「祝福された者が祝福する者へ」 6月第四主日礼拝 宣教 2020年6月28日
ガヤテヤの信徒への手紙 3章1〜14節 牧師 河野信一郎
東京でのコロナウイルスの新規感染者数が連日50名を超える現状ですが、今朝もこの礼拝堂に集められ、ご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。ここにおられる皆さん、またインターネットを介して共に礼拝をささげておられる皆さんを嬉しく思いますし、心から感謝です。
この礼拝堂に集まって再び礼拝をささげることができるようになって、今朝が4回目です。
今月のわたしの日曜日の朝ごとのお祈りの内容は大きく分けて4つあります。1)今日も主の愛と憐れみのうちに生かされていることへの感謝。2)礼拝者として今日教会に来られる方々の行き帰りの道が守られるように、3)教会に戻って来たくてもそれが叶わない方々の健康と信仰が守られるように、4)教会が感染源のクラスターにならないように、というものです。この4つ目の教会が感染源にならないようにという祈りは、神様の憐れみとお守りはもちろんのこと、わたしたち一人一人のお互いへの思いやりと配慮、感染を防止するという思いの一致、そして途切れないみんなの協力が必要不可欠です。
今後どのような感染状態にまた陥るか分かりませんので、感染に不安を感じる方や、ご自身やご家族の健康と命を守らなければならない責任がある方は、教会に対して遠慮する必要は全くありません。神様は全てをご存知です。どうぞ神様に委ねつつ、礼拝ライブ配信を通して神様に礼拝をおささげいただきたいと思います。このライブ配信やビデオでご覧になれない方々へは、週報と宣教の原稿をすぐにお送りするようにいたします。
今この時は、わたしたちにとって忍耐の時、心一つに祈る時、感染が収束することをひたすら信じて待つ時です。わたしたちは人間ですから、不安になるのは当然ですが、今は焦ったり、混乱したり、また投げやりになるような時ではなく、神様と主イエス様を信じて静まり続ける時、神様が御力を発揮してその御心のままに働かれるのをひたすら待つ時です。神様はもう今すでにご計画をもって働いておられます。
しかし、わたしたちの目が目の前の厳しい現実だけを見てしまうと、その背後にある神様のご計画を見ることができません。大切なのは、神様から与えられている「信仰」という目で、見えないものに目を注ぐということです。コロナ感染がいつ終息するのか、わたしたちには分かりませんが、わたしたちに必要なのは、大いなる愛と御力、ご配慮とご計画を持たれる神様とイエス様を信じ続けること、イエス・キリストにつながり続けることです。
さて、今朝も皆さんと分かち合いたいことがいくつかありますが、厚生労働省から各家庭に支給されたマスク、その使用しないマスクを集めて、貧しさと劣悪な環境に置かれているフィリピンの子ども達に配布したいと教会内外へ呼びかけさせていただきましたが、本日がその締め切りの日です。しかし、なんと驚くべきことに、今日までに46世帯から92枚プラスのマスクが寄せられています。「プラス」というのは、市販のマスクをわざわざ購入して教会のポストに入れてくださった地域の方がおられました。また、この礼拝ライブ配信をご覧になってマスクを教会員に託してくださった方もおられます。わたしたちの心に働きかけてくださり、寛容さという霊の実を結ばせてくださる神様と、フィリピンの子どもたちにマスクを使って欲しいと一歩前に踏み出してくださったその寛容な心を持たれた方々に心から感謝いたします。
ただ、残念ながら今回は協力できなかったと感じておられる方が今朝ここにおられるかもしれません。しかし、この100枚近いマスクを名古屋市にあるNPOへ送る送料が必要ですので、その部分でご協力いただけると嬉しいです。たくさんのお金は必要ありません。今朝は献金箱の上に小さなガラス瓶を用意しました。そこに50円玉、100円玉を入れていただき、送料をサポートしていただければ誠に感謝です。もし多くいただいた場合は、その差額分の切手を購入してマスクと一緒にお送りし、フィリピンへ送る送料の足しにしていただきたいと考えています。
さて、先ほど「献金箱」と申しましたが、大久保教会では、しばらくの間、礼拝の中で神様へ献金をお献げするのではなく、礼拝の前後に、自由にお献げすることにしました。そのために、最初は簡易の献金カゴを石垣先生が用意してくださったのですが、その翌週から前のスクリーンに映し出されているこのような立派な献金箱になりましたので驚かれた方もおられたと思います。
