「主イエスの十字架の死はわがために」 棕櫚の日礼拝 宣教 2020年4月5日
ルカによる福音書23章44〜56節 牧師 河野信一郎
今日は、主イエス様がエルサレムへ入場された日を覚える棕櫚の日、パームサンデーであり、また受難週の最初の日です。今朝は、この棕櫚の日のために昨年作ったポスターをホワイトボードに貼りました。これは教会の幼い子どもたちの両手の手形をとって、それを何枚にも重ねたもので、ヤシの木の枝に見立てています。この中には、お引越しをされた子たちの手形もあります。わたしはこの教会に与えられている子どもたちを心から愛しています。愛おしく思っています。神様に感謝しています。しかし、今朝は、一緒に礼拝をおささげすることができません。
新型コロナウイルス感染の危険から幼子たちを守るために、3月からお休みをしてもらっています。ご高齢の方々、基礎疾患をお持ちの方々にもお休みしてもらっています。大好きな子どもたちや兄弟姉妹たちに会えないのは、心が痛むと言いましょうか、心が締め付けられるような、とっても苦しいことです。しかし、大切な人たちの健康と命には変えられません。肺炎になって息ができない苦しみを味わって欲しくありません。今しばらくの我慢が、子どもたちや兄弟姉妹たちの、そしてわたしたちの命を守ります。ほんの数ヶ月のわたしたちの忍耐と祈りが神様の心に届き、その祈りが聞き入れられ、これからずっと何年も一緒に礼拝をささげることができる恵み、祝福へと変えられてゆくと信じています。
わたしたちには、主イエス・キリストを通して与えられる「希望」があります。たとえ暗闇の中を通らされても、復活の希望が与えられています。この復活の希望は、決して失望に終わることはありません。主イエス様は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっています。旧約聖書のイザヤ書41章10節と13節で、神様は、「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。恐れるな。わたしはあなたを助ける、と。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる」という確かな約束をしてくださっています。
確かに、今年の受難節、そして今週の受難週、そして1週間後のイースターをこのような形で過ごすといったい誰が想像し得たでしょうか。今、全日本、全世界の人々がコロナウイルスに感染して、突然命を落とすかもしれないという不安と恐れに苦しんでいます。最後の別れの言葉を互いに交わせないまま、大切な人を突然失って、悼んでいる人々がすでに何十万、何百万人おられます。全日本のキリスト教会だけでなく、全世界のキリスト教会では、イエス・キリストを救い主と信じる者たちが一堂に会して主のご復活をお祝いできない事態に陥っています。明日のことも分からない不確かな日々を不安と恐れの中で過ごしています。
わたしたちは、ウイルスという目に見えないミクロの敵に恐れを抱いています。9年前からは、これも目には見えない放射能に恐れを抱き、勝利できない状態に陥っています。顕微鏡などの機材などでウイルスも放射能も見えるかもしれませんが、肉眼では決して見えません。でも、ウイルスや放射能が存在することは誰もが信じて疑いません。
しかし、わたしたちが本当に恐れなければならないお方、現に存在される神様を畏れる必要がわたしたち全ての人にはあります。神様は、わたしたちの目には見えません。わたしたちの持つ能力では絶対に測り難い存在であるからです。しかし、神様は確かに存在されていて、わたしたちを愛してくださっています。では、神様が愛の神であるならば、どうしてこのようなパンデミックをわたしたちにお与えになられるのかと感じ、怒りや不信感を抱かれる方も多くおられると思いますが、そもそも神様の存在を信じていないのですから、怒りや不信感を抱くことは無意味なことです。しかし、神様の存在を、この聖書を通して、神様からの啓示であるイエス・キリストを通して信じる者は、この主にさらなる信頼をおき、み言葉に聴き従い、絶えず祈り、さらに主を愛してゆくことが求められていると思います。
主なる神様を愛する最善の方法は神様を礼拝することです。また同時に、それぞれ置かれている場所で、家族や周りの人々を自分を愛するように心から愛してゆくことです。互いに愛し合い、互いの命と尊厳を大切にすること、互いのために祈り合うということ、それが巡り巡って神様を愛することになるのです。今、教会の家族と一緒に礼拝をおささげできないで悲しんでいるかもしれません。恋しくなっているかもしれません。今まで当たり前のように思っていたことが、本当は掛け替えのない祝福、恵みであることを味わっていると思います。そのような中で、心を不安や恐れで満たすのではなく、神様の愛、憐れみを信じ、心を神様の愛で満たしていただきましょう。
