主イエスさまが必要

「主イエスさまが必要」 6月第一主日礼拝   宣教 2020年6月7日

 コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章4〜7節    牧師 河野信一郎

今朝、皆さんとこのように礼拝をおささげできる日を、私たち家族と松村姉とベ先生ご夫妻は、3ヶ月間ずっと耐えながら、祈りながらライブ配信を続け、皆さんのお帰りをずっと待っていました。時折ライブ配信がうまくいかずに心が折れるというか、ふさぎ込むような時も正直ありましたが、神様の憐れみに励まされながら、みんなで頑張って礼拝をささげ、ライブ配信を続けて来ました。神様に感謝します。また、この間の皆さんの愛と祈りもありがとうございました。心から感謝しています。

皆さんも、教会に帰ることを祈り求めながら、忍耐して待ち続けてくださったと思います。お祈りをありがとうございました。わたしたちの祈りは、確かに神様に聞かれ、主の憐れみのうちに、今朝、わたしたちは礼拝者としてこの礼拝堂に招かれ、ご一緒に礼拝をおささげできています。神様の愛、恵み、この幸いを主に心から感謝いたします。

しかし、感謝ばかりではなりません。まだまだ苦しみの中に置かれている方々、大切な家族や友を失われた方々が世界中におられます。この日本にも、東京にも感染者が日々出ています。そのような中、医療従事者の方々は今も緊張の中で働いてくださっています。また、私たちの教会には、健康上の理由や諸事情があってお戻りになれない方々も多くおられます。そのような方々、また子どもたちを覚えて、神様のお守りと祝福を祈ってまいりましょう。

さて、先週の宣教で、安倍首相の肝いりで厚生労働省から支給されたマスクをフィリピンの子どもたちの命を守るためにくださいとお願いをしましたが、宣教を聞かれた姉妹が水曜日にわざわざ教会へ持って来てくださいました。教会前を行き交う人たちにも少し呼びかけようと思って娘に看板を書いてもらい、教会前に置きましたら、翌日の朝にマスクがポストに入っていました。それを見た時、私と娘は非常に感動し、ハイタッチをして喜びました。フィリピンでは劣悪な環境に置かれている幼い子どもたちが多いと聞いています。もしよろしければ、この活動にご参加ください。28日まで集めて送りたいと思います。

わたしたちは、3ヶ月間も教会と兄弟姉妹たちから離れていましたから、教会の皆さんと分かち合いたいことが、皆さんにもきっとたくさんお有りだと思います。わたしにもお話ししたいことがたくさんありますが、今しばらくは、みんなで一緒に座ってゆっくりお話しができませんので、その恵みを言葉にしたためて、今月21日に発行予定の月報か来月の月報にぜひ寄稿してください。短くても長くても結構です。来週18日までにメールで送っていただければ6月号の編集に間に合います。来月になっても大丈夫です。この3ヶ月間で体験したこと、感じたこと、思ったこと、考えさせられた事などをお聞かせいただければ嬉しいです。

さて、今回の新型コロナウイルス感染に対する不安と恐れの中、また外出自粛期間を通して、わたしたちはどのようなことを学んだでしょうか。何を強制的に学ばされたでしょうか。このウイルス感染が発端となり、暮らしへのアプローチの仕方、人との接し方、生活リズムやスタイルの変化、仕事や学びの形態の変化、時間の使い方など、幾つものパラダイムが強制的にシフトチェンジが求められ、対応が大変であったと思いますし、対応できていない部分もあると思います。また、今まで重要に思って来たもの、ひたすらしがみついていたものがいかに脆くて儚いものであったかが分かったかもしれません。何が本当に重要で、何が必要でないのかがようやく分かったかもしれませんし、あるいはそのようなプロセスの中にいま置かれているかもしれません。このコロナウイルスが原因で人生が悪い方へ大きく変わってしまったという方もたくさんおられます。また、これがきっかけで新しい道が開いたという方、あるいはやっと重い腰を上げることができたという方もおられるかもしれません。

私は3年前に左肩の五十肩で大変苦しみ、治療に一年以上かかりましたが、親身になって治療してくださった接骨院がこのコロナのあおりを受けて、今月いっぱいで閉院することになったことを知らされ、大きなショックを受けました。そうしたら、先週から右肩に五十肩の症状が出始めました。お世話になったことへの返礼が何もできない。なんともやるせなさを感じています。そのような中で、昨日も右肩の治療を受けている最中、マッサージをしてくださっている院長先生とご家族のために祈り続けました。私のアメリカの知り合いは、コロナウイルスで同僚を二人失ったそうです。今は、ブラジルなど南米に感染と被害が拡大していますので、そのためにも祈る必要があります。このように教会に集まる時、わたしたちはお互いとその家族の健康と命のことを考え、思いやりと細心の注意を払い合うことが求められていますので、礼拝前にお願いしたことへ今後もご理解とご協力、お祈りをお願いしたいと思います。