実は、この献金箱は、F教会のI先生が作ってくださり、わたしにプレゼントしてくださったものです。大久保教会への贈り物ではないことが実にI先生らしいのですが、この献金箱は「あられ組み木」という手法で作られた、釘を一本も使用していない組み木の箱です。十字架の下にはアルファとオメガの文字がありますが、これも先生が糸ノコで作ったもので、十字架も先生が作られたものです。この十字架の中には「シェマー・イスラエル」という申命記6章4節から9節、11章13節から17節のみ言葉が入っています。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」というみ言葉です。
I先生ご夫妻は、この20年間、わたしのような者とその家族にいつも良くしてくださいますが、今回のコロナ禍における大久保教会の取り組みをお話しした途端、この献金箱をたった1週間で作って、そしてわざわざ教会まで届けてくださいました。なぜそこまで良くしてくださるのか、正直分かりません。先生ご夫妻のために特別に何かしている訳でもありません。でも、本当に可愛がってくださる。わたしは、本当に色々な方々を通して神様に愛されているなぁ、神様に祝福されているなぁと思わされ、感動するのです。
昨晩も、今朝の宣教の準備をしている最中に親友からラインがあって、今朝のこの宣教のために、わたしが主の御霊で満たされ、語るべきことが語れるように祈ってくれている言葉が届けられました。とっても励まされましたし、感謝しました。大久保教会の皆さんをはじめ、本当にたくさんの方々がわたしのような者のために耐えず祈り、励まし、支えてくださっています。わたしは本当に祝福された幸せな人間だと感じます。
しかし、わたしだけが特別ではないのです。今朝この礼拝堂におられる皆さんも、カメラの向こう側で礼拝をささげておられる皆さんも、みんな一人一人が神様に愛され、救い主イエス様によって罪赦され、主イエス様に祈られ、執り成しを受け、ご聖霊に守り導かれている幸いな方々、祝福された方々なのです。
今朝は「祝福された者が祝福する者へ」というタイトルで、ガラテヤの信徒への手紙3章1節から14節のみ言葉を通して神様のみ言葉を聴き、ここから主の愛を受け取り、この素晴らしい祝福・恵みに答えて生きてゆくことがわたしたちに対する神様の御心であることを知って、互いに喜び合いたいと願っていますが、先ほど読みましたこの3章の1節から14節の言葉の中で、最も重要な1節はどれだと思われますか。
宣教のタイトルに「祝福」という言葉が二回用いられているから8節と9節あたりではないだろうかと思われるかもしれません。確かにその部分も大切だと思いますが、この宣教の準備をしている祈りの中で示されたのは、13節の言葉です。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」とあります。これはどういう意味でしょうか。「木にかけられる」とは十字架にかけられて死ぬという意味です。
まず、今朝は皆さんに簡単な算数の問題を出したいと思います。1X1の答えは何でしょうか。1です。では、1X−1(マイナス1)の答えは何でしょうか。マイナス1です。では、−1X−1の答えは何でしょうか。プラス1、つまり1です。
イエス様がわたしたちの身代わりとなって十字架にかかってくださった理由は、わたしたちが支払うべき罪の代価をわたしたちに代わって支払ってくださるためでした。わたしたちには数え切れないほどの罪や弱さがあります。人には言えない醜い過去があったりします。それをわたしたちは「恥」と言ったり、「人生の汚点」と言います。つまり、わたしたちにとってそういのは人生のマイナスの部分です。つまり、−1です。この−1を償って+1にするために必要なのは何でしょうか。それは−1なのです。+1ではないのです。
ユダヤ教の影響を強く受けているユダヤ人クリスチャンたちは、イエス様を救い主と信じるだけではなく、モーセの律法を行うことによって確実に救われると信じていましたが、使徒パウロは、「いやそうではない、イエス・キリストを救い主、贖い主と信じる信仰によって救われ、ユダヤ人だけでなく、信じるすべての異邦人も救われる、それがキリスト・イエスの福音だ」と宣教しました。
イエス様を信じつつ、同時に律法を行うというのは、自分の力で救いを得ようとすることで、イエス様の十字架の死を無意味しているとパウロ先生はガラテヤのクリスチャンたちに懇切丁寧に説明するのです。つまり、わたしたちの「罪」という−1と神の子であるイエス様の十字架上での死という−1が掛け合わせる時に、+1となって、わたしたちは神様の愛と憐れみによって救われるのです。自分の救いのために律法を行うという+1と自分の罪という−1を掛け合わせても、−1のままなのです。皆さん、分かりますか。
