「満たしてくださるお方、満たされている者」 十一月第四主日礼拝 宣教 2019年11月24日
フィリピの信徒への手紙4章10節〜20節 牧師 河野信一郎
今日から来週の日曜日までの8日間、世界バプテスト祈祷週間として過ごします。世界中のバプテスト教会では、この期間、世界宣教の働きのために、キリストの福音が世界の隅々まで行き渡るように祈ります。先ほどのお話にもありましたように、アメリカでは、ロティー・ムーンという中国への宣教師を記念して世界宣教のために献金をささげます。この献金がこの日本にも70年以上用いられて来ていて、わたしたちの教会でも協力くださる敬愛する裵讃植宣教師と明錫宣教師ご夫妻はアメリカの南部バプテスト連盟の宣教団から派遣されています。大久保教会は、伝道所の時代1950年代から今日に至るまで、この祈祷週間の祈りと献金の恩恵をずっと受けてきている教会です。
もし皆さんが、この大久保教会を通して神様の愛と赦しを受けていたり、あるいは何らかの恵みを受けておられるならば、すべての賞賛と栄誉と誉れは神様とイエス様にささげられます。イエス様がわたしたちの罪を肩代わりして十字架に死なれ、父なる神様がこのイエス様を死人の中から引き上げ、甦らせてくださらなかったら、神様の愛は完成することなく、教会も生まれることなく、福音がエルサレムからこの日本まで届くこともなく、私のようにこの世界に存在し得ない方も他におられるでしょうし、イエス様を通して神様とその愛につながることもなかったでありましょう。わたしたちが受けています神様の愛、赦し、セカンドチャンス、平安、希望はすべて神様からの恵みです。
今朝、わたしたちは、フィリピの信徒への手紙4章10節から20節を通して、神様と主イエス様は、わたしたち一人ひとりの必要を満たしてくださるお方であり、わたしたち一人ひとりはイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、神様の愛に満たされている存在であることを知り、あるいは再確認し、喜びで満たされ、神様とイエス様に心からの感謝をささげたいと思います。
今日の箇所は、使徒パウロがフィリピ教会の兄弟姉妹たちから託された贈り物をフィリピ教会の教会員エパフロディトから受け取り、大いなる喜びと感謝に満たされたことを綴っているところです。このフィリピ教会というのは、パウロ先生の第二回の伝道旅行の時にマケドニア、つまりヨーロッパで最初に誕生した教会で、誕生してからずっとパウロ先生の伝道活動を経済的に援助して来た教会です。しかし、パウロ先生がローマに捕らえられていると聞き、このエパフロディトに贈り物を持たせて、慰問するためにローマへ派遣しました。自分の命が今日の夕方まであるか、明日まであるか分からない、そういう獄中生活を送りながらでも、このようにフィリピの兄弟姉妹たちに対する感謝の気持ちにあふれ、大きな喜びに満たされていたということは驚くべきことです。パウロ先生はどのようにしてこのような喜びと感謝で満たされ、維持することができたのでしょうか。
とっても興味深いことではないでしょうか。なぜならば、わたしたち一人一人も、喜びや感謝、平安や希望に満たされたい、生きてゆくために必要なものが与えられて、それらで常に満たされていたいといつも願っているから、渇望しているからです。自分や家族の健康、充分に生活できるだけの富や経済的な力、生活の質の向上、将来のためのセキュリティーなど、わたしたちが求めているものは数え切れないほどあります。
しかし、自分の命が明日まであるか分からない、2020年という新しい年を迎えられるかどうかも分からないような状態に置かれるならば、わたしたちは数え切れないほどの求めているものの中から、本当に必要なものだけを求めてゆくのではないでしょうか。わたしたちに本当に必要なものは何でしょうか。あなたに必要不可欠なものとは一体何でしょうか。そういう視点を持って読んでゆかなければならないのが、今朝の箇所であると思います。
ご一緒に10節から読んで参りましょう。このようにあります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」とあります。ちょっと判りづらいですね。新改訳聖書では「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、今ついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜んでいます。あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです」と訳されています。英語ではあなたがたの心が「リニューされた」となっています。つまり、再び新しくされたということです。パウロ先生を援助したいという強い思いがあっても、そのチャンスが中々ない状態で、その思いが低くなっていたのだけれども、パウロ先生が捕らえられてローマで獄中生活をしていると聞いて、フィリピの教会の兄弟姉妹たちの心が再び燃え上がり、このチャンスを逃すわけにはいかない、絶対にパウロ先生を支えるという一つの思いにさせられたようで、その心をパウロ先生は何よりも喜び、神様に感謝したのです。
わたしたちの教会に、世界の果てでキリストの福音を宣べ伝えている働き人たちを覚えて祈り、献金をもって支援するチャンスが訪れました。この教会は福音を宣べ伝えてくれた方々の愛と忠実な働き、世界中の主にある兄弟姉妹たちのお祈りと献げてくださったものの上に建てられ続けています。このチャンスを逃すわけにはいけません。そうではないでしょうか。