さて、一緒に礼拝をおささげできない間に、新しい年度が始まり、2ヶ月が過ぎました。今年度は、「主の導きに従って前進しよう〜霊の実を結ぶ教会〜」という年間標語を掲げて、ガラテヤの信徒への手紙5章22節から23節、そして25節を年間聖句として聴き従って参りたいと願っていますが、その聖句は今朝の礼拝への招きの言葉として読ませていただきました。もう一度読ませていただきたいと思います。週報の表紙にもあります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」。

わたしたちの目標は、主に信頼して前進すること、神様と主イエス様の喜ばれる霊の実を結ぶこと、結ぶために聖書に聴き、祈り求め、共に生きてゆくことです。どれだけ多くの実を結ぶかを考える必要はなく、神様と主イエス様の喜ばれる実を結ぶことが大切です。しかしどうでしょうか。この新型コロナウイルスもそうですが、毎日のようにわたしたちの心を試すような、躓かせるような、脅かすような出来事が起こり、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝できないように仕向けられてしまいます。日々のストレスから、楽しいことや面白いことに心が移ってしまったり、なびいてしまうことがあります。その反対に、蓄積されているストレスを、心の中のモヤモヤを悪い形で発散させようとしてしまう誘惑に駆られることもあります。心が疲れ、弱っていますから、些細なことでムッと来たり、つまらないことをつい言ってしまったり、してしまうことがあり、ハッとさせられることもあります。先週も、そのようなことがたくさんありました。

アメリカのミネソタ州で起こった本当に痛ましい事件、アフリカ系アメリカ人のジョージ・フロイドさんが警察官の度を越した暴力によって亡くなるという事件が発端となり、ソーシャルネットワークSNSですぐに全米に拡散され、手のつけられない暴動と略奪に変わってしまい、それがアメリカ各地に飛び火してしまい、本当に悲しい、痛ましいことが行われています。メデイアは暴動と略奪するところ、抗議する者たちと警察官のにらみ合いを報道し、平和な抗議活動、平和の行進を報道する比重の差は歴然です。怒りや憎しみだけがクローズアップされ、人々の悼みや静かで平和的な抗議活動がクローズアップされません。

アメリカの家族から、ロスアンゼルスでも、家族が住む地域でも爆発音や銃声が聞こえたり、絶え間なく警察や消防車のサイレン、上空を行き交うヘリコプターのエンジン音を聞いて甥っ子たちが怯えていると聞くと、心が張り裂けそうになります。私も1992年のロスアンゼルスの暴動の時に大学生でしたから、恐怖は体が覚えています。甥っ子や家族や19年間私を育んでくれた大好きなアメリカが苦しむ姿を、指をくわえてインターネット上で見るしかない、そこにいてあげられないもどかしさを痛みとして感じますが、主イエス様によって祈ることが教えられている。祈ることができる。祈る特権が恵みとして与えられている。なんと幸いなことでしょうか。人と人が対話をする前に、神様に祈り、神様と対話し、神様の助けを求めることが重要です。主イエス様の御名によって祈る。イエス様が執りなし、励ましてくださる。主イエス様とご聖霊を通して、神様はわたしたちに真の愛と忍耐と勇気、人々と交わすべき言葉を与えてくださる。だから、祈ることと聖書を読むことは大切なのです。

4月末から進めていますガラテヤの信徒への手紙に聴くシリーズを今朝はお休みして、「霊の結ぶ実は愛である」という「愛」について、残る時間をお話しさせていただきたいと思います。まず、重要なことを確認しておきましょう。それは、「霊の結ぶ実は愛である」ということ、わたしたちだけでは、わたしたちの努力や力だけでは、神様が求めておられる「愛」という実は決して結べないということです。そしてこの霊の助けを受けて実を結ぶためには、主イエス様につながっていなければ結べないということをしっかりと分かっていたいと思います。つまり、わたしたちには救い主イエス様が常に必要であるということです。よろしいでしょうか。イエス様につながっていなければ、わたしたちの結ぶ実は不完全のまま、実として熟さないということです。つまり、不完全なままの愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制となるということです。そうなると満たされることはありませんから、時間が経過したらまた渇望するようになるということです。

