「『祝福されよ』と招く神」 元旦礼拝 宣教 2020年1月1日
エレミヤ書17章7〜8節 牧師 河野信一郎
新年 明けましておめでとうございます。皆さんと共に2020年の元日の朝を過ごし、神様とイエス様に賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。今年もどうかよろしくお願いいたします。
今日から始まります2020年は、オリンピックイヤーと呼ばれていますが、正確にはオリンピック・パラリンピックイヤーです。東京近郊と札幌でオリンピックとパラリンピック競技大会が行われます。この夏は、オリンピックとパラリンピックの競技を観戦に日本国内からだけでなく、海外から大勢の旅行者が日本を訪れると思います。たぶん、この教会にも大勢の方々が礼拝者として訪れるのではないかと思われます。わたしたちは、そのような方々をどのようにお迎えしましょうか。笑顔をもって迎えることが大切だと思いますが、それ以外にどのような「おもてなし」がわたしたちの教会にできるでしょうか。英語はどうにか対応できますが、英語圏以外の方々にはどのような「おもてなし」ができるでしょうか。そういう部分が少しだけ不安ですが、そういう部分は神様にお委ねしたいと思います。おもてなしに関して皆さんに良いアイディアがもしございましたら、どうぞお教えてください。
さて、この「パラリンピック」という言葉ですが、多くの人がこの「パラリンピック」という言葉の本当の意味を知らないとのことです。また、「パラリンピック」の「パラ」の意味を、下半身不随を意味する「パラプレジックスparaplegics」という言葉から来ていると思っている人も英語圏では多くいるそうですが、この「パラリンピック」という実際の名称は、イギリスに住んでいたユダヤ人ルードウィッヒ・グットマンという人のビジョンに基づいて付けられたという説が有力です。
この「パラ(Para)」という部分はギリシャ語の前置詞で、「並んで立つ」という意味があります。つまり、スポーツを愛し、練習に努力を重ね、競技では自分のベストを尽くすという気持ちは、健常者のトップアスリートも障がいを持つトップアスリートも同じ、「対等」であるという意味を持っているそうです。ですから、わたしたちもオリンピック競技とパラリンピック競技は対等であるという認識を常に持つことが大切だと思います。
先週22日のクリスマス・夕礼拝に、車椅子に乗られた男性の方が、奥さんでしょうか、女性と一緒に出席され、昇降機に乗られてこの礼拝堂に上がられました。昇降機に初めて乗ったと言っておられましたが、礼拝後に昇降機で下がる時には「少し怖い、緊張する」と言っておられました。このお二方が礼拝に出席されたことは神様からのクリスマスプレゼントだと私は感謝したのですが、この男性の方に対してただ一つ申し訳ないと思ったのは、礼拝後にトイレを使用されたいと言われた時に、障がい者用トイレがまだ整っておらず、男性トイレを利用されたことです。彼は、上半身が非常に強く、腕の力がお有りで、自分でさっさとスムーズに移動されたのですが、障がい者も健常者も使用できる「誰でもトイレ」を早急に整えなければならないと思いました。何故ならば、これからもお身体にハンディを抱えた方が神様によって「礼拝者」として招かれると思うからです。健常者も障がい者も、神様に愛されている存在であり、神様の前では対等な存在です。教会として、神様のみ前に共に並んで立つ、共に歩むことができるために、トイレもちゃんと整えて行きたいと思います。そういう意味において、もう数ヶ月前から話し合っていますが、1月の執事会でも協議しなければと思いました。
さて、今日から新しい年が始まりましたが、どのような出会い、そして別れがこの一年あるでしょうか。別れはあまり歓迎できませんが、出会いがあれば、別れもあります。出会いも別れも神様がわたしたちにお与えくださるものです。ですから、共に生きる日々を感謝して、大切に生きてゆきたいと思わされます。この年も、この大久保教会を通して、たくさんの方々に出会わせていただき、たくさんの祝福に与ってゆきたいと願います。
また、新しい年を歩み出したわたしたちですが、誰もが幸いな一年を歩みたいと心から願っています。昨年は、自然災害や痛ましい事件が多い一年でした。ですから、新しい年を迎える中で、不幸せな一年を願っている人は、誰一人いないでしょう。自分の家族や大切な人たちが幸せな日々を送ることを願わない人はいないと思います。みんなが幸いを求めます。そのために、日本各地では昨晩からたくさんの人たちが神社やお寺にお参りに行っています。幸せを祈願することは自然なことです。
私は、昨年9月の台風15号と10月の19号と20号で甚大な被害を受けた千葉県館山市の布良地区という所に10月下旬に行きましたが、住民の家屋だけでなく、お寺も、神社も、お神輿を保管していた施設も全て、大きな被害を受けてひどい状態でした。今まで除夜の鐘をついていたお寺の鐘の台も、神社の御神木も倒れてしまっていて、目も当てられない状態でした。心の拠り所を失ってしまった70代後半・80代のご高齢の方々にその地で出会いました。この布良地区の住民の方々は、どのように昨日の大晦日を、そして今朝新年を迎えられたのだろうかと昨日から考えています。
