神さまの大冒険

宣教要旨「神さまの大冒険」聖書:ルカ福音書26~16節 招詞:イザヤ書651

大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫 2019/12/15

 

アドヴェント第三主日の礼拝を迎えました。「アドヴェント」は、英語の「アドベンチュアー・冒険」(adventure)の語源となった言葉です。ラテン語で、「来る」、「出かけていく」という意味です。神さまが「人の子」となって、天からわたしたちの所に「来る」ことを言っているのだと、改めて思わされています。

神さまはご自分の独り子を地上に送るという、極めて危険な「大冒険」をなさって地上に来られました。今朝はそのようなことを、ご一緒に考えてみたいと思います。

「神さまの大冒険」は、最初にヨセフ・マリアという、名もない若い二人の、とても重い決断に委ねられて地上に実現しました。この事自体が、危険を伴う「神さまの大冒険」でした。何のためにそのようなことをなさるのか、それは「自分の民を罪から救うため」(マタイ1:21だと、天使は若い二人に告げました。

自分の民とは誰の事でしょうか。わたしたち始め、世界中の人たちのことです。マタイの系図に登場する人物に共通する一つの事は、皆、「神を知らない者、神を知っても、神に背く人々」であったという事です。神は何よりもこの事に心を痛め、苦しまれたのです。その苦しみから、世界中の人たちを救うための大冒険をなさいました。

この若い二人も苦しみましたが、やがて、ご自分を無にして、人間の中に飛び込もうとされる神の苦しみと決断に圧倒され、委ねられたことを受け入れていきました。

そして神の子の誕生の知らせは、二人と同じように、人々が普段相手にしない羊飼いたちに、最初に伝えられました。なぜ、ヨセフ・マリアなのか、なぜ羊飼いたちが選ばれたのか、毎年、繰り返してわたしたちはこのアドヴェントを過ごす中で思いめぐらしています。ヨセフ・マリアに役目があったように、羊飼いたちにも託された役目があったのです。

今朝は「ルカによる福音書のクリスマス」、その一部をお読み頂きました。

夫のヨセフは、ナザレから、身重の妻マリアを伴って、住民登録のため、自分の故郷であるベツレヘムに約150キロの道のりを徒歩で旅しました。よほど混雑していたのでしょうか、貧しく若い夫婦が泊めてもらえるはずの宿には部屋がなく、馬小屋に泊るということが精いっぱいでした。そして、思いもよらなかったことですが、母マリアはそこで出産しました。「生まれた子は馬小屋の飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:7)と書かれています。ある文書には、これは当時の習慣であったと書かれていました。元気に育つようにと願う、ほほえましい習慣であったのかもしれません。この夜、宿の主人や周囲の人たちに助けられて、ヨセフとマリアは無事に幼子の誕生を迎えることができたのです。神さまの冒険の第一の難関は突破されました。しかしこの子が神の独り子だと、その誕生で、いったい誰が確信できたでしょうか。

わたしには、その子が何者なのか、ヨセフ・マリアという若い夫婦にとっても、まだ確信には至らなかったと思えるのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。

8節には、「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。その羊飼いたちについて、聖書の情報は少ないのですが、経済的にも貧しい階層の仕事であり、羊のにおいの染み込んだ粗末な服を着ているために、町の人の中には入れなかったことでしょう。成人しても一人前の人として扱われず、安息日になって会堂の礼拝に行く事も出来ずにいる、まことに厳しい仕事であり生活でした。そうした羊飼いたちが、「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった(2:11)」と言われたのです。かれらは「俺たちには関係ないよ」と、このとき無視することも出来たことでしょう。

この夜の、この出来事は、これまでのお話から、羊飼いたちがいつもの仕事をしていた時の出来事であったことが分かります。そうした日常の中で、神の言葉を聞く機会が与えられたと捉えることが出来ます。こうした例は、聖書にたくさん見ることが出来ます。

モーセの事を思い返してみますと、モーセは羊の群れを飼っているとき、神との出会いを経験しました(出3:11)。このようにして今も、「神さまの冒険」は「わたしたちの」の日常生活の中に繰り返しなされているのではないでしょうか。

ルカの羊飼いたちは、いつもの仕事の最中に、恐れを伴う天からの輝きとして、神と出会うという経験をしたのです。羊飼いたちには、何の準備もありません。またなんら覚悟もしていない日常の営みの中で、突然、天からの輝きと神の御言葉に接したのです。たとえようもないほど、恐れ驚いたに違いありません。しかし、「恐れるな」と語りかけられる言葉に耳を傾けながら、彼らの心は次第に変わって行きました。わたしたちの何気ない日常の中に、神の言葉は響き続けています。そのお言葉を聞き逃さないようにしましょう。

わたしは、この羊飼いの行動が重要な意味を持っていたと、この朝導かれています。

「話し合った」、これは、彼らが互いに励まし合っていることを示しています。互いが、今起きていることを確認し、励まし合いながら神の言葉に応えて立ち上がろうと話し合ったのです。この態度こそが、今の私たちに求められている行動でもあります。

馬小屋にいたヨセフとマリアは、この羊飼いたちの訪問をどのように受けとめたのでしょうか。生まれた子について二人には、まだ「神の子」としての確信があったとは思えません。しかしこの突然の羊飼いたちの訪問と、彼ら羊飼いに起きた出来事を聞くことによって、ヨセフとマリアの確信が深まったのは間違いないことでしょう。

この様子はマタイ福音書に描かれているエルサレムの人たちとは全く対照的です。祭司長たち、律法学者たち、そして町の人たちも、救い主についての知識を充分に持ちながら、動こうとしなかったのです。彼らは「救い主誕生」の知らせに、少しも心動かされることなく、喜びも湧いて来ませんでした。それだけに羊飼いたちの応答の素早さ、誠実さ、真剣さに心打たれます。わたしたちは今朝、この羊飼いに導かれましょう。

「今日も礼拝に出て、神のみ名をほめたたえよう」そのように互いに語り合い励まし合いましょう。そのように、互いに励まし合う信仰の仲間つくりのために、細やかな心を用いることはわたしたちの信仰の歩みにとって大切な事です。

招詞:イザヤ書651

65:1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/

わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。

わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。

「赤ちゃんを、人の腕の中に送る」それほどの冒険をし、人間を信頼し、愛して下さる神の思いを受け止めて、このアドヴェントのときを過ごし、クリスマスを迎えましょう。