宣教「パウロが見た幻(まぼろし)」 大久保バプテスト教会副牧師 石垣茂夫2020/05/17
招詞:ローマの信徒への手紙8章26節
8:26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
聖書:使徒言行録16章6~10節(p245) (参考15:36~16:5)
16:9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
賛美:104「雨を降り注ぎ」(1.2,4)
応答賛美:263「満たしたまえみ霊を」(1,2,4)
宣教「パウロが見た幻(まぼろし)」
「はじめに」
皆さまはどのようにして、今の、この期間を過ごしておられるでしょうか。
また、どのようなことを考えて過ごして来られたでしょうか。
わたしは、特に教会、あるいは礼拝ということを考えていました。
もう一つ、地球環境のことを合わせて考えさせられてきました。
わたしたちはこれまで、主日ごとの礼拝には欠かさず集められ、これこそ“教会”であると確信し、日々皆さまと共に、取り組んできました。しかし、“集められて守る、主の日の礼拝”が守れなくなって、わたしたちは二か月間、7回の礼拝を制限された中で守りました。しかしこの期間には、思いがけず多くの事を教えられ、貴重な経験をすることができたのではないでしょうか。
この度のウイルス感染が拡大し始めた頃、日本のある人類学者がこのように言っておられました。
『わたしたちが“コロナウイルスは悪だ”と決めつけること、それは間違っているのではないか。
こうしたものを生み出した原因は人間の側にあるのではないか。
人間が、自分たちだけが快適であることを追い求めてきた結果、このようなものを生み出してきたと思うがどうだろうか。
ウイルスは、紛れもない生き物であり、彼らも必死に生きようとしている。この先も、彼らからのメッセージを聞きながら、向き合って行かなければならないと思う。』。記憶の範囲のことですが、そのように言っておられました。
地球上の「生態系の危機」(ecological crisis)が叫ばれるようになってどれほどの期間を私たちは過ごしてきたのでしょうか。エコロジカルecologicalとは、地球を一つの大きな家に例えて、家の管理状態を明らかにしていく営みを指しています。経済だけを考えてしまう人間中心の考え方から、自然に優しい、人間以外の動植物や、地球全体と共存する生き方です。こうしたことが求められて、久しい時を過ごしてきました。
この度のような危機に直面して、一旦はショックを受けて思い止まっても、とりあえずは経済優先となってしまう、私たちの悲しい一面が出てしまいます。
今思うことは、こうした事態の中でこそ深く考え、これからの道を探さなければならないということでしょう。
たとえこの度のように揺(ゆ)さぶられようとも、揺(ゆ)らぐことのない皆様の信仰は、これまでの、日々礼拝を守る生活に裏打ちされています。わたしたちの歩みは、このような事態からも、新しく整えられ備えられていくと確信し、進んで参りたいと願っています。
「パウロの第二回伝道旅行」
説教に先立って使徒言行録16章6節からお読みしましたが、この箇所は15章36節から始まるパウロの第二回伝道旅行でのひとこまです。伝道旅行の出発地はシリアのアンテオキア教会、目的地は現在のトルコ、当時のアジア州です。この伝道旅行の目的の一つは、先の第一回伝道旅行で開拓した、アジア州南部のキリストの集会を再び訪ね、励ましていくためでした。
この二度目の訪問では、テモテという有力な弟子を得るなど、順調な滑り出しでした(16:1~5)。パウロの思いには、更にアジア州中央部から西に進み、ガラテア、フリギア地方での宣教を目的にと願っていたのです。
ところが、順調に進むかに見えた活動は、間もなく行き詰ったのでした。なぜ行き詰ったのか、その原因を16章では「聖霊が禁じた」としているのみです。
そのため「これは何を言おうとしているのか」と、幾つかの推測がなされてきました。
一つには、ユダヤ人のしつこい妨害です。新しい土地に入った時、パウロはまず、ユダヤ人の会堂(シナゴ-グ)を訪ね、ユダヤ人にイエス・キリストの福音を伝えています。そこでは、受け入れる人もありましたが、むしろ反発が多く、それは激しかったのです。反感を持ったユダヤ人は、パウロの後を絶えず追って付け回し、しつこく妨害したという事です。
もう一つの事は、パウロの持病です。具体的な症状は不明ですが、パウロには、自分で「肉体のとげ」というほどのつらい病があったということです。パウロは後の手紙で、これを「わたしが思い上がらないように、サタンから送られた“身体(からだ)のとげ”」と言っています(Ⅱコリ12:7)。
「聖霊が禁じた」
多くの研究者が、妨害と病、そのような理由から、パウロの宣教活動が思うように進まなくなったのだと推測しています。
しかし、どのような理由が想像されようとも使徒言行録16章の言葉はこう言っているのです。
「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので」(16:6)。
「 ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。」(16:7)
アジア州で語ることを禁じられ、止む無くミシアを経て、北のビティニアに向かおうとしました。しかしそこでも「イエスの霊がそれを許さなかった」(16:7)。そのように書かれています。
「聖霊から禁じられた」「イエスの霊がそれを許さなかった」、この言葉は、皆さまがお読みになったとき、少なからず気になる言葉であったと思います。しかしこれが「使徒言行録」16章の言葉なのです。
行動が禁じられ、続いて何が起きたのでしょうか。
16:8 それで、ミシア地方を通ってトロアスに下った。
その結果、一行は、思ってもいなかった方向、「トロアス」へと下ったのでした。“トロアスに下った”、多くの方が、この言葉にもパウロの行き詰った思いが込められているとしています。
滑り出しは順調でしたが、聖霊は、パウロの思いにある進路を、阻(はば)んだのでした。
「聖霊から禁じられた」、「イエスの霊がそれを許さなかった」。
この言葉は、使徒言行録の筆者の「信仰の言葉」だと言われます。
言葉を変えて言えば、パウロの行き詰まりも方向転換も、「神の御手の内であったのだ」と使徒言行録の筆者は捉えたのでした。
わたしたちも、“アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた”“トロアスに下った”、このパウロの行き詰まりとも思える事態について、使徒言行録の筆者の信仰に倣いたいと思います。行き詰まりという事態、ストップが掛けられる事態も、「神の御手の内にあった」と受けとめたいと思います。
「パウロが見た幻」
港町トロアスの埠頭(ふとう)に立って、パウロは何を思っていたのでしょうか。
「自分が、自分こそが」という自信を持っていたパウロは、もう前には進めないのです。むしろ後退してしまったと落胆し、自信を失っていたにちがいないのです。今、トロアスにいること、これは神の導きだとの思いには、すぐには至らなかったことでしょう。
9節には「その夜パウロは幻を見た」とあります。
16:9 その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
その夜の夢で見た幻は、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」とパウロに言ったのです(16:9)。出発時のパウロは、アジア州での伝道を最も大事なこととしていましたので、「マケドニア州に渡って来てください」この幻の言葉を、パウロはどう受け止めたのでしょうか。
マケドニア州とは現在のギリシャです。行き止まりと思ったアジア州トロアスで、新しい方向、マケドニア州を示されたのです。
「マケドニア人」という呼び方は聖書の翻訳者によって「神の使い」と言い変えられています。
ある聖書では、「助けてください」という叫びは、「福音を聞かせてください」と訳されています。
こうした翻訳の背景にあることは、パウロ一行の行く手を遮った「イエスの霊」とは「復活の主イエスご自身」であるとの解釈があります。
幻を見たパウロは、その声を「マケドニアに来て、福音を聞かせてください」と、聞いたのでしょう。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
「わたしたち」。パウロは一人ではありません。シラスは初めから一緒です。途中で、テモテが加わっています。そして、このトロアスから「医者ルカ」が加わったと言われます。ルカは「使徒言行録」と「ルカによる福音書」の著者でもあります。
旅の初めに加わったテモテは、母がユダヤ人、父がギリシャ人です。こうした場合のユダヤ人として,親権は母にあり、テモテはユダヤ人とされました(16:3)。