主イエス様は、わたしたちの心からすべての罪を、痛みや悲しみや不安や恐れを取り去り、神様の愛で満たすために、自ら進んで、わたしたちの身代わりとして、罪の贖いの子羊として十字架にかかって死んでくださいました。イエス様は神であり、人であります。皆さんもお聞きになったことがあるでしょう。イエス様が神でなければ、わたしたちを「救う」ことはできません。人でなければ、わたしたちの身代わりとなってわたしたちを贖うために「死ぬ」ことはできません。イエス様は神であられますから、「十字架から降りてみよ」という人々の挑発に答えて十字架から降りることもできましたが、決して降りられませんでした。何故でしょうか。それは、わたしたちの罪を一身に負ってくださっていたからです。
わたしたちの罪を洗い清め、わたしたちを神様の愛で永遠に生かすために、その神様の愛を証明し、その愛をわたしたちに分け与えるために、苦しみ悶えつつ十字架にとどまってくださいました。イエス様を十字架に貼り付けにしていたのは数本の太い釘ではなく、主ご自身のわたしたちへの愛なのです。主イエス様の十字架の死はわたしのため、あなたのためであったこと、それ程までに神様に、イエス様に愛されている存在でわたしたちがあるということをこの1週間、心のとどめたいと思います。
今年の受難節、わたしたちはルカによる福音書に記されている主イエス様の言葉に聴いてきましたが、先週は23章の26節から43節までに記録されています十字架上の二つの言葉を聴きましたが、今朝は三つ目の言葉に注目します。先週のメッセージにご興味のある方、復習された方は教会ホームページをご覧いただければと思います。
さて、イエス様は朝9時ごろに二人の犯罪人と共に十字架につけられましたが、44節と45節を読みますと昼の12時頃のことが記されています。「全地は暗くなり、それが3時まで続いた。太陽は光を失っていた」と記されています。普通12時から3時までは1日の中で最も明るい時間帯であるのに、全地は暗くなったとあります。最も明るいはずの時間帯であるのに、どうして暗くなったのでしょうか。それは、世にまことの光であり、神の子であるイエス・キリストが、神が、父なる神から初めて切り離されるというとてつもない悲しみ、苦しみ、痛み、犠牲がその場所で、その時間帯にあったということ、神様ご自身も痛まれたということを全地のすべて人に示すためであったのではないかと、わたしは感じます。世の光が神様から切り離されるという出来事は、太陽が光を失うこと以上に衝撃的な出来事であったことを教えるものだと思います。
しかし、45節の後半に「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」とあります。「垂れ幕」とは神様とわたしたちを隔てるものです。神様とわたしたちを隔てるもの、それはわたしたちの「罪」です。しかし、その神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたというのです。これは何を示しているのでしょうか。それは主イエス・キリストが父なる神様から引き離され、贖いの供え物とされたことによって、イエス様の命と引き換えに、神様とわたしたち人間との交わりが回復したということを示しています。イエス様が神様から引き離される、引きちぎられることによって、わたしたちが神様にアクセスすることができるようになり、神様につながることができるようになったという良き知らせがここに示されています。
さて、午後3時ごろ、全地が暗くなり、太陽が光を失っていた時、イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、そう言ってイエス様は息を引き取られました。この叫びは、十字架上での6時間にわたる苦痛のあまり気がおかしくなったために発せられた叫びではなく、父なる神様から委託されたこの地上での任務・使命をすべて完璧に全うしましたという達成感、満足感から来る最後の叫びであります。「お父さん、わたしはあなたから託された使命をすべて成し遂げました。どうぞわたしの霊を引き上げてください。あなたの御手に今わたしの霊をおゆだねします」という言葉であったと信じます。
主イエス様の最後は、苦痛から来る苦しみではなく、父なる神様の御心を全うしたという達成感、安心感、そして感謝の思いが心の中にあったのです。悔いを残すことは何一つなく、平安のままに息を引き取られたのです。わたしたちは、コロナウイルスによって死ぬかもしれない、大切なものが取り去られるかもしれないという恐れを抱いています。しかし、そのような中にあっても、神様に信頼し、自分の地上での使命を果たせますように祈りましょう。「神様、わたしにはまだまだなすべきことがたくさんありますから、どうぞ命を取らないでください」とは祈らないで、「神様、わたしのすべてをお委ねします」との信頼の祈りをささげましょう。