そういう一年を過ごした後、新しい年を歩み始める日の朝に、講壇から何を語ることが神様の御心、願いであるのかなぁと29日の日曜日の午後に皆さんを送り出してからずっと考え、祈り求めてきました。新約聖書、旧約聖書を読んでゆく中で、色々な言葉が心に迫ってきました。これかなぁ、それともこれかなぁと、優柔不断な私は、結構悩みましたが、最終的に旧約聖書のエレミヤ書17章の7節と8節の言葉へと導かれました。
本当は5節から8節までが一つのパッケージ、くくりになってはいますが、今朝は後半の部分にスポットライトを当てたいと思います。もう一度お読みしたいと思います。「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人の拠り所となられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根をはり、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」
この言葉が私の心に留まったのは、去る12月4日にアフガニスタンで銃撃を受け、銃弾に倒れた中村哲先生と5人のアフガニ人のことが心の何処かにあったからだろうと思います。「神様、元旦礼拝でのメッセージで語るべき言葉を与えてください」と祈りながら聖書を読んでいる中で、意識と無意識の狭間で、この言葉が心に飛び込んできました。もう一つ心に飛び込んできた言葉は、来たる5日の新年礼拝で分かち合おうと準備していますので、どうぞ新年礼拝にもご出席ください。
中村哲医師は、日本の有志の援助を受けて、1983年からパキスタンとアフガニスタンで無償の医療援助活動を始めましたが、2000年にアフガニスタンを襲った大かんばつを目の当たりにし、「まずは食べられるようにすること」という必要性を感じ、命をつなぐ「水」を確保しようと用水路建設に取り組み始めます。「100の診療所よりも1本の用水路が必要」という思いの中、聴診器を置き、重機を操作するレバーを握るようになります。2001年の「911テロ事件」後、アルカイダ一掃攻撃をアメリカから受けて大変苦労したとのことですが、現地の人たちとひたすら用水路の建築に励みます。
大干ばつを受けたアフガンの地がどのような状態であったのか、当時の写真を見ればわかると思いますが、聖書の言葉を借りるならば、エレミヤ書17章6節のような状態です。このようにあります。「彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく 人の住めない不毛の地 炎暑の荒れ野を住まいとする。」アフガニスタンの多くの人々は、そのような地に生きなければならなかった訳で、他にも何十万人という人々がその地を離れて難民として生きなければならない状態でした。
中村先生は生前、朝日新聞のインタビューに次のように答えています。「道路も通信網も、学校も女性の権利拡大も、大切な支援でしょう。でもその前に、まずは食うことです。彼らの唯一にして最大の望みは『故郷で家族と毎日3度のメシを食べる』です。国民の8割が農民です。農業が復活すれば外国軍や武装勢力に兵士として雇われる必要もなく、平和が戻るのです」と水がもたらす豊かさが人々の平穏を導き、ひいては大きな意味の平和に繋がると説いたのです。
そして、現地の人たちと協力して25キロにわたる用水路を建設しました。そして乾いていた荒れ地が、元どおりの豊かな土地に回復しました。どのような状態に戻ったのか、写真を見れば一目瞭然ですが、聖書の言葉を借りるならば、エレミヤ書17章8節のような状態です。このようにあります。「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。」
人も住めない乾いた地を豊かな実を結ぶ地に変えたものは一体何であったのか。それは豊かな水を運ぶ「用水路」であったことは間違いありません。しかし、その用水路建設へと中村哲先生を突き動かしたものは何であったのか。少なくとも3つあったと思います。一つはアフガニスタンの人々を助けたいという先生の愛・情熱。一つは「命そのものが与えられた恵み」と信じていたこと。もう一つはそのような愛と情熱と信念の土台となっていた神様を信じる信仰であったと思います。中村哲先生は、中学3年生の時にイエス・キリストを救い主と信じてバプテスマを受けたクリスチャンでした。つまり、神様に信頼し、イエス様を拠り所とする人でした。いえ、主なる神様自らが中村先生の拠り所となられたのです。そして、アフガンの地に生きる人たちに仕える人として神様が中村先生をアフガンの地へと遣わし、用水路を作り、その地を水で再び潤し、人々に命を与える仕事に従事させたのです。
新しい年を迎え、歩み出してゆこうとしているわたしたちの心の状態はどのようなものでしょうか。人も住めない不毛の地でしょうか。それとも命の水で潤っている地でしょうか。どんぐりの背比べに似た競争社会の中で、憎しみや怒りや妬み、痛みや悲しみや憂いで乾いた地になっているわたしたちに対して、「私に祝福されよ」と招かれる神様が今朝ここにおられます。7節に「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人の拠り所となられる」とあります。神様が「あなたを祝福したい。祝福されよ」とわたしたちを招いておられます。この祝福を受けてゆく唯一の方法は、わたしたちを愛し、わたしたちを祝福されたい主なる神様に信頼することです。そうしたら、神様がわたしたちの拠り所となってくださいます。この祝福の招きを今朝受けて、新しい年を共に歩んで参りましょう。