「十字架につけられたキリスト」 三月第五主日礼拝 宣教 2020年3月29日
ルカによる福音書 23章26〜43節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今日は、3月29日、3月最後の日曜日であり、2019年度の最後の主日です。しかし、わたしたちは、今朝、いつものように、大好きな子どもたちや教会の皆さんと一緒に礼拝堂に集まって礼拝をささげること、賛美と祈りをささげることができません。
それは、新型コロナウイルスの感染が凄まじい勢いでこの首都圏で拡大してきており、今後の爆発的な感染拡大を防ぐために、東京都知事を始め、首都圏の知事たちからそれぞれの都民、県民に対して今週末の外出自粛要請が出され、それを重く受け止めた執事会が相談した結果、市民としての責任を各自が果たし、これ以上の感染を広げないために、この国で生活しているすべての人たち、教会に集う方々とその家族を感染の危険から守り、それぞれの健康と命を守るために、今朝の主日礼拝を休止する決断をしました。
54年に亘る大久保教会の歴史上、礼拝を休止するということは、これまで一度もありませんでしたので、本当に断腸の思い、心に痛みを伴う決定でした。しかし、ローマの信徒への手紙13章1節には、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」という使徒パウロを通して語られる神様の言葉があり、この御言葉が今日を生かされているわたしたちに与えられていると信じて、素直に聴き従いたいと思います。
知事たちは、「今週末は不要不急な外出は控えて自宅で過ごしていただきたい」と口を揃えて要請しましたが、それに対してあるクリスチャンは、「神様を礼拝することは決して『不要』ではなく、全くもって『必要不可欠』なことであり、どんなことがあっても礼拝すべき」と言われたと聞きました。確かに、神様に礼拝をおささげすることはわたしたちにとって生きる使命であり、必要なことであり、わたしたちの大きな喜びです。しかし、「礼拝は教会で、神を信じる人たちと一緒でなければならない」という考えは、どこか間違っているのではないかと思います。
確かに、教会の存在はわたしたちにとって重要であり、信仰者たちと一緒に礼拝することは感謝であり、恵みであり、キリストを中心とした親しい交わりも大切です。しかし、今、主なる神様がわたしたちに与えてくださっているコロナウイルス蔓延と感染の危険というチャレンジは、「たとえあなたが一人でも、あなたと家族だけになっても、いま置かれている場所で、苦しい状況の中にあってもわたしを礼拝できるか」というチャレンジであり、「そのような危機的な状態にあっても、たとえ一人でもわたしを礼拝しなさい」という神様の御心であると思います。「みんなと一緒でなければ礼拝できない、一人ではできない」というのは未熟な考えです。そもそも、一人で礼拝できないのであれば、それはつまり神様とイエス様を愛し、日々祈ること、聖書を読むこと、人に仕えることが日常的にできていないという弱さの表れではないでしょうか。皆さんは、どのように思われるでしょうか。
こういう大変な時期だからこそ、教会の皆さんと一緒に礼拝をおささげできることを当たり前と思わず、神様からの恵みであるということを再確認させていただき、この恵みを共に喜んで、共に神様に感謝と喜びをおささげしたいと思いますし、また共に礼拝ができる日が来るという期待を持って待ちたいと思います。みんなで一緒に礼拝できるとは、なんという恵みでしょうか。今朝共に集えない子どもたち、兄弟姉妹たちを覚えて、それぞれの上に神様の伴いとお守りと恵みが豊かにあるように祈りたいと思います。
国際医療センターで懸命に治療に当たられているI兄たちのことを覚える度に、本当に大変な状況の中で、疲労とストレスを抱えながら働いておられるのだろうと思わされ、心が締め付けられます。I兄を始め、医療従事者の方々の負担をこれ以上増やさないためにも、じっと家にとどまり、それぞれの場所で礼拝をささげ、主イエス・キリストの御名によって祈りをささげることが、わたしたちにできる最大の応援なのではないかと思うのです。
先週の礼拝では、世界163カ国・地域でコロナウイルス感染が確認され、感染者数は25万人を超えたということを分かち合い、共に祈りましたが、今日では183カ国・地域で感染が確認され、60万人の感染者がいるということで、全世界での死者は2万8千人となっています。イタリア、スペイン、イラン、フランス、そしてアメリカ、特にニューヨークの感染者数と死亡者数がすごいことになっています。
そういう状況の中で、わたしたちは海外で生活している教会の家族、中国のSR姉、アメリカのCH兄、CHN兄、B先生ご夫妻のご家族、ノルウェーのA兄、マレーシアのE姉、ネパールのO家、他の国々で生活している家族や親しい人たちが守られるように祈ってゆくことが求められています。お互いに祈りによるサポートが必要です。