この地上での生活はいつか必ず終わりが訪れます。それがいつかなのかは誰も分かりません。けれども、わたしたちの果たすべき使命は、神様と主イエス様を愛し、隣人を愛し、互いに愛し合い、仕え合うことです。主イエス様のようには決していかないでしょう、わたしたちは。でも、「主よ、あなたを信じ、わたしのすべてをお委ねします」と祈って、その祈りのままに生きる時、それが主イエス様の十字架とご復活を証する人生と神様がなしてくださいます。
47節から56節には、イエス様の逮捕から不当な裁判、そして十字架刑の最初から最後までを見ていた人々の心のリアクションが記されています。47節には、「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」とあります。
百人隊長は、ローマの兵卒を統率する隊長、イエス様を十字架刑に処する指揮をとった人です。自分の部下が十字架上のイエス様に酸いぶどう酒を突きつけながら、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱することをそのままにさせていた人です。しかし、十字架に付けられたイエス様を間近で6時間も見ていて、イエス様の口から出る言葉を聞いていたこの百人隊長は、イエス様が十字架上で息を引き取られた時、神様を信じない者から信じるものとへと変えられてゆき、神様を賛美する人に変えられてゆきました。人の心を変えることは私たちにはできませんが、イエス様の十字架上に示された神様の愛、憐れみ、罪の赦しを私たちが指し示す時、わたしたちではなく神様が、ご聖霊がその人の心をイエス様に近づけ、信じる心へと変えてくださるのです。そのことを信じて日々証しすることを続けましょう。
48節に「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」とあります。胸を打つという行為は、自分の間違いを認め、自分の罪深さを悔いる行為です。面白半分に見物に来た野次馬の群衆も、十字架に付けられたイエス様を見て、その声と言葉、叫びを聞いて、自分たちの思いが至らなかったこと、イエス様を嘲笑った間違いに気づき、悔い改め始めます。コロナウイルスが人を悔い改めさせるのではありません。イエス様の十字架がまことの悔い改めへと導くのです。そのことを覚えつつ、新宿、東京、首都圏で、それぞれ生かされている場所で、イエス様の十字架を証し、主の死はわたしたちの救いのためであったことを分かち合ってゆきましょう。
次に「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」と49節にあります。彼らは臆病者だから、自分たちの命を守ろうとして遠くに立っていたわけではありません。死なれたイエス様のために自分たちに何ができるだろうかと心の中で一生懸命に知恵を働かせ、神様の御心を求めていたのです。
アリマタヤのヨセフという議員が50節から登場します。彼はユダヤ・サンへドリン議会の議員で、善良な人、イエス様を十字架にかける運動、決議や行動に同意しなかった人で、神の国を待ち望んでいる人でした。イエス様の十字架の死を目撃した彼は、心が激しく突き動かされ、勇気を持って総督ピラトのところへ行って、イエス様の遺体を引き取りたいと願い出しました。遺体を引き取れば、イエス様の仲間ではないかと疑われ、何をされるかわかりません。しかし、彼は十字架に付けられたイエス様を見て、このイエス様を信じる信仰がさらに強められ、この方のために勇気を出して今自分にできるベストを尽くそうと決心しました。そしてイエス様の遺体を十字架からおろして亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中にイエス様を納めます。
さて、主イエス・キリストは、あなたにとって、わたしたちにとってどのようなお方でしょうか。聖書には、主イエス様は私たち一人ひとりの罪の代価を支払うために私たちに代わって十字架に架かって死んでくださったと明確に記されています。この愛に、どうお応えしてゆけば良いでしょうか。
54節から56節の前半に、「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」とあります。金曜日から日曜日まで、彼女たちはどのように過ごしたと記されているでしょうか。彼女たちには三日間で十分であったかもしれませんが、わたしたちには今日から来週の日曜日までの時間が与えられています。コロナウイルスのことを心配する気持ちと時間があるのであれば、神様の愛、主イエス様の犠牲に、この恵みにどう応えてゆくべきかを考え、祈る時といたしましょう。主の平安がありますように祈ります。