「約束による相続人」 8月第二主日・平和を覚える礼拝 宣教 2020年8月9日
ガラテヤの信徒への手紙 3章29〜4章7節 牧師 河野信一郎
おはようございます。東京のコロナウイルス新規感染者数は二日連続で420人を超え、全国的にも新規感染者数が爆発的に増えていますので、予断を許さない、深刻な時期を過ごしています。しかも今週が夏休みという方が大半でいらっしゃって、ご実家に戻りたくても戻れないという方が多いと思います。しかし今年の夏は本当に特別な年で、ひたすら我慢しながら、自制しながら日々を過ごすことが、コロナ終息への最善の近道になると思われます。このコロナウイルスに影響されていない人は一人もいません。みんな大変な中に置かれていますが、すべてをご支配される神様に信頼しつづけ、共に主イエス様のみ言葉に耳を傾け、ご聖霊の励ましを受けつつ共に祈り続けてまいりましょう。
さて、今日は2020年も8月9日です。75年前の1945年8月9日、午前11時2分に原子爆弾が長崎に投下され、一瞬にして約7万4千人の方々が亡くなり、同じく7万4千人ほどの重軽傷者を出ました。この悲惨な出来事と悲しみを覚える日が今日です。三日前の6日は、午前8時15分に広島に原爆が投下され、推定で約14万人の方々が亡くなられました。今日よりももっとたくさんのセミが鳴いていたことでしょう。ここ最近の猛暑日のような暑い日照りの日であったと思います。その日、広島の空を眺めていた人と私は40年前にアメリカの日本人教会で出会い、それから30年以上、とても可愛がっていただきました。
今朝の礼拝は、「平和を覚える礼拝」としておささげしていますが、今週土曜日の15日は、ある人にとっては「終戦記念日」であり、ある人にとっては「敗戦記念日」、アジア諸国の人たちにとっては苦しみからの「解放の日」です。歴史上、まったく同じ日であるのに、ある人にとっては悲しみの日であったり、屈辱の日であったり、喜びの日であったりするわけです。戦争・戦いは、真の平和を生み出すことは決してありません。痛みや悲しみや憎しみを生み出し、それを増幅させるだけです。勝者は誰一人として存在しません。誰もが傷つき、悲しみ、苦しみます。そのようなことを覚え、真の平和の実現のために、神の言葉であるイエス・キリストから、聖書の言葉からわたしたちに何ができるのだろうかということを聴いてゆきたいと願っています。今朝、ご一緒にこの礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。
わたしたち大久保教会は、4月からガラテヤの信徒への手紙を1章から読み進め、神様のみ言葉を聴いています。今朝は3章29節から4章7節を通して、「約束による相続人」というタイトルで宣教をさせていただきたいと願っていますが、この宣教は21節から続いた神のアブラハムに対する祝福の「約束」とその430年後にモーセを通してイスラエルに与えられた「律法」の関係性について記されている部分の最後の部分で、8月26日と先週の9月2日の礼拝の中で語らせていただきました2つの宣教の続きとなります。
この手紙を現在のトルコ共和国にあったガラテヤという異邦人の地に生きるクリスチャンたちに書き送った使徒パウロは、律法を守って生きる生き方は奴隷のような生き方であって、その不自由さから解放してくださったのが救い主イエス・キリストであり、この神様から遣わされた御子イエス様を信じて従う生き方が祝福への真の道であると語り、説明します。
26節にこのようにあります。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とパウロ先生は言います。あなたがたは「皆」という言葉が重要です。イエス・キリストを救い主と信じているすべての人は「もれなく」という意味です。「信仰により」とありますが、わたしたちに信仰を与えてくださるのは神様であり、主イエス様です。つまり、ガラテヤのクリスチャンたちは、そして今日を生かされているわたしたちは皆、神様にもれなく愛されている存在であり、イエス様に堅く結ばれている存在であり、イエス様に結ばれている者はすべて神の子なのですと宣言されている訳で、これって信じられないほど大きな「幸い」、「恵み」なのです。
それだけでも本当にすごいことなのですが、パウロ先生は29節でこのように宣言しています。「あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、取りも直さず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と。この「キリストのものだとするなら」という言葉は、「キリストに属しているならば」とか、「キリストにつながっているならば」という意味の言葉です。英語では「belong」という言葉が用いられています。わたしたちは、イエス様を救い主と信じることができるだけでなく、このお方によって罪赦され、新しくされ、アブラハムの子孫の一人として見なされ、それだけでなく、約束による神の祝福の相続人であるとパウロ先生はここで何の遠慮もなく、確信に満ちて宣言するのです。これってすごいことです。
この祝福をどうやって例えたら良いのでしょうか。どうやって例えたら、わたしたちはこの信じがたい大きな祝福を自分に与えられている神様の大きな愛、憐れみ、恵みとして受けることができ、喜び、感謝し、平安と希望を持って生きてゆくことができるでしょうか。わたしには答えがないので、4章1節から7節をご一緒に聴いてゆきたいと思います。