わたしたちの罪である−1を帳消しにするために、イエス様が−1という呪いの木という十字架にかけられて贖いの死を遂げてくださったが故に、+1の祝福がわたしたちにもたらされたのです。イエス様の十字架と復活を信じるすべての人にこの祝福がもれなく与えられています。
この愛と罪の赦しが与えられているわたしたちは、ただただ、その神様とイエス様の愛を信じ、救いという恵み・祝福を感謝し、喜んで受け入れれば良いのです。−1x−1=+1なのです。神様の愛は、赦しは、とってもシンプルなのです。イエス様の救いは、とってもシンプルなのです。その愛と赦しと救いをとっても難しく考えてしまうのが、自分の知恵と力に頼ろうとするわたしたちの弱さ、「罪」なのです。
パウロ先生は書き送ります。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを(とってもシンプルな信仰から)惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で(神様の愛は)はっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”(聖霊)を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも(キリストの)福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験した(イエス様を救い主と信じた)には、無駄だったのですか」と質問を投げかけます。つまり自分の力や努力で救いを完成しようとなぜそんな無駄な努力をするのですかと問うのです。
皆さんはどうでしょうか。自分の力や努力で幸せを掴もうとか、成功を収めようとか、大切な人を守ろうとか、信仰を得よう、救いを得ようとしてはいないでしょうか。自分の人生のマイナスをどうにかプラスにしようとあくせくしてはいないでしょうか。しかし、自分の力や努力ではどうしてもダメなのです。どんなに頑張っても、どんなに願っても、自分の力だけでは−1は+1にはならずに、−1のままなのです。どうしてでしょうか。イエス様を抜きしては、わたしたちは罪人であるから、弱さや欠けをたくさん持った者であるから、どんなにあがいてもダメなのです。
わたしたちに必要なのは神様の憐れみであり、救い主イエス・キリストであり、罪の赦し、「わたしはあなたを愛している。わたしの許に帰って来なさい。あなたを祝福する」という神様の優しい声、神様の約束です。この約束を信じることが「信仰」なのです。神様を信じて、主と仰ぐことなのです。しかし、この信仰も神様から与えられている恵みです。わたしたちの信念では決してありません。この信仰は、神様の言葉を信じる時に与えられます。そして、この神様の言葉とは、イエス・キリストです。
6節に「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」とありますが、アブラハムは律法が与えられる前の時代に生きた人で、神の言葉、約束の言葉をただ信じて、神様に「義」と認められた、つまり神様が喜ばれた信仰の人です。つまり、アブラハムのように、神様の言葉を信じて生きる人は信仰の人とされ、アブラハムの子とされ、祝福された者と恵みのうちにされるのです。
7節から9節をご覧ください。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたの故に異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」とあります。
また14節をご覧ください。「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」とあります。わたしたちは、神様が主イエス様を通して与えてくださる「信仰」によって祝福してくださっています。
まだこの祝福を受け取っていない方は、ぜひイエス様をあなたの救い主と信じて心に受け入れてください。そうすると、神様の霊があなたの心に入り、あなたの傷ついた心を愛で癒し、完全に回復させ、まったく新しい力、喜びと感謝と平安と希望とで満たしてくださいます。
それは何のためでありましょうか。それは、先に祝福された者がまだ祝福に預かっていない人々とイエス・キリストの十字架と復活という福音を分かち、その人たちに救い主を紹介し、神様の愛をもって祝福するためです。すべての祝福は、イエス様を救い主と信じる恵みから始まります。信じて、主を賛美しましょう。