宣教要旨「神に愛されて生きる」 大久保教会副牧師 石垣茂夫 2020/01/19
聖書:ヨハネによる福音書3章16節~18節(p167) 招詞:創世記8章20~21節
子どもメッセージでは「ノアの物語」を取り上げました。神さまはご自分の意思でわたしたち人間を、良きものとしてお造りになりました。しかし人間は「光よりも闇を愛する者」になってしまいました(ヨハネ3章19節)。そこで神さまは、後悔して次のように言いました。
「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」(創世記6:5~6)。
神さまは、後悔するほどの思いに到り、すべての人と生き物を地上から拭い去(ぬぐいさ)ってしまおうと決心し、大洪水を起こしました。ただ、神と共に歩んでいた「祈るノア」に目を留められ、「あなたは生き延びるように備えなさい」と命じ、その一族と一つがいずつの生き物が生き残るように配慮なさいました。
招詞で読まれました箇所8章20節と21節には、洪水が納(おさ)まったとき生き残ったノアが最初にした事は「主のために祭壇を築く」ということです。ノアが救われて真っ先にしたことは、『神に感謝の礼拝をした』ことでした。「祭壇を築く」とは礼拝するという事です。ノアの日常生活は、礼拝する生活であったのです。この箇所を読みます時に、自分の事を振返って、日々の感謝の思いが足りないと、いつも恥ずかしい思いにさせられます。救われたノアは真っ先に、神に感謝の礼拝をしたのです。
この後神は、ご自分がなさった「滅ぼし尽くす」という行為を改めなさいました。「わたしは、この度(たび)したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(創8:21)と、神は自らこのように誓い、その後は約束を守り、重ねて罪を犯し続ける人間を愛し続けてこられました。ついには、ご自分の独り子イエスを世に送られ、その子を傷つけてまでその約束を完全なものとなさいました。この「神の愛」に、今朝は導かれたいのです。
お読み頂きましたヨハネ福音書3章16節は、特別に「聖書の中の聖書」、英語では「Golden Text」と呼ばれます。わたしたちがたとえ、多くの事を忘れ去るようになっても、「主の祈り」と、この「3章16節」のみ言葉は忘れないと思います。
ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
この言葉は、主イエスご自身の言葉です。問題なのはこの言葉が、シンプルで分かり易いと思ってしまい、深く味わうことをしないことです。その事は、多くの信仰の先輩が指摘して警告してきました。16節は「深く味わってみようとしない御言葉」になっているというのです。
例えば、ここで言われる「世」とは、いわゆる「世の中」の事を言っているのではありません。
「世」については、ヨハネ福音書の幾つかの箇所で、次のように答えてくれています。
「世」は神の子イエスを認めなかった(1:10)。「世」は神の子イエスを受け入れなかった(1:11)。
「世」はわたしイエスを憎んでいる(7:7)。「世」は神を知らない(17:25)。
こうしたわたしたちの中に巣食う、闇のような思いを、イエスさまは「世」と言っています。
イエスさまはこう言いました。父である神は、この「世」、「暗闇のような世を愛されたのだ」と、ヨハネ福音書で断言しているのです。
先ほどの「ノアの洪水物語」では、人間がもう罪を犯さない存在になったとしてお誓いになったのではありません。人間とは、なおも罪の中にあり続ける者として、神さまは、そのことをぐっと飲み込んで誓っておられるということを、忘れてはならないのです。愛される価値のない者を、ひたすら愛し、一緒に生きてくださるのが、イエス・キリストの父なる神なのです。
スイスの宗教改革者カルバンは、この3章16節の説教でこう言っています。
『わたしたち人間は「神から愛されている」といくら言われても、容易には納得しない者なのだ。そこで主イエスはことさらに、その人間の疑いを取り除くために、“神はその独り子を、惜しまなかったほどに、わたしたちを愛した”と断言しているのである』、このように言っています(カルバン『ヨハネによる福音書』)。
同じ宗教改革者マルティン・ルターがある説教の中で語ったことですが、『3章16節、この言葉は、実は中々、人の心には染み込んでこないみ言葉なのだ』と言いました。先ほどのカルバンと同じような見解で、宗教改革者二人が同じような見解を持ったのです。
さらにルターは、“一人のローマ皇帝が、自分の住いの壁に、本物の金でこの聖句を書かせたことで「Golden Text」と呼ばれるようになった”との御言葉の逸話を伝えています。このように、大変、古い時代から、既に「Golden Text」と呼ばれていたようです。
それでもルターは次のように勧めています。『金(Gold)で自分の心に書き記しなさいとまで言われてきたが、それだからこそ、キリスト者は何よりもこの聖句を暗唱しなさい。そして毎日、毎日、生涯を通してこの聖句を自分の心に向かって語り聞かせなさい。なぜならば、この言葉は「悲しみの心に喜びを与え、死んでしまった人間に、命すら与えることが出来る御言葉なのだから・・」』このように言っています。
二つ目の事としてヨハネ福音書に多用されています代表的な言葉、「永遠の命(いのち)」に触れて終わりたいと思います。旧約聖書には、あくまでも、命の根源は神にあるという思想が見られます。ノアの物語に表わされたように、神によりたのむ人々を、神は恵みと決断によって、死すべき有様を越えて生かしてくださいました。
新約聖書では、ヨハネ福音書から、新しい「終わりの日」の思想に導かれます。新約聖書がわたしたちに教える「終わりの日・終末」は、ノアの洪水のような絶滅ではありません。イエス・キリストがともにいてくださる「終末」は、わたしたちの終わりではなく、わたしたちが新しい命に造りかえられることを言っています。主イエスが地上に来られ後の現在では、わたしたち信仰者は、今ここで、既に「永遠の命」を歩んでいるとしています。わたしたちが主イエスと出会うことで、新しい命、今既に「永遠の命」に生かされているとヨハネは言っています。
このような「神の愛」は、すべての人に注がれています。しかし「永遠の命」は、独り子主イエスへの信仰無しには与えられることはないのです。そのように厳しいことだけに、わたしたちは真剣に取り組まなくてはなりません。御言葉を聞き続け受け入れて、「神の愛に生きるもの」とさせていただきましょう。[祈り}