パウロ先生は、「つまり、こういうことです」と言い、約束による相続人とはどういう人であるのかを説明し始めます。1節と2節を読んでゆきたいと思いますが、実際にはなかなか掴みにくい箇所と感じられます。とにかく読んでみましょう。「相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わることがなく、父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます」とあります。これはどういうことでしょうか。頭がこんがらがります。相続人は、祝福を受ける特別な権利が与えられています。すべての祝福はその人のものです。しかし、父親が定めた期日までは、その祝福にアクセスできない、自由に持ち出せたり、自由に使えないということ。また、「後見人や管理人の監督の下にいます」とありますように、大きな縛りがあるということです。その扱いは、僕、奴隷と変わらない、そういう不自由さがあるということでしょう。モーセの律法に生きる人、自分の救いのために律法を守ろう、つまり自分の力や努力で祝福を得ようとしている人はすべて奴隷のように、僕のように束縛の中に、不自由さの中に生きて苦しみ悶えるのと同じであり、そのように奴隷のように仕えて生きてきたとパウロ先生は言います。
しかし、4節でパウロ先生はこう断言するのです。「しかし、時が満ちた」と。父親が定めた期日が来た、全財産を、すべての祝福を自由に受ける時が来たと。その神様が定めた「時」というのは、わたしたちの救いの日、救い主イエス・キリストの誕生から始まり、イエス様の十字架の贖いの死を指します。4節を読みましょう。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者(ユダヤ人)としてお遣わしになりました。」とありますが、次の5節にそのようにされた神様の理由と目的が記されています。「それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」とあります。イエス・キリストを神様から遣わされた救い主、贖い主と信じるすべての人は、もれなく、その信仰によって神の子としての身分を受けることができるというのです。
ヨハネによる福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。神様はわたしたちに永遠の命、永遠の祝福を与えるために独り子イエス様をくださいました。
父なる神様から遣わされたイエス様ご自身は、その命を十字架上で捨ててくださるほどまでにわたしたちのことを愛してくださっています。わたしたちの罪を取り除き、神様との関係を修復するため、わたしたちを神の子どもたちとするために十字架に架かって死んでくださいました。このイエス様を救い主と信じるすべての者がアブラハムの子孫であり、神様の約束による相続人であると宣言されています。
さて、パウロ先生は6節で、神の子とされるということは、つまり神様の霊、イエス様の霊であるご聖霊を受けることであると言っています。このように記されています。「あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」とあります。「アッバ」というのは、アラム語でお父さん、英語ではダディーという親しみを込めた呼び方です。神様を「アッバ、お父さん」と呼べるということは、律法に縛られ、自分の力で救いを得ようとしていた自分、奴隷の身分からもはや解放され、神の子、祝福を永遠に受け継ぐ者とされている幸い、恵みのうちに生かされていることの証であるとパウロ先生は言っています。
最後に「相続人」ということを考え、わたしたちは主イエス・キリストを通して神様から何を相続する約束がなされているのかを考えたいと思います。イエス様を信じて、この主にしっかりつながっているとどんな祝福を相続することができるのでしょうか。永遠の命はいうまでもありませんが、この地上で生かされている間にもわたしたちが相続しているものがあるとしたら、どのようなものがあるでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。
平和を覚える礼拝をささげている中で、自分の心に手を当てて問うてみましょう。「わたしは今、平和か」と。「わたしの心は平安か」と問うてみましょう。このコロナ禍で、感染の恐れと不安の中で、将来が不透明な中で、わたしたちの心には平安ではなく、葛藤があるのではないでしょうか。
この5ヶ月の間に失ってしまったものがあるかもしれません。いま手にしているもの、今まで頑張って築き上げて来たものを失うかもしれないという恐れや不安がのしかかって来ているかもしれません。この思いをどこへ持って行ったら良いのかと、やりどころのない怒りを抱いているかもしれません。このコロナの一連の出来事、あるいは誰かに対して苦々しさや憤りを感じているかもしれません。この5ヶ月間、ずっと孤独を味って苦しんでおられるかもしれません。自分がこれからどうなってゆくのか見当もつかないという中で、希望を失いかけておられるかもしれません。つまり、イエス様を見失いかけ、信仰を捨ててしまおう、教会から離れようと真剣に思っておられるかもしれません。そういう心の状態のわたしたちに何が約束され、いったい何を相続する者としてわたしたちは生かされているのでしょうか。
神様がわたしたちに約束してくださっているのは、「わたしはいつも必ずあなたと共にいる。あなたを愛し、守り、導き、祝福する。そして永遠の命を与える」ということです。その約束を守るために、わたしたちを罪の奴隷から、恐れや不安やありとあらゆる肉の思いから救い出すために、神様は御子イエス・キリストをわたしたちにくださったのです。イエス様は、あなたを、わたしを、わたしたちを救い、神様と永遠に平和に生きるために、その命を十字架上で捨てて、わたしたちに与えてくださったのです。
ですから、7節でパウロ先生はこう宣言しているのです。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。」わたしたちは、救い主イエス・キリストにあって、罪から解放され、神の子として永遠に神様と生きる者、永遠に祝福された者、永遠に神様をほめたたえる者として恵みの中に、永遠の愛の中に生かされている存在です。この約束を信じて受け取ること、まだ見ていない、得ていないけれども、与えられているように確信すること、それが信仰です。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11章1節)