言葉では言い表せないほどの悩ましく苦しい状態に今あっても、私たちは主なる神様を信頼し、主イエス様がいつも共にいてくださることを信じ、ご聖霊のお守りと導きに励まされて歩んでゆきたいと思います。コロナウイルスの不安や恐れから解放されるためには、わたしたちの不安や恐れの原因となっている事柄から目をそらし、イエス様だけを見て、この救い主に集中する必要があります。
わたしたちは、受難節・レントの時をいま過ごしていることを忘れてはならないのです。主イエス様が罪あるわたしたちの身代わりとなって十字架で死なれるために、その十字架の道を一歩一歩前進されたということを思い起こしたいと思います。わたしたちの中で、一体誰が他人のためにその命を捨てるでしょうか。家族や友のためならば、そういう人もいるかもしれませんが、神様に敵対する罪人のために、わたしたち一人一人のために主イエス様は自ら進んで命を捨ててくださいました。この主イエス様の命によって、わたしたちは罪赦され、救われ、恵みのうちに生かされているのです。
さて、今朝わたしたちに与えられている御言葉は、ルカによる福音書23章26節から43節です。いつもよりだいぶ長い箇所ですが、わたしたちが今日聴くべき主イエス様の言葉に耳を傾けてゆきたいと思います。(それぞれに読みましょう)
この箇所は、大きく二つに分けることができます。一つは26節から31節、もう一つは32節から43節までです。最初の26節から31節には、イエス様以外に3つのグループの人たちのことが記されています。
まず26節に記されている「キレネ人シモン」という人物についてお話しします。キレネという場所はアフリカの北部にあり、エルサレムから千キロ以上離れています。このシモンという人はキレネという外国に生きていたユダヤ人。ユダヤ人は世界中に散らばっています。その彼は、ユダヤ教のお祭りである「過越の祭り」を祝うためにはるばるキレネから旅をしてきました。大きな期待と喜びを持ってエルサレムへ上ってきたと思いますが、そんな彼は最悪な事態に陥ります。ローマ兵に捕まって「罪人」イエスの代わりに十字架を処刑場まで背負うように強要され、「イエスの後ろから運ばせ」られてしまいます。なんという屈辱でしょうか。自分の前をよろよろ進むイエス様をシモンはどのような思いで見ていたでしょうか。恨んだでしょうか。憎んだでしょうか。自分を不運だと思ったでしょうか。
しかし、マルコによる福音書15:21とローマの信徒への手紙16:13を読みますと、この人はのちにユダヤ教徒からクリスチャンへと変えられて行ったことが判ります。彼はローマ兵によって無理やり十字架を担がされて処刑場へと連れてゆかれましたが、そこでイエス様の口から出る言葉、叫びを聞き、御苦しみを見て、血の匂いを嗅ぎ、全地が暗くなったことを肌で感じ、どれくらい日が経過した後か記されていませんが、その後にイエス様を救い主と信じ、その妻も子どもたちもイエス・キリストを救い主と信じるようになりました。思いがけない災いがシモンとその家族にとって救いのきっかけとなったのです。このコロナウイルスによる災いが人類にとって、ただの屈辱的で悲惨な出来事ではなく、一人でも多くの人たちの救いの時、悔い改めて主なる神様に立ち返る時となるように、永遠の命を信じる機会となるように、主の救いの御業が行われますようにと祈りたいと思います。
さて、27節から29節には、嘆き悲しみながらイエス様の後ろをついて行った女性たちに対するイエス様の言葉が記されていますから読みましょう。イエス様は、「私のために泣くな。むしろ自分たちと子供たちのために泣きなさい」と女性たちに命じます。これはどういうことかと言うと、「わたしは父なる神の御心、ご計画を知っていて、その道を歩み、復活を信じて希望をもっているけれども、あなたがたはわたしの苦しみの意味が分からず、苦難の中にあって、不安や恐れで心が張り裂けそうに、押しつぶされそうになって希望を抱くことができないでいるから、神様に対して泣きなさい、叫びなさい、祈りなさい」ということです。
29節に、「人々が『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』という日が来る」とありますが、母親にとって子どもは自分の命よりも大切に思う存在、生きる希望ですから、その子どもたちが苦しむことは耐えられない痛み、苦しみです。だから、自分と子どもたちの救いのために泣きなさい、つまり祈りなさいということです。
