見よ、兄弟が共に座っている。

宣教要旨「見よ、兄弟が共に座っている。」大久保教会副牧師 石垣茂夫  2019/11/17

招詞:詩編133編1節   聖書:創世記25章19~34節(旧約p39

招詞で詩編133編を読んで頂きました。この詩の詠(よ)み手がいるのは神殿の中です。長い巡礼(じゅんれい)の旅を終えて、ようやくエルサレム神殿の礼拝の席に座っています。周りを見回すと、自分と同じように、国のあちこちからやって来た巡礼者たちが座っています。皆、一つ方向を見ています。一つになって、同じ信仰を持って礼拝をささげています。詩人はこの様子に感動し「ここには、神が愛し、神が守り、神が養う神の民がいる。自分もその一人だ」と、今、捧げられている神殿の礼拝に、神さまの恵みを覚え、喜びに満たされています。込みあげてくる喜びで思わず、 見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」と詠(よ)んだのです。

 

ところで、水を差すようなことですが、聖なる書物、聖書に登場する兄弟の仲はよくありません。幸いな様子はどの兄弟についても語られておらず、みな、兄弟間の苦悩を語っています。

アブラハムの子イサクには、双子(ふたご)の兄弟が与えられました。兄のエサウは狩人(かりうど)であり、日ごろから野山を駆け回る野の人、自由な生き方の人となりました(25:27)。自由と言っても、勝手な生き方をしていたのではなく、父イサクのため、家族のために危険を冒して獲物を求めて野を駆け回っていたのです。

弟ヤコブは、「天幕の周りで働くのを常とした穏(おだ)やかな人(25:27)」と紹介されています。家の周りの仕事や、母親の手伝いをしていたのかもしれません。日頃のヤコブは、兄のような性格はいいな、あのような生き方ができたらいいなと、羨(うらや)ましく思っていたのかもしれません。

いつしかヤコブの心がよじれてしまい、兄の持つ「長子(ちょうし)の特権(とっけん)」を奪(うば)い取ろうと思うようになりました。この背景には、母親の強い影響があったと書かれています。兄の性格をよく知っているヤコブは、ある日のこと策(さく)をめぐらし、「長子の特権」を奪い取ってしまいます。これを知ったエサウは大泣きして悔しがりますが、この日から、取り返すことの出来ない事態になっていきました。

兄のエサウはどうしたでしょうか。エサウは、親に対するあてつけの様にして、異邦人の妻を迎え、やがて国を出て行き、長年に亘ってイスラエルとは敵対する関係になっていきました。

弟ヤコブの妻となったレアとラケルの姉妹はどうだったでしょうか(創29~30章)。実の姉妹でありながら、互いに駆(か)け引(ひ)きし、妬(ねた)みあう間柄(あいだがら)になって、ヤコブを苦しめました。

 

聖書は、人間の関係というものは、近ければ近いほど難しいと言おうとしているようです。「人間」という意味のアダムが罪を犯してからは、アダムとエヴァの関係は言うまでもなく、すべての人間の関係というものは、その最も近い所でうまくいっていないと、創世記は語って行きます。真(まこと)にがっかりさせられるような物語が、これでもかこれでもかと、繰り返して語られています。聖書は、人間とは希望の無い悲しいものなのだと言っているようにさえ思えてきます。今朝はそのような、「なぜ」と問いたくなるような、聖書が物語る特質を、ご一緒に考えているのです。

エサウとヤコブに起きたことは、自分こそがまず祝福されたいという思いから始まっています。人間世界の歴史を振り返るまでもなく、今なお「長子(ちょうし)の特権(とっけん)」を得ようとする国家間の争いは、現在に至って、一層激しく繰り返されています。共同体とは、このような互いの対抗心、もしくは競争心の上に建てられていると言ってもよいのでしょう。これは極めて不安定な基礎の上に建てられているのであって、崩壊(ほうかい)するのではないかという、心配が尽きないものです。もし、今、うまくいっているのなら、極めてラッキーなのだと言うしかないのでしょう。

しかし互いに対立して生きる人間は、対立しながらも一人では生きて行くことは出来ないのです。人類が生きぬいて来たのは、他の生き物に比べて、共同で生活して来たからだと言われています。対立しながらも、共同で生活することで、今日まで生き抜いてきた、これが人間です。とても不思議なことです。こうした人々が集まって、教会で礼拝が捧げられるうえで、根本的に重要なのは、特定の人の頑張りではありません。重要であり、必要なのは、教会員お一人お一人が礼拝を守ろうとする信仰と努力です。

 

そしてなお重要なことがあります。「トラブルなく人々が共にいるから幸い」とおもいがちですが、これでは本物ではないのです。詩人はこの事をよく知っていました。こじれた人間関係がどれほど人生を辛(つら)くさせるものか良く知っていました。そうであれば、なによりも、一層、そうした兄弟姉妹たちこそが神さまの前に座っている、礼拝をしている、このことが、大きな幸いに繋(つな)がると言いたいのではないでしょうか。

詩人をはじめ神殿の人々は、バビロン捕囚という歴史的な悲劇を乗り越え、今、神殿が再建され、喜びの礼拝をしています。これはわたしたちのことでもあります。世界中のどの国でも歴史的な悲劇を経験していない国はありません。その歴史的な悲劇を乗り越えて、神さまは恵みを回復してくださったのです。この神の恵みによって人の罪が赦され、共に集う事が実現し、礼拝が捧げられているのです。これは当たり前のように思えるかもしれませんが、詩人はこの当たり前の中に、神さまの大きな恵みを認め、感動して震(ふる)えるような思いで感謝をささげています。

わたしたちには救い主が既に与えられています。主キリストによって罪は赦され、神の愛が注がれています。神も、救いも、全く知らなかったわたしたちお互いが、福音を聞いて喜び、救い主を賛美しているのです。この恵みを忘れてはいけないと思います。

日曜日の朝、わたしたちが礼拝の席に座ることが出来るのであれば、それはほかでは得られない恵みです。この恵みを喜びましょう。互いに重荷を担い合いましょう。全ての人はキリストに愛され、赦されています。この、愛と赦しを互いの間で生かし合いましょう。この時はじめて、真実の兄弟姉妹になるのです。

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

この事がわたしたちの間で本当の事になるように、祈りつつ歩ませて頂きましょう。