でどのように用いられているかがカギとなります。そしてこの言葉が用いられる時・シチュエーションに共通するのが、仕返しや報復を受ける時ということです。普通、優しく接したら、喜ばれ、「ありがとう」と言われますが、そうでない時があります。良かれと思って優しい言葉をかけたり、心を配ったつもりでも、相手から嫌味を言われたり、あげたものが投げ返されたり、つまりこちらの愛や優しさが拒絶されるということがあります。

イエス様は、救い主としてこの地上に来てくださり、神様のことをたくさん教えてくださいましたが、ユダヤ人をはじめ多くの人から拒絶され、十字架につけられ、殺されました。しかしそれはすべてわたしたち人間の罪をすべて背負って、その死をもってわたしたちの罪の代金をすべて支払ってくださるため、わたしたちを救うためでした。本当は感謝されるべきなのに、拒絶され、憎しみの報復を受けられました。しかし主イエス様はそれでも「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と神様に執り成しをしてくださいました。これが「広い心」です。この心をあなたがたも持ちなさいと励まされているのです。

しかし、「わたしにはそんな力など、信仰などない」とわたしたちは感じて落ち込みます。しかし、そのようなわたしたちのために、すぐ近くに主イエス様がおられるのです。5節の後半でパウロ先生もそのように言っておられます。主が、共にいてわたしたちを励まし、日々造り変えてくださり、主にある「広い心」、どのようなことがあっても主の愛に生き、主の愛を分かち合う心、主のようにどのような時も「仕える心」を与えてくださるのです。わたしたちにできないことはすべて神様と主イエス様とご聖霊にはできるのです。この三位一体の神様を信じる恵みへとわたしたちは招かれているのです。

だから、6節と7節にあるように、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」という主の励ましと約束があります。この愛を信じ、喜び、心から感謝しましょう。そうすることから心が様々な思い煩いから解放され、心がリラックスし、「広い心」が与えられてゆきます。すべて神様の愛、憐れみです。主をほめたたえます。