30節から31節には苦難の中を通る人々、希望を見出せないで苦しむ人々のことが記されています。30節は、旧約聖書のホセア書10:8の引用ですが、苦難が襲いかかってきた時、人生の中で最悪の状態に置かれる時、人々はこのような苦しい目に遭うならば死んだほうがましだと言い始めると主イエスは言っています。暗闇の中で希望が持てないからです。しかし、目の前の主イエス様が神様から遣わされた救い主であり、暗闇の中で輝く光であり、希望なのです。
31節には「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるだろうか」とあります。「生の木」とは正しい人、イエス様のことです。「枯れた木」とは希望のない罪にあるわたしたち人間のことです。救い主イエス様でさえ処刑されるとしたら、深い罪にあるわたしたちはいったいどうなってしまうのでしょうか。死を迎えて滅びるしかないわけです。しかし、そのようなわたしたちを愛し、見捨てず、罪と死の恐れから救うために主イエス様は十字架につけられ、その命をわたしたちに与えてくださるのです。
さて、二つ目の区分である32節から43節には、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の犯罪人とイエス様とのやり取りが記されています。まず32節から33節を読みましょう。これがイエス様が十字架につけられた時の状況です。そして十字架につけられている時にイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と神様に祈っている言葉が34節に記されています。
彼らというのは、イエス様を十字架につけることに関わったすべての人たち、祭司長、律法学者、長老、ユダヤ議会の議員たち、民衆、ローマ兵たちです。彼らはイエス様を陥れるために嘘を言ったり、偽りの供述をさせたり、民衆を扇動したり、「十字架につけろ」と叫んだり、暴力を振ったりするだけでなく、くじを引いてイエス様の服を分けたり、イエス様をあざ笑ったり、侮辱したり、ののしったりしました。
しかし、彼らが最も知らなかったのは、自分たちの救い主を自分たちの手で十字架につけてしまっていたこと、しかしそのような自分たちをイエス様は愛してくださっていたこと、その人たちの罪の赦しのためにも主イエスは十字架に架かり続けてくださったということです。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うが良い」とか、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と挑発され、侮辱されても、それに屈しないで、その反対にその人々のために神様の赦しを祈り、十字架に架かり続けてくださった救い主がここにおられます。すべてはわたしたち一人一人を救うため、永遠の命を与えるためでした。
さて、イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人の一人が、39節で、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエス様をののしるのです。救い主に対して「お前」という時点で、その人がイエス様を救い主と認め、恐れていないことが判ります。
しかし、もう一人は、41節で、「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方(イエス様)は何も悪いことをしていない」と言っています。この人は自分の犯した罪を認め、その罪を裁くことが唯一できる神様を心から恐れています。そして「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」とお願いをします。自分の犯した罪ゆえに天国へ行けないと自覚しています。しかし、「せめてどうぞわたしを天で思い出してください。そうすればわたしが存在したことが天でも覚えられ、それだけでも慰めになります」と悔い改めた心がこの人にはあったのだと思います。
その人に対して主イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言って、彼の罪の赦しと、彼が天国に招かれていること、その人の救いがはっきりと宣言され、死の淵の苦しみにあっても永遠の命の希望が与えられることを伝えます。神様を畏れ、自分の間違いを認め、悔い改め、イエス様を救い主と信じる人に、神様の愛が豊かに注がれ、希望が与えられ、平安が与え、信じたその瞬間から永遠の命に生かしてくださるのです。
主イエス様は、わたしたちすべての人を救い、永遠の命を与えるために、十字架につけられ、罪の代償、贖いの子羊としてその命を捨ててくださり、わたしたちに与えてくださいました。その愛を信じて、感謝して、たとえ今苦しい中を歩むとも、主イエス様を信じて、その後ろ姿を見つめながら歩んで行きましょう。苦難の時は同時に、祝福の時であることを覚えましょう。