互いのために生きる

「互いのために生きる」 一月第四主日礼拝 宣教 2020年1月26日

 ガヤテヤの信徒への手紙 6章1〜10節        牧師 河野信一郎

今朝は「互いのために生きる」と題して、ガラテヤの信徒への手紙6章から神様の御言葉を聴いてゆきたいと願っていますが、今朝はまず皆さんに一枚の写真を見ていただき、想像力を働かせていただきたいと思います。

この写真は、アメリカの中西部の大地だと思いますが、舗装もされていない道を走っていた大きなバンが泥というか、粘土状になった部分に突然タイヤを取られ、身動きが取れなくなったようです。このバン、私も運転したことがありますが、多分12人乗りでしょう。大変な状況に陥りました。幸いにもまだ明るいですので、どのような状態かわかります。写真を見る限り4人が車の外に出て、そのうちの3人は車を必死に押し、一人が運転手に指示をしているようです。もしかしたら写真に写っていない車の背後であと何人かが車を押しているかもしれません。もし自分一人が運転していた車が突然このような状態になったとしたらば、と想像してみてください。見渡す限り人がいない大地で一人です。スマホはつながるでしょうか。つながらなかったら最悪です。このようなことが夜起こればもっと最悪です。

さて、なぜこのような写真を今朝みなさんにお見せしたかと言いますと、わたしたちは人生の中で、二進も三進も行かなくなること、身動きが取れなくなること、行き詰まりを覚えてしまうことがあるからです。そのために不安や焦りを感じ、思考能力も停止してパニックになってしまうことがあるからです。もしかしたら、あなたは今、そのような状態の中におられるかもしれません。ただひたすら、自分の力を頼りにそこから抜け出そうとしておられるのか、「主よ、助けてください」という思いを持って、今この礼拝堂に座っておられるかもしれません。そのような状態に陥ってしまったのは、自分の欲や判断ミスからかもしれませんし、他者からの圧力や無責任さからかもしれませんし、病かもしれませんし、自然災害によってそのように陥ったかもしれません。どのような原因、理由であれ、とっても苦しい状況で、身動きが取れない状況には変わりはない。さて、タイヤが泥にはまってしまい、身動きが取れない。どうしたら良いでしょうか。

みなさんにこの写真をお見せしたのには幾つかの理由がありますが、一つ目の理由は「あなたは決して一人ではない」ということを知っていただきたかったからです。もし必要であれば、いつでも助けたいと思っている人、祈る人がいる、教会があるということを知って、平安を取り戻して欲しいからです。この教会は、神様の家族で、イエス・キリストを通して神様の愛が豊かに注がれ、神様の霊で満ちている場所です。そのような場所にわたしたちはいつも招かれていて、イエス様を中心とした交わりが与えられています。

もう一つの理由は、この写真は、もしわたしたちの大久保教会が泥にはまり込んだ時、どうすればその状態から抜け出せるのかを表すもので、また協力伝道週間を過ごす中で、日本バプテスト連盟という大きな団体がこれからも共に歩み続けるために必要なことが表されていると思うからです。

さて、今朝わたしたちに与えられている聖書箇所は、ガヤテヤの信徒への手紙6章1節から10節で、「信仰に基づいた助け合い」という見出しが付いています。パウロ先生という方は、わたしたちに注意を促すというか、特別な配慮、思いやりを持たせる時に必ず「兄弟姉妹たち」と呼びかけます。ですから、この部分では、わたしたちは細心の注意を払って聞く必要があることがわかりますが、今朝はここから大切なことを二つ聴いてゆきたいと思います。一つ目は、1節から5節に記されていることで、罪を犯した兄弟姉妹に対してどのような態度をとることが神様の御心なのかを学びたいと思います。二つ目は、6節から10節に記されていることで、良いものを互いに分け合う精神を持つことが神様の御心であるということを聴きたいと思います。


1節で、「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい」とパウロ先生は言います。神様の「“霊”に導かれて生きているあなたがた」とあります。主が、主の霊いつも共にいてくださいますが、不注意になると、一瞬の隙を突かれて誘惑に負けてしまい、罪に陥る危険性はいつもわたしたちにあります。そして、罪に陥ること、また罪を犯してしまったという罪悪感を抱いてしまい、その罪悪感から抜け出せなくなることが起こります。信仰的に行き詰ることが起こります。そのような時、「あなたがたは」とあります。そして、そういう人を「柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」とあります。泥にタイヤを取られ、前進できなくなった車からみんなで外に出て、車を一緒に押し、その行き詰まりから脱出しなさいということです。「自己責任だから自分でなんとかしなさい」という狭い心ではなく、柔和で広い心を持って助け合いなさいということです。また、自分も誘惑に陥ることがあるのだから、自分も気をつけると同時に、そのような窮地に立たされた人を助けなさいと励まさせています。

2節に「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」とパウロ先生は書き記します。互いの弱さを担いなさいということです。自分の弱さ、至らなさ、犯した間違いを最も重く感じるのがわたしたちです。その弱さを互いに担いなさいとパウロ先生は言い、そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすると言っています。この「キリストの律法」とは、ヨハネによる福音書13章34節35節と15章12節にある主イエス様の言葉です。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とお命じになられました。

3節と4節には、互いに仕え合うために、愛し合うために、あなたのプライド・誇りを捨てなさいということが記されています。「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」とあります。

もしバンに乗っていた人たちが「泥にはまったのは運転手の責任だ」と言って外に出て車を押さなければ、いつまで経っても身動きが取れない状態で夜を迎えることになります。もし何人かが「自分の靴が汚くなる」とか「服に泥がついてしまう」と言って、自分のことしか考えないで車を押さなければ、窮地から抜け出すことはできないでしょう。わたしたちはプライドを捨て、互いの重荷を担い合い、そして5節にあるように「めいめいが、自分の重荷を担うべき」、つまり各自が「自分の果たすべき責任を担い、それを果たす」ということが大切であるということです。

さて、パウロ先生は6節で「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい」と言っています。牧師・教役者は、皆さんが信仰と祈りをもってささげられた献金でサポートされています。連盟の活動、特に諸教会への支援はわたしたちの協力伝道献金で支えられています。「持ち物の分かち合い」の中で、その働きが進められています。車が泥沼から脱出するためには、車の中にいて、ハンドルを握り、アクセルペダルを踏む人も必要であります。そのような人が一人いないとダメなのです。ですから、どんなことでも分かち合うことが大切なのです。

7節から10節には、良いものを分け合う精神が必要であり、大切であることが示され、そのように生きるように励まされています。主なる神様はわたしたちが成すすべてをご覧になっています。わたしたち“霊”に導かれて歩む者たちには、果たすべき責任がそれぞれにあります。信仰を持って恵みを分かち合う人には更なる恵みが与えられ、永遠の命が与えられますが、恵みを分かち合うことをしないで独り占めする人は滅びることになると7節と8節に記され、注意を促されています。

そういう中でわたしたちに大切なことが9節と10節に記されています。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう」とあります。「善」とは、個人のプライド・誇りを捨て去り、互いに愛し合うこと、分かち合うこと、助け合うこと、祈り合うこと、励まし合うこと、仕え合うこと、つまり、力を合わせて「教会」、「連盟」という車・バンを泥沼から押し出し、一緒に車に乗り込み、目的地へ向かって、神様に喜んでいただくことだと今朝示されます。わたしたちが担うべき自分の責任と相互に担うべき責任・責務があることを覚えて、新しい週を歩み出し、祈り、仕える者とされていきましょう。