パウロ先生は、11節で「物欲しさにこう言っているのではありません」と言っています。明日の命も分からない中で、お金や物を欲しいから言っているのではなく、「あなたがたの優しい心が欲しい。わたしにはその優しさ、寛容さが今必要だ」というようにも聞こえて来ます。皆さんは、どのようにお感じになられるでしょうか。
さて、11節の後半でパウロ先生は「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と言っています。「自分の置かれた境遇」とは、キリストの福音のために投獄され、死を待つ者とされているということです。しかし、そのような厳しい状態の中で、「満足することを習い覚えたのです」というのです。
もしわたしが同じ境遇に置かれたならば、恐怖のあまりパニックになってしまうでしょう。平常心など保てないでしょう。しかし、パウロ先生はそのような境遇を受け入れ、そしてそれに満足する術を習った、そして覚えたというのです。誰からその術を習い、どうやって覚えたのでしょうか。ヒントが12節に記されていますので、目を止めたいと思います。
「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」とあります。ここで注目すべきは「対処する秘訣」という言葉と「授かっている」という言葉です。よろしいでしょうか。パウロ先生には受け入れ難い境遇を受け入れ、それに対処し、それにも満足する「秘訣」を知っていて、それを信じ、実際にその秘訣を行なっていたということです。
そして、その「秘訣」は授かったものだということです。一体誰がパウロ先生に授けたのでしょうか。その答えが13節にあります。ご覧ください。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」とあります。パウロ先生を強めてくださる方は、神様であり、主イエス・キリストであり、ご聖霊、三位一体の神です。この神様からパウロ先生はいついかなる場合にも対処する秘訣を授かり、自分の置かれた境遇を受け入れ、たとえ苦しく辛くとも、精神的にも肉体的にも苦痛であっても、心が喜びと感謝で満たされ、満足する術を持ち、それを屈指していたのです。
それでは神様からパウロ先生に授けられた「秘訣」とは一体何であったのでしょうか。それはどのような時にも片時も離れずに共にいてくださる主イエス様を信じる、この救い主から決して目を逸らさない、主の声に聞き従う、そして主に喜びと感謝の賛美をささげ続けてゆくということです。いつも共にいてわたしたち一人ひとりを強めてくださるイエス様を信じるということに尽きます。
パウロ先生は、フィリピの教会の兄弟姉妹たちに対して、「わたしを強めてくださるお方はあなたがたと共におられます。だから、あなたがたはわたしがいなくても大丈夫です。心配しないで、主なる神様に信頼し続け、常に主を見上げて歩み続けなさい。主が共にいてくださるので、わたしにはすべてが可能であるように、あなたがたにもすべてが可能です」と励まし、今日を生かされているわたしたちをも励ましているのではないでしょうか。
14節に「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」とパウロ先生の言葉がありますが、「今まで本当にありがとう。一緒に福音を伝える働きを担い続けてくれてありがとう。心から感謝しています」というパウロ先生の強い感謝の気持ちがこの言葉に込められているのではないでしょうか。わたしたちは、全世界に出て言ってキリストの福音を宣べ伝えてくれている人たちにどれだけの感謝を表しているでしょうか。
15節から16節を読みます。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教を初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。」、「本当にありがとう」というパウロ先生の気持ちが表れています。
17節。わたしがそのように感謝しているのは、「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」との言葉があります。「わたしが感謝し、あなたがたに望んでいるのは、これ以上のわたしへの贈り物ではなく、わたしがこの世を去っていなくなっても、あなたがたが今までと変わらずに、これからもキリストの福音の種まきをしている働き人たちを支援し続け、良い実を豊かに結び続けることです。あなたがたのその愛と祈りの支援が、その忠実な働きが周り巡ってあなたがたの益となる時が必ず来るから、主に信頼して歩みなさい」と言う励ましの言葉だと聞こえて来ます。
フィリピの教会の献金は、「香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」とパウロ先生は18節の後半で言っています。わたしたちのささげるものは、神様がイエス様を通してくださる恵みへの感謝と喜びであり、また神様への信頼の証です。義務とか、責任とか、仕方のないことではありません。もしそのように思うならば、あなたには、私たちには満たされていない部分がまだあるということかもしれません。しかし、わたしたちに必要なのは、先にも後にも、ただ主イエス様だけなのです。
神様を信頼してゆくとき、どのようなことが起こるでしょうか、19節をご覧ください。この神様は、「御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」とあります。これは約束であり、すでに受けている恵みです。心から感謝です。20節。「神様に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」