私は、この3ヶ月間、いろいろなことをやって過ごしましたが、その中で25年前に神学生であった自分が母教会に書き送った手紙を読み返し、自分はどのようなことを考えたりしていたのかを思い起こすことをしました。それは過去を振り返ることであって、前進ではないようにお感じになるかもしれませんが、過去を振り返った時に前進する力が新たに与えられるということにも気付かされました。私はケンタッキー州ルイビルにあります南部バプテス神学校というところで3年間の学びをさせていただきましたが、その期間、自分を愛と祈りを持って送り出してくれた母教会に報告を兼ねて毎週手紙を書き、数えると129通の手紙を送っていました。

ケンタッキーはイリノイ州とかオハイオ州という位置的にはアメリカ北部に近いのですが、南部の州として考えられていて、神学生の多くは南部のテネシー、アラバマ、ミシシッピー、ジョージア、サウスキャロライナ州から来ていました。ですから、人種差別を露骨に受けるとか、偏見があるなと感じることは何度かありましたが、人種のるつぼと言われているロスアンゼルスでもそのように感じることもありましたから驚くことはありませんでした。しかし、差別を受けるということは神学校では一度もありませんでした。私の高校時代のベストフレンド・親友は韓国人でした。神学校時代の親友は、体の大きなテネシー州出身でした。大久保教会の牧師として最初の10年、大変な時を支えてくれたのは教会の皆さんとそして宣教師夫妻でした。日本に帰って来て22年、私が最も信頼する親友はアメリカ南部のアラバマ育ちで関西弁を使う面白い宣教師です。

今から25年前の感謝祭の時、11月でしたが、この大久保の地で福音の種まきをしてくださったハロウェー先生ご夫妻を訪ねてテネシー州ナシュビル行く機会がありました。その時、ハロウェー夫人から「お金がない貧しい神学生は、クリスマスやイースターが近づくと血液を売って得たお金を献金していた」と聞きました。今ではそういうことはありませんが、ハロウェー先生たちが神学生であった時代はそうやって献金していた事実を知り、驚き、その年の12月に神学校で献血週間があった時に、私は生まれて初めて献血をしました。そしてその時に実に記憶に残ることを経験しました。

お昼の休憩時間に、私は献血する場所へ行ったのですが、部屋に4つか5つの椅子が置かれていて、その一つに座らされたのですが、そこに白人の女性の神学生とアフリカ系アメリカ人の神学生が入って来て、みんな同時に採血を受けました。アジア人の私、白人の女性、そして黒人の男性。黄色、白、黒と言ったら人種差別になるでしょうか。でも、それが重要ではないのです。イエス様を救い主と信じる3人から採血されて、細い管を通っている血液の色はみんな綺麗な「赤」だったのです。私が皆さんに伝えたいことは、わたしたちは肌の色や性別や生い立ちや民族性が違っていても、わたしたちの体に流れる血液は赤いのです。みんな同じなのです。

神様が与えてくださった命と愛はみんな高価で尊い、平等なのです。神様には偏見や差別は一切ありません。一人一人を愛と配慮とご計画を持って造ってくださいました。罪に陥り、神様から離れたわたしたちを見つけ、罪と永遠の死から救い出すために、救い主イエス様はわたしたちに代わって、十字架上で贖いの死を遂げて、わたしたちの代わりに真っ赤な血を流してくださった。それはわたしたちが罪赦され、この地上で共に主を見上げ、互いのために生きるため、仕え合うため、愛し合うためです。主イエス様は復活されました。正確には神様に愛によって死から引き上げられました。それはわたしたちに永遠の命を与え、希望を与え、どんなに辛く大変な道のりであっても、いつも共にいて歩んでくださるため、わたしたちを慰め、励まし、力付けるためです。

今朝の聖書箇所をもう一度ご覧ください。コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章4節から7節です。この13章は愛の箇所として有名な箇所ですが、このようにあります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」とあります。

今朝はこの一つ一つを取り扱いませんが、この箇所の最初と最後の部分に注目したいのです。「愛は忍耐強い」とあり、「愛はすべてに耐える」とあります。神様が主イエス様を通してわたしたちに与え、実を結びなさいと求めている愛は、忍耐に始まり、耐えることに終わるのです。人生というのは簡単な道はないのです。その簡単でない険しい道をわたしたちと共に歩んでくださるために、イエス様は誰も歩みたがらない十字架の道を歩んでくださり、命をかけてわたしたちにどのように互いに愛し合い、励まし合い、仕え合って行くのかを教えてくださいました。この救い主がわたしたちには必要です。この救い主につながり続けることが大切なのです。

8節にこのようにあります。「愛は決して滅びない」。「愛は決して滅びない」。この神様の愛を今朝も受け取りましょう。この愛が、わたしたちを励まし、謙遜にし、主のために、人々のために生きる力を与えてくださいます。