そしてトロアスで合流した医者ルカはギリシャ人でした。
パウロはトロアスで、医者ルカに出会い、彼によって、旅の疲れと心の疲れを癒(いや)され、持病の治療を受けたと想像されています。トロアスで立ち止まり、ルカを交えてどのくらいの日々を過ごし、語り合ったことでしょうか。「その夜」(16:9)とありますが、たった一晩の事ではなかったことでしょう。恐らく、これからの宣教について、何度も一同で語り合ったと思われます。
パウロの一行に、「ギリシャ人ルカ」が加わったことで、幻、新しい展望を見せられたと言ってよいのかもしれません。ラムゼーという神学者は「マケドニア人の幻とは、医者ルカの事だ」とさえ言っています。
マケドニア州とはアレクサンダー大王を輩出した後、ローマに敗れ、アカイア州と共にローマの属州になった一帯で、現在のギリシャに当ります。
パウロの一行は、アジア州のトロアスから船出し、ヨーロッパに渡り、フィリピ、テサロニケを経てコリントに至り福音宣教の拠点となる教会の基礎を作っていくことができました。
「自分が、自分こそがという思い」を打ち砕かれて意気消沈したパウロは、トロアスで新しい出会いと、新しい展望とを与えられて国の堺を越え、ヨーロッパへ渡りました。16章11節以下には、実りの大きかったギリシャでの宣教が記されています。福音はヨーロッパに向けて急速に広まったと言ってよいのでしょう。
そして一行は、出発地、アンテオキア教会に戻って行きました。“パウロの伝道旅行は教会の働きであった”ということは重要なことでした。
「福音の広がり」
この度の感染症は、易々(やすやす)と国境を越え、文化的にも経済的にも髙い水準にある国々が、深刻な事態になっています。これは予想外の出来事ではないでしょうか。
その結果、わたしたちは今、これまでの経験や積み重ねてきた取り組みが、根本的に揺さぶられる状況に直面しています。
教会も例外ではありませんでした。わたしたちは、今、「使徒言行録」が「聖霊から禁じられた」「イエスの霊がそれを許さなかった」と捉えた状況にあると思うのです。
こうした局面でこそ、皆さんで深く考え、それを分かち合って進む必要があると思います。
パウロは伝道に行き詰まりを覚え、意気消沈していた時に「マケドニア人の幻(まぼろし)」を見たことによって、思ってもいなかった伝道の道を、新しく与えられていったのです。
わたしたちの現状も、あなたがたは立ち止まりなさい。そしてこの事態を受け止め、危機によってもたらされる意味を、深く考えなさいと言われています。
特に、入学、就職を阻まれた方々は、不安でやりきれない思いの中に置かれてきたことでしょう。そのような時に、何を支えとして進めばいいのでしょうか。
まもなく、5月31日はペンテコステ礼拝です。そこで、招詞では次の言葉を読んで頂きました。
ローマの信徒への手紙 8章26 節
『同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章18節以下で、「被造物のうめき」と「被造物の頂点に立つ人間のうめき」について論じてきましたが、26節からは、「霊のうめき」について語っています。地上で自然や生き物が苦しんでいるとき、神は天にいて、じっとしておられるのではありません。この地上に来てくださり、苦しみをともにし、ご自分の苦しみとして担い、私たちを助けてくださいます。
最後の『“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。』この言葉は聖書では、貴重な言葉です。主イエス・キリストは罪人(つみびと)・人間を執(と)り成(な)すために十字架にかけられたのです。聖霊も、主イエスと同じ立場、「執(と)り成(な)す」立場に立って神との和解の道を備えてくださっています。
わたしたちにはこのように助けてきださる、救い主が与えられています。
「パウロが見た幻」をわたしたちも見させて頂きましょう。パウロの行く手を遮った聖霊は、パウロの祈りをともに祈り、パウロに幻を見させ、新しい友を加えました。そしててヨーロッパに渡り、福音は、驚くような広がりを起こしました。
世界全体がうめいているこの時には、神もうめきつつ救いの朝を備えてくださっておられます。そのことを信じてこの一週を歩みましょう。
≪祈り≫
(注:今朝の宣教は、教会の祈祷会と教会学校が、日本バプテスト連盟発行の『聖書教育』に基づいています。、これに倣って、わたしの5月の一回の宣教も、「使徒言行録」に聖書箇所